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私は頭が悪いから、

三月十三日

ああ、自棄なるものは人間至険の境涯なり。彼、求むるところなく、欲するところなし、故に為さざるところなきなり、天下何物かこれに敵すべき。しかれども彼そのまさに至るべきところに至らず、まさに捕ゆべきものを捕え得ず、胸裡一片の悲愁に追われて衷心言うべからざるの苦を生じ、苦さらに苦を追うて迷いを生じ、迷苦錯綜昂進してついに自棄となる。故に自棄の衷心には、哀々の情炎の燃えおるなり。

宮崎滔天『三十三年の夢』(岩波書店)

一時起床。図書館が休みでゆっくりできるので、いつもより三〇分ほど長めに寝た。珈琲とフルーツグラノーラ。フルグラは今日で終わり。底のほうには細かくなったのが多い。牛乳かけるとおいしいのだろうけど、ない。牛乳とは牛の乳腺から分泌される白色不透明の液体のこと。英語ではmilkということが多い。日本で飼育されている乳牛はほとんとが白と黒の斑で有名なホルスタイン種(ドイツのホルシュタイン地方およびオランダのフリースラント地方原産)で、あとは高原地に適するとされるジャージー種(イギリスのチャネル諸島ジャージー島原産)がほんのすこしだけ飼育されている。
このごろは買い物に行けていない。朝も昼もほぼ同じものばかり食っている(しかも作業しながら)。起きている時間のたいはんを読むことに費やしているので、食うことにあまり神経を費やしたくない。さりとて「余裕」がないというわけではない。「余裕」がないとそもそも人の書いたものなど熟読できないし、一つの問題に長時間こだわっていることも出来ない。かえりみるに私は生活の雑務全般が嫌いなのだ。可能なら面倒くさいことをぜんぶ家事機械にでも一任して、ただひたすら読んでいたい。ところで本オタク(booknerd)の世界観では、世の中には二種類の人間しか存在しないことになっている。「本を読む人間」と「本を読まない人間」だ。あるいはこう言い換えてもいい、「本に愛された人間」と「本に愛されていない人間」。私にとって後者はたいてい路傍の人に過ぎない。
いましがた隣の耳障り爺さんが帰宅されました。せっかく快調に書けていたのにとうぶん電子レンジバタンバタンで神経をすり減らすことになりそうだ。年齢を重ねてもこんな醜悪で傍迷惑な存在にしかなれないのかと思うと、生きるのがますます嫌になってくる。惰性とはいえ人がなんとなく「生存」を肯定できている(ように見える)のは、いったいなぜだろうか。もしまともな審美眼の備わっている「全能の神」があるとすれば、大洪水を起こして、人類を地上から消去すべではないか。

『選択』三月号を読む。私が曲がりなりにも人並みの「時事常識」を身に付けているのは月に一度この雑誌を読んでいるからだ。
こんかい印象深かったのは、「トルコ地震「欧州難民危機」が再燃」の記事。キレイゴトでは済まされない「難民問題」特有の複雑さに、軽い眩暈を覚えた。海上にしか国境のない日本には、国境検問所のような施設はない。そんな島国に住んでいると、「すぐそこに別の国がある」という感覚がどうしても薄くなってしまう。見方を変えてみると、外国と「陸続き」ではないからこそ、勝手な外国イメージを膨らませやすいと言えなくもない。「開国」以来、「攘夷論」的なイデオロギーは装いを変えながら何度も繰り返し現れている。一部の政治家が求心力を高めるためにそれを利用することもあるし、鬱憤晴らしに飢えたヘタレ人間が自ら進んでそれを玩弄することもある。
日本にはベトナムからの「技能実習生」だけでも十五万人以上が住んでいる(朝日新聞デジタルの記事によると、「ベトナム人実習生」の来日が増えたのきっかけの一つに、二〇〇三年中国で起こった重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行がある)。もはや「外国人」は特別な存在などではなく、どこにでもいる存在だ。独立行政法人国際協力機構(JICA)は二〇二二年、日本が「経済成長」を続けるため、二〇四〇年には二〇二〇年比で約四倍の外国人労働者が必要だという試算を盛り込んだ研究報告書を提出した。少子高齢化による「人材不足問題」をどうするかという議論に私はあまり興味がないけど、いやしくも「憂国の士」や「愛国者」を気取りたがる面々はもう少しこのへんのことを真剣に考えてもいいのではないか。

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