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活字の海にたゆたうセカイ系キチガイ筏、ろくでなしまずろーの欲求五段階説、地割れとインポテンツままごと野郎、悲哀交響曲、大谷一平ちゃんと愉快な仲間由紀恵、愛はかつ、

三月二七日

私は、目の前の水面をながれる風景のどの一つにも手を伸ばさず、墓の中の死者たちのように生きることから離れ、生まれる寸前の胎児みたいにそうして生きることを目前にしながら、自分は生きることを怠け、何ひとつ決めず選ばぬ状態のままこの暁闇の海の中を、ただふわふわと海月のように無意味に漂っているのだと思った。

『長くて短い一年(山川方夫ショートショート集成)』「頭上の海」(日下三蔵・編 筑摩書房)

午後十二時四分。覚醒用暗色液体、日清チョコフレーク。いつもより起床時間が遅れただけで頭が「あああああああー」ってなる。起床後はやることが多すぎて「生きた心地」がしない。精神安定剤としての散文。いぜん散文書きは体に悪いと言い放ったけど散文書きから離れることはたぶんもっと体に悪い。あれ数週間前にもこんなことを書いた気がする。なんかいやだね。老いの繰り言みたいで。だいたい生きていること自体が体に悪いのだからその生きていることに包含されている個々の行為が体に良いとか悪いとか判断するのは無意味なことなのかも知れない。あと37日書くとこの掃き溜め日記を500日続けたことになる。どんな日も書くのにさいてい一時間半は費やすことになるので、500日なら、単純計算上、750時間ということになる。じっさい一時間半で終わることなんかほとんどない。だからどんなに少なく見積もっても1000時間以上になる。1000時間もあれば他に何が出来るのか、と考えると途方もない空しさを覚える(そして今更こんな「けち臭い後悔」に苛まれている自分にも空しさを覚える)。もし「まともな有償労働」を1000時間もすれば一戸建ての賃貸住宅にも余裕で引っ越せるだろう。俺はまじで何をやってんだ。こんな「不毛な日々」を過ごしている三六歳は他にいるのか。もうここまで来たら死ぬまで「不毛な日々」を過ごすしかない。ミスター不毛。ハゲてないけどね。そういえばむかしどこかの「意識高い系」に「一万時間の法則」なるものについてのご高説を賜ったことがある。どんな分野であれ一流のスキルを得るには一万時間の練習が必要だ、という。こんなのに何の根拠もないのだろうけど、「成功」を夢見る低知能のマゾ凡人どもにはなかなか魅力的な説に見えるんだろうな。立川談志いわく「努力とは馬鹿に恵えた夢」。いまさら「成功」なんかどうでもいいよ。俺の場合まいにち本を読んでいられるなら他に何もいらない。三十や四十を超えた人間が「逆転勝利」を追い求めているのは痛々し過ぎる。「お前はもう詰んでいる」って誰か言ってやれよと思う。それが「親切」ってもんだろ。そう直言できてこそ「親友」だ。「親友」というのは残酷なものなんだ。
きのうから「読書コンディション」がすこぶる悪い。人称代名詞が連なるとうまく拾えないことがある。これは周期的なものなのでもう慣れている。天気がいいので出来ればこのあと古書店にでも行きたい。でも止そう。花粉被曝でダムが決壊する。これいじょう生を呪いたくない。生を呪うにも体力が必要なんだ。生を呪う気力が完全に枯渇した人間のことを廃人という。漫画『四丁目の夕日』の結末を思い出そう。ああでもやっぱ古書店に行きたい。こんな日は図書館に行ってもろくに楽しめない。どうしようかまじで。きょうの「金沢市の花粉飛散情報」は何度見ても「多い」なんだよな。嘘でもいいから「少ない」と言ってほしい。「少ない」と思っていれば体も脳もそれに騙されてダムは決壊しないかもしれない。「永遠の嘘をついてくれ」。吉田拓郎。ぽりーぷ切除。このごろはテロリストに共感することが多くなってきた。そのへんの「一般市民」よりも彼らのほうが不潔ではない感じがする。遠くから見ているからかな。「富士山は遠くから見るから綺麗なんだね」。「人生は近くから見ると悲劇だが遠くから見ると喜劇である」。陳腐な文句がどんどん湧いてくる。やはり古書店に行ったほうがいいかもしれない。

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