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もしかりに彼が朝目覚めてイーロン・マスクになっていたとしても彼は自分の境遇に少しも満足はしていないだろう、

一月二四日

存在はもっとも甚だしく忘却されているもの(das Vergessenste)であり、この忘却さえもそれ自身の渦巻きのなかへ引き込まれたままであるほど際限もなく忘却されている。われわれはみな、たえず存在者を求めて奔走しており、ほとんど誰ひとりとして存在のことを思ったこともない。

マルティン・ハイデッガー『ニーチェⅡ(ヨーロッパのニヒリズム)』「空虚と豊饒としての世界」(加藤登之男/船橋弘・訳 平凡社)

午後六時一〇分離床。ビートたけしと堀江貴文の対談動画を見て、柿ピー、アーモンド、紅茶。外は大雪で、外出できない。いまから二十時間以上は起きていなければならない。とちゅう仮眠取ろうか。もう紅茶飲んでるから難しいか。目糞鼻糞、宵のうち。ももんがX。今年にはいってからだいたい図書館にいない。昼夜逆転満塁ホームラン。今年のセ・リーグはどうなるだろうか。ひさしぶりにセリーヌを読みたい。『夜の果てへの旅』。中公文庫版の下巻しか読んでない。『なしくずしの死』は四年前に一度耳で読んだ。こんどは紙の本を眼で読みたい。このごろ「強迫さん」のことはあまり書かないけどそれは抑鬱が強いせい。隣の死に損ないのジジイなどどうでもよくなっている。もし私が(不幸にも)永久同居者を一人選ばなければならない立場に置かれ、なんらかの「お試し期間」を与えられたなら、私はただその人物のドアの締め方だけに注意を払うだろう。ドアの開け閉めがガサツな人間は万事においてガサツである。これは騒音問題の研究者でもある俺がはっきり言えることの一つ。

辺見庸『明日なき今日(眩く視界のなかで)』(毎日新聞出版)を読む。
「もうすでに人間は滅亡している」ということを彼は知っている。もうとっくに滅亡しているのにあたかもまだ滅亡していないかのように生きている者たちを見るのは辛い。そういう鈍感さに対してねんねん寛容になれなくなってきた。死者なのに生者のふりをしたがっている者たちはなぜこうも不潔な気配を漂わせているのだろうか。言語に芯がない。深淵がない。後ろめたさがない。憂悶がない。口は動かしているけれども何も語ってはいない。何も信じていないのに何かを信じているふりだけはしている。何もかもを見ていながら何も見ていない。「苦しまぬ者」は非在である。それは白い闇である。生き続けることは犯罪である、という思いを微塵も持っていないような者たち。まつろう民。「権力」を持った人間は、みな暗愚な狂人だ。私はなぜ自餓死を決行しないのだろうか。なぜバートルビーにならないのか。生き続けようとすることの暴力的な不潔さを、知っているはずだろう。食わねば生き続けられないことの恥辱を。おーまいがすと。私が肺一杯に吸い込むことの出来る空気などどこにもないことを、知っているはずだろう。「存在の深淵」から見放され「存在の深淵」を見放したあの偽生者たちと、他に、何を語り合えるというのか。騙る者たち。世界には関節などはじめから無かった。外れることの出来る関節などはじめから無かった。

癖のない 髪に揺り付く 黄金虫

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