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「待つこと」についての断想、歌で泣いてしまう、

十月十五日

およそ地上を進む方法で騎馬ほどたのしいものはない。歩行、漕艇、自転車などもそれぞれ愉快な運動であるが、それに要する筋肉の運動と判断力の普段の行使とが心の一部を占有し、ほかのことに注意をむけることができなくなる。それで長い徒歩の旅は単に長い歩行以外のなにものでもなくなってしまうことがある。ウマに乗っているときは、わたしたちは努力の意識がない。

ハドソン『ラ・プラタの博物学者』(岩田良吉・訳 岩波書店)

午前十一時四五分起床。花を食いまくる陸ガメの映像を一〇分ほど見て、紅茶、野菜チップス。外はドシャ降りで雷鳴が轟いている。いま天皇と皇后が金沢に来ているらしい。浩宮氏は雨男だな? 

きのう図書館から帰って来たあと一時間ほど人を待っていた。オイラ、人を待つのがひどく苦手なんだ。とくに自室で待つのは嫌い。いつ来るのか分からない誰かを待っているときほど「不条理」を感じるときはない。なんというか相手にもてあそばれているような気になる。待っているあいだは何をやってもまるで集中できない。本を読んでいても文字が滑る。文章もろくに書けない。かといって外を歩くわけにもいかない。宙吊りの時間のなかでイライラだけが募っていく。人と会う約束をあまりしたくないのも「待たされる」のが怖いからだ。「あす午後六時頃に行く」なんて曖昧なことを言われると憂鬱になる。だって六時頃とか言いながら七時過ぎに来る奴いるからね。ほんとうは「午後六時ちょうどに呼び鈴を鳴らす」と言ってほしいのだ(そしてその約束を必ず守ってほしいのだ)。でもそれがなかなか難しいんだよな。ニンゲンダモノ、ソコマデセイカクニハ、イキラレナイヨ。たぶん地獄というところは「五億年ボタン」みたいに永久的に待たされるところなのだろう。「神の救い」を何百年も待ち続けているキリスト教徒の忍耐力はすさまじい。いっぽう俺は「待てない人間」だったからこそ禅(禅宗ではない)に惹かれたのだろう。「いますぐここにある認識」しか俺は信じない。やはりこの「信じる」という言い方には違和感覚えまくりだ。「確信」にしてもそう。まだるっこしい。そう、言語では遅すぎるのである。「色即是空」なんかの「即」でさえ俺には死ぬほどまだるっこしい。もう禅なんか糞くらえだ。

反抗は生命力のしるしであると同時に、形而上学的貧困のしるしでもある。ことの本質に、たったひとつでもいいから、ことの本質に迫ったことがあるなら、私たちはまだ反抗することはできても、もう反抗など信じていない。

E. M. シオラン『カイエ 1957-1972』(金井裕・訳 法政大学出版局)

「待つことが出来ない」というのも形而上学貧困のしるしだと思われる。

ちあきなおみ《喝采》(作詞:吉田旺 作曲:中村泰士)。このごろ深夜に繰り返し聞いている。やはり琴線に触れるんだ。目が潤むこともある。この歌、芥川龍之介の『手巾』にどこか似ている。車寅次郎のいう「顔で笑って腹で泣く」的美学を基調にしている点で。これを「武士道」などとは関連付けるつもりは毛頭ないけど。どれほど悲しみに暮れているなかでも、「降りそそぐライトのその中で」で「恋の歌」を歌ってる私。この明暗の劇的対比。この歌詞がどの程度ちあきの「実体験」に基づいているのか、といった詮索は野暮である。「私小説歌謡」という呼び方にもしっくりこない。俺の涙腺を緩ませる歌といえば『木綿のハンカチーフ』だ。たぶんまえにも書いたけど、「いいえ草にねころぶあなたが好きだったの」のところでほぼ必ずやられてしまう。以前にくらべればかなり耐性はついたけど。NHKの歌謡番組で太田裕美がこの曲を歌っているのを見ながら、「よく泣かずに歌えるよな」と感心していたことを、いま思い出した。俺はアホか。ところでこの歌、二番目いるのかね。「いいえ星のダイヤも海に眠る真珠も」のところなんかちょっと俗甘過ぎやしないか。しかも「星の」が「欲しいの」に聞こえたりもするし。強欲女じゃん。まあ最後の悲哀を引き立てるためもこういう浮かれたところはあったほうがいいのかもね。そもそも青春なんか滑稽なものなのだ。これについては洋の東西を問わない。「僕は二十歳だった。それが人生で一番美しいときだなんて誰にも言わせない」なんて言ってるやつもいる。

そろそろ食うか。昨日の炊き込み御飯を温めて。図書館には早めに行けそう。

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