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コンクリ詰めの瘋癲猫、朝焼け日本海に沈めば、嵐山の爆竹、ミルフィーユ的造反劇もしくは虚仮威しのパラグライダー、

十一月二一日

「きみは、アルコール症だという自己規定を患者に叩きこまないのだね」
「いや、「きみには酒は合わない」と言ってある。それ以上はしない。私にはアルコール症だというアイデンティティを患者が強烈に持つということは、彼らのブラック・ユーモアに現れているマゾヒズムに奉仕しているような気がする。短期的にはいいが、長期的にはどうかな」
「そういうやり方はどこで見つけたのだい」
「正直にいうとタバコを止めようとして何度も失敗した自分の体験だ。タバコはなかなか止められなくて、ついに止めたのは、自分の病院に病気で入院した時で、看護師さんにとがめられるのが恥ずかしくて止めた。この機会でないとやめられないだろうという気もあった。せっかく入院したのだから、とせめてもの収穫にしたい気もあった。しかし、振り返って見ると、ぼつぼつタバコに見放されかけていたのかも知れない。タバコを吸うと多少息苦しくなっていた。今日は元気だ、タバコがうまいというのは、あれはほんとうだね」

中井久夫『世に棲む患者』「対話篇「アルコール症」」(筑摩書房)

午後十二時二五分起床。栄養調整菓子二本、緑茶。古書店通いの便宜上、本日から「休読日」を火~日のなかから任意に一日選べることとする。休読日を固定するとその日が悪天候だった場合、困る。いくら金沢でも一週間のうち一日くらいは好天日があるものだ。というわけできょう三時一〇分、文圃閣へ出発する。きのう金沢エムザのTSUTAYAへ行ってきた。ICOCAを使って、『ワインズバーグ、オハイオ』の新訳と、岩波文庫の『大衆の反逆』の二冊を買ってきた。さっそく前者をすこし読む。元教師ビドルボームの悲劇を描いた「手」はやはり強烈。でもぜんかい読んだときとかなり違う印象を受けた。

ウィング・ビドルボームは両手でたくさんのことをしゃべった。その細くて表情豊かな指、常に活動的でありながら常にポケットのなかか背中に隠れようとする指が、前に出て来て、彼の表現の機械を動かすピストン棒となる。

「手」

このくだりの悲しさ、痛ましさ。薄暗い生の底の、幽けき悲鳴。悔恨と怨嗟の蠢き。人間的グロテスク。いびつになった精神。一人部屋でタバコを吸い続ける老人の姿が脳裏に浮かぶ。きょう「強迫さん」がちょっと強めだわ。さっきから動悸がする。ヤニ臭と音が気になる。起きてからもう二回も壁クンクンしてるよ。俺もかなり「いびつな人間」になりつつあるな。いずれモンスターになるんじゃないか。あるいは聖人。できればどっちにもなりたくない。俺はつねに他者と自分の痛みに過敏な「考えすぎる葦」でありたい。

人々の一人が真理の一つを掴み取り、自分の真理と呼んで、それに従って生きようとすると、その人物はいびつになる。そして、彼が抱いた真理は偽物になる。

「いびつな者たちの書」

誰もがなにかしらの「偽物真理」を生きている、と言える。それに固執することによって、ますます「いびつ」になっていく。すべての人間は同じくらいに「いびつ」で痛ましい。街にでれば、「このひと病んでるな」と思わせないような人間を探す方が難しい。「生きるのがしんどくない」なんて言いたがる人間はウソをついているか、そうでなければただの鈍感症だ。地獄的世界を陽気に生きている人間の感性など俺は信用しない。「前向きな人間」は悪魔よりもタチが悪い。「ポジティブ思考」は一種の病気だ。上を向いて歩かなくてもいい。泣きながら死ぬのを待つの悪くない「生き方」だ。その「普遍的絶望」を共有できる二三人の友があればなんとか耐えられるよ。俺くらい「人間世界」について「正しく悲観」出来ている人間はそう多くはないだろう。惰性に身を任せる酔っぱらいばかりのなかで、俺だけはその「地獄性」を精確に見抜いているつもりだ。どの国のどんな身分で生まれようとも、やはりその生は「耐えがたい」ものであり、それゆえ例外なしに「存在しないほうがよかった」のである。「このようにある」という現存在を俺はいっさい肯定しない。すべての生は悪夢である。

さあ飯食うか。

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