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歩くザーメン製造機、読む糞尿工場、考える細胞のカタマリ、モーニングババアとジャニーズおっさん、空無渺茫、

四月二二日

「それはそうね」彼女は理屈の通った返事をした。「でも、あなたは立ち上った、そうでしょ? あなたが安全な場所にじっとしていていけないっていう理由はないわ」
そう言われては、ぼくも言葉に窮する。というのは、ぼくが立ち上ったのはとっさの判断がつかなかったからだとは言いにくいからだ。立ち上るのが危険かもしれないということがぼくには分っていなかった。じゃあ、何だったろう? とぼくは考えた。英雄的行為というものは大てい衝動的に行われるものだ。考えたり、先の危険を予測したりしていれば、英雄的行為に突進できなくなるのがふつうである。有難いことに、ぼくは今英雄なのだ。されば、ぼくは英雄で通すとしよう。

ジョン・ウェイン『親父を殴り殺せ』(中川敏・訳 晶文社)

午後十二時七分。緑茶、ソルティ。これを書く前にファミマゆうちょATMで六千円をおろし、ついでにダイソー。丈夫そうなウォレットチェーンを買う。こういうの首にかけている高校生が地方のラウンドワンにはたくさんいるんだろうな。俺は首都に住んでるから分からないんだけど。そういえば金沢美大周辺の石ベンチで漫画ののび太みたいな恰好で寝転がっている一人の男子学生をさっきみた。アメリカの青春映画みたいでいい光景だ。こういう一匹狼的な男子に俺は惚れやすい(幻想でもいいんだ)。学生ってのはやたら群れたがるからね。あの群れのなかには本当は一人でいたい人たちもそうとういるだろう。もっともこれは学生に限ったことではない。それを「友達がいないと思われたくない症候群」なんて言うと新書のタイトルみたいで嫌なんだけど。人間は小物になればなるほど「周囲の同質性」が気にならなくなる。「誰かの口真似」をしていることに何の羞恥も感じなくなる。ところで俺は? 俺はそもそも「いまだに生きていること」に羞恥を感じているのだ。きょうはそこまで寝不足感がない。私見によれば寝不足感と厭世は間違いなく相関している。きょくりょくイラつかずに日々をおくりたければじゅうぶんに眠ることだ。いやだからそれが出来れば苦労しないんだよ。このごろ晩酌中は岩波文庫の『啄木歌集』ばかり読んでいる。三六歳の男が二六歳で死んだ啄木などに琴線を刺激されてはいけない、という気はする。啄木なんて二十歳ごろに卒業しとけ、とも。同じことはシオランを読んでいるときも思う。周知の通り啄木はかなりのクズ男だった。キング・オブ・クズ男と言ってもいいかも知れん。でもいいじゃない。だいたいクズじゃないと文学なんかやらないよ。というか大なり小なり人はクズなんだよ。あるのは大クズと小クズの違いに過ぎない。クズでないと人は生きられない。『啄木歌集』のなかから気に入ったものを五首ならべて昼飯を食おう。

死ぬことを
持藥をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば

一握の砂

死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避けて
怖き顏する

一握の砂

非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ

一握の砂

人間のその最大の悲しみが
これかと
ふつと目をばつぶれる。

悲しき玩具

自分よりも年若き人に
半日も氣焔を吐きて、
つかれし心!

悲しき玩具

俺が大昔に作った歌をひとつ。

いまサナダムシになって
あなたの腸のなかで
暮らしたい

破調にも程がある。除虫剤、除草剤、除人剤。地球の皮膚癌。宇宙内存在。【備忘】1000円+10000円

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