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揺り籠から墓場まで、寝てたい、

一月十七日

理性、それは我々の生命力につく錆だ。われわれを冒険にかりたてるのは、身内にひそむ狂気だ。狂気に見捨てられればわれわれはもうおしまいになる。あらゆるものが身内の狂気に依存している。われわれの植物的な生さえもが。われわれに呼吸をするようしむけるもの、呼吸することを強いるもの、さらには、血管の中に血をかけめぐらすもの、それらすべてが狂気なのだ。

シオラン『実存の誘惑』(篠田知和基・訳 国文社)

午後一時二五分離床。きのうの炊き込みご飯、紅茶。目覚ましが鳴ったのが午前十一時四五分。二度寝している時間がいちばん好きだよ。二度寝時間をもっと伸ばしたい。なんなら死ぬまで二度寝でもいい。いやもう死んでるようなものなんだけど。ふだん付き合っているのは死者ばかり。死者とばかり付き合っていると生者と付き合いにくくなる。生者ってのはときに信じられないくらいに非礼だから。迫害的だから。自分は傷付きたくないくせに他人は平気で傷付ける。自分の繊細さを可愛がりながら他人に対しては鈍感に振る舞う。加害者でもあるのになにかと被害者面をしたがる。なんだぜんぶ俺のことじゃん。私はここに確言しよう。気持ちのいいことはだいたい「正しい」。眠たいのに無理やり起きて仕事に向かうやつは自己虐待者である。「怠け者」に厳しいのはだいたいそういう自己虐待者なんだ。いつの世にもそういう「困った人」たちは必ずいる。でも俺はそんな人たちまで許してしまう。私は三年寝太郎が好きだが、ゆいいつ気に入らない点は、いままで何の役にも立たなかった彼が「偉業」を成し遂げてしまうことだ。いつまでもずっと寝ててこそ偉業なんだけどね。
きのうだるかったけど図書館へ行ったよ。しかも閉館までの三時間。最初の一時間はすこぶる眠かった。好きなシオランだったのに。まあリハビリだから。きょうは疲れが強いのでたぶん行かない。夜の散歩はするかな。これを書いたら布団のなかで聴き読書。二三日前の日記を読むとずいぶん荒れているね。大荒れだ。大時化だ。海が荒れた翌日はだいたい浜辺で何か変わった漂着物を拾えるもんなんだけど何も無かった。「涙の数だけ強くなれるよ」とかいう俗歌がむかしあったけど、とんでもないことだ。強くなんかならないし、だいたい強くなってどうするんだ。誰もが強くて前向きな世界になんか俺は住みとうない。俺が辛うじて許容できるのは誰もが生を呪いながら虫の息で生きている、そんな世界だけ。老いも若きも、男も女も、強さに憧れ過ぎである。こういう「ポジティブ・マッチョ文化」とでも言うべきものと俺はいままで闘ってきた(寝ながら)。これからも闘い続けるだろう(そういう言いかたもずいぶんマッチョ的なんだが)。まーぶるまーぶる。

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