見出し画像

死んだふり作戦、げすのきわみ、歔欷、

一月二一日

つねづね私達は、古い恐怖小説や新しい映画などにおいて、怖ろしいかたちをした様々な種類の多様な怪物が不意と私達の前に出現し、凄まじい恐怖に駆られた私達がその前を右往左往している情景を読んだり眺めたりしているが、これは実にそれらの「怪物」に対して適切なざらる反応といわねばならない。実際は、宇宙のなかにおける生物の歴史において、恐らく人間ほど怖ろしい怪物はこれまで出現しなかったのであって、右往左往して逃げ廻るのは実はひとりの人間が前景に現れたとき他の「生物達」がとるべきところの最も自然な反応な筈なのであった。

『埴谷雄高思想論集』「暴力考」(講談社)

午後一時四五分離床。そのままガリガリ食えるチキンラーメン、まずい緑茶。寝つきが実に悪かった。でも昨日より二度時間を短く抑えることが出来た。昼夜逆転はやはり好ましくない、という思いが根強くある。こういう自己規律もいずれ破壊しないといけない。骨の髄まで染み込んだエートス(価値意識・行動様式)を捨て去ることは容易ならざることだ。ただ捨てなければならないのだ。でないといつまでも私は「人間」として生き続けることになる。そればかりか日本と呼ばれているこの弧状列島に付着した卑小な「国民」として生き続けることになる。「生きていることは不潔なことだ」ということを忘れるな。ボンバーX。

辺見庸『入り江の幻影(新たなる「戦時下」にて)』(毎日新聞出版)を読む。
一九四五年八月二二日生まれのタモリという芸人が「徹子の部屋」という無駄に長く続いている番組で「新しい戦前」という言葉を発したらしい。デモクラシータイムスの老いた面々がたびたびそのことを持ち出し、辺見庸まで持ち出している。タモリからすれば「たかが芸人の発言になんだよお前ら」と思わないでもないかもしれないが、それはともかくとして、こうしたパワーワードが左派系・反戦系の知識人の口からではなく、こういう黒メガネのシニカル芸人の口から出たということに、私は興味を覚える。安倍晋三というきな臭い人物がああいうかたちで殺され国葬が行われた二〇二二年にはもうすでに日本はアメリカの目指す「対中包囲網」に組み込まれているようだった。「日本がウクライナになってしまう」「台湾有事に備えよ」といった言説が日に日に幅を利かせるようになっている。戦争は国際紛争を解決する手段としてはもっとも合理的、といったのは小室直樹。「もし戦争が起これば」なんて想定自体がとんでもないないことだ、といった凡庸な思考様式を彼は「言霊信仰」と切り捨てた。「もし負けるということがあると・・・」とアナウンサーにマイクを向けられたアントニオ猪木が「出る前に負けること考える馬鹿いるかよ」と怒声を発したことをいま思い出した。私のばあい何をするにしても「どうせ失敗するだろう」と思うことにしている。私ほどひごろ敗北主義に親しんでいる人間はあまりいないだろう。言うまでもないがいま生きているほとんどの人間はろくな死に方はしない。「なんで自分がこんな目に」と悶えながら死ぬだろう。これだけ日常に煩わされながらもけっきょく行き着く先は老いと病気と死なのである。希望など抱くのは愚者だけ。

隣の爺さんが帰ってきた。飯食って図書館へ行くよ。明日は休みだ。マンボウの死体のなかに、入りたい。マンボウの死体のなかから、アラブの王子の小指が発見されました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?