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バカにつける薬、「まとも」であることの孤独と存在論的世界線、Fラン救国政府、Mの尾骶骨に口付け、トムと沢田研二、

五月六日

では、なぜ母にではなく少女に自己犠牲的な母性を見るのだろう。少女は無垢であり、無知であり、「私」「自我」を主張することなく無私だからだ。この少女の圧倒的なイノセンスは、それを欲望する男性を決して脅かさない。罪悪感すら抱かせないだろう。彼らにとって、少女は安心して母性を求められる存在であり、少女を介することで、はじめて承認欲求と支配欲求を満たすことができるのかもしれない。

信田さよ子『家族と災厄』「第6章 母への罪悪感はなぜ生まれるのか」(生きのびるブックス)

午前十時五六分。コーヒー、スイートアーモンド。手のひらを太陽にすかしてみても真っ赤に流れる血潮がなかった夢をみる。固いものを噛むと奥歯が痛いんだ。経験上、第三大臼歯がらみならほっといてもいずれ何とかなる。そうでないとしたら歯科医院に行かなくてはならない。嫌じゃ。図書館でステキ男子を見かけるたびにどきどきして集中力が削がれる。「恋多きの女」の辛さ。ステキ男子は図書館になど来ちゃいけない。図書館なんかキモい・汚い・金がないの3K人間の吹き溜まりだから。知的で洗練された有閑紳士は俺だけだ。ああステキ男子が視界に入らないところで暮らしたい。
橋本治『国家を考えてみよう』(筑摩書房)を読む。
国家についてこれほど平明かつ「論理的」に書かれた本は少ないかも。
これは頭が良くないと書けない本だ。橋本治は頭が良い。べらぼうに良い。あまりにも良いものだからバカの思考様式まで理解できてしまう。だからこそそのバカにも伝わるような言葉であれだけたくさんの本が書けたのだ。世の中には、「バカの考えていることは理解できない」と、バカをはじめから相手にしないことを決めている知識人が少なくない。とりあえず俺は、「バカに寄りそうことも出来ないのに知識人ぶるな」と言いたい。というのも、ごく控えめに言っても、人間の半分以上はバカであり、そのバカのことが理解できないというのは、人間を理解していないに等しいからだ。つまりバカを理解できない点で、その人間もまたバカなのである。橋本治はそのことにたぶん気が付いていた。だから俺は彼のことを尊敬している。前にも書いたけどバカというのは概して自分がバカだということに気が付いていない。もっと正確に言うなら「気が付く勇気を持っていない」(まさに俺がそう)。「バカにつける薬はない」とか「バカは死んでも治らない」といった身も蓋もないコトワザに、「ほんとそれ」と反応できるのは、橋本治級に頭の良い人だけだ。バカはこのコトワザの字面を追うことは出来ても「理解」することは出来ない。
この本のすごさは、「国家は誰のもの?」という直球の問いを忘れていないことだ。彼はいまの国民国家は「みんなのもの」であることを強調する。同時にそうした国家観に馴染むことの難しさも強調する。「国家はみんなのもの」と言われてもいまいちピンとこないのは、かつて国家というのはたいてい誰か「えらい人」のものだったからだ。そういう時代があまりにも長かったものだから、いまもそういう時代の国家観が大部分の国民にとっての標準設定となっている。だから大部分の国民は、国立競技場とか国立演芸場とかを見ても、「これは我々が作ったんだ」とは思えず、「国ってのはこんな立派なものを作れるんだな」としか思えない。日本の投票率が概して低いのも、ほとんどの国民がいまだに古い国家観を引きずっているからだろう。政治というのは基本的に上の人たちがすることだと思っていて、自分たちの関与することではないのだ。「あなた任せ」の根性が全身に染み渡っている。
民主主義というのはその国のすべての人間がそれほどバカではないということを前提にした政治形態だ。にもかかわらず国民の大半はバカで、多かれ少なかれ目先の利益のことしか考えていない(五十年後の国のことなどはまず考えていない)。政治家はそんなバカのなかから選ばれる。バカの選ぶ人間がバカでないことは考えにくい。これは、「バカは選挙に行くな」と叫んでどうにかなる問題ではない。そうした暴論が出てくることも「民度低下」の証なのである。
もう飯食うか。きのう半額で買って水菜を炒めましょう。それから新聞読んで図書館。モンパルナスの夕べにサダム・フセインの睾丸が溶けていく。アザミ嬢の原理主義的ララバイ。【備忘】25000円

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