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起きてからのやること、多すぎ、だるい、

六月二十日

脱中心化というのは同時に集団化、組織化に向かっていきますから、そこで再編成され、再生産されていきます。自己中心化とそれに対応した形で脱中心化が再生産される中で差別化が起こってきます。差別には必ず身体が介在してきますが、同時に暴力も介在してきます。私たちは暴力は肉体的な行為と見なしがちですが、テロルを孕んだ精神的行為であると考えるべきです。そしてそこには必ず身体が介在している。

梁石日『アジア的身体』「アジア的身体について」(平凡社)

十二時半起床。アールグレイ紅茶、チョコフレーク。紅茶の袋をあけて大いに嘆息。ティーバックかと思いきや茶葉がそのままが入っていた。なんてことだ、やること増えるじゃないっすか。無精の俺にはこういうことが我慢できない。そうでなくたって起床後は湯を沸かしたりパソコン開いたりやることが多くて、眠たくていらいらしている日なんかああああああああって頭をかきむしって生きることの面倒臭さを呪いたくなるのに。起床後といえば、なにも食べたくもないのに無理やりなにかを口にいれていることが多い。子供のころからだいたいの朝食はそんなふうだった。いまは便通と茶酔い防止のためだけど、快楽主義者としてはこれはあるまじきこと。食う生き物、であることに私はいつまでも慣れることができない。つねに<自然>と呼ばれる何かに反逆しようとしている。

人生ははまことに、残酷限りもない。人生というよりも、「生命」そのものこそ真に呪詛わるべきである。資本家などというゴミのような存在に反逆するより、先ずわれわれの「生命」そのものに反逆せよ。

辻潤『癡人の独語』「ひぐりでいや・ぴぐりでいや」(オリオン出版社)

反逆に際し、<過剰な怠惰>はいい武器になるかもしれない。けれでもそんな<過剰な怠惰>の発現さえ<自然>はあらかじめ想定しているのだ、としたら。地上に生きるすべての人間を<十全に堕落>させるためにはどうしたらいいのか。

吉村萬壱『前世は兎』(集英社)を読む。
短編集。前世が兎だった私の視点で人間たちの不可思議生態を語る「前世は兎」と、教員休職中の独身女の奇行を扱った「宗教」がとくに気に入った。「前世は兎」はさいごまで痛々しい。「今の快感」だけを求める兎のドライさがそう単純なものに見えないからだ。出て来る男たちのほとんどは発情していて気持ち悪い。動物の眼を借りた人間観察という点で、『吾輩は猫である』の末裔と言える。「宗教」に出て来る女は「ヌッセン総合カタログ」をひたすら書き写している。おそらく強迫行為。がんらい無限に不安定な「世界」になんとか秩序をもたらそうとしているんだ。壁クンクンをやめられない今の僕にとってなにひとつ奇矯なところはない。壁からタバコ臭が漏れていることはもうすでに知っているのに壁をクンクンをやめられないのはたぶん憎しみの原因にさえ安定を求めているから。ところでこの作品、「ストレス」でなく「スティレス」なのは、彼女の性癖上、どうしても言語を一般化できないからだろう。自分の個別特殊的な感覚に与える言葉が存在しない。いまチャリが側溝蓋を踏む<いつもの音>が聞こえた。死にぞこないジジイが帰ってきたか。またスティレスがたまる。ヘッドフォンつけよう。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲集だ。とおもったら違った。やったぜ。こうやって文中にいちいちジジイネタをいれてしまうのも強迫行為だよな。ああもう地獄。というわけで吉村文学はだいたいにおいて胸糞悪いのです。良識上のへんな配慮が無い。俺はなにゆえこんな胸糞小説をわざわざ読むのか、としばしば自問自答する。爽快だからだ。胸糞悪さも極まれば爽快さに突き抜ける。超絶不快と超絶快の絶対矛盾的自己同一。筒井康隆や平山夢明や岩井志麻子や江戸川乱歩を読んでいるときにもそんな瞬間が間々あった。山野一『四丁目の夕日』をかじり読みしたときも。この感覚を知らない奴と俺はきっと五分も会話できないだろう。

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