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ひねもすのたりのたり、津軽海峡冬景色

四月一日

二時起床。起床時間がおおはばに遅れた。朝の五時半まで定期掲載の雑文に没入していたので、就寝が六時になった。今更ながらもう六時は明るいんだな。いちどまた夜型生活を経由して、午前九時代起床の生活に戻したほうがいいかもしれない。深夜二時にはかならず床に就く習慣にしたい。理想は目覚まし時計を毎日、九時三八分起床に設定することだ。レジで出会って大好きになったある学生アルバイターから受け取ったレシートに印字してあった責任者番号。彼は人間ではなく菩薩の化現だから、「彼いまどうしてるかな」なんて憂慮するには及ばない。「いつもここ」ある。彼の姿を想起した時、彼は私の中に「降りて来る」のだ。だから学問や執筆の活力は涸れることはない。

岸田秀『続ものぐさ精神分析』(中央公論新社)を読む。『ものぐさ精神分析』、『性的唯幻論序説』と同様、すこぶる面白く読めた。岸田秀著作集とか出してもいいんじゃないか。澁澤龍彦みたいに翻訳全集があってもいい。岸田秀の洞察に惚れ込んでいる読者が少数ながらいるはずだ。そんな熱心な人たちのために一肌脱いでくれる出版社ありませんかね。
著者は「あとがき」で出がらしとしつこく卑下してみせるが、「本心」ではなかなかいい出来栄えだと自負心さえ持っていたのではないか。ものを書きたがる人は例外なく強度のナルシストだから。わけても「三島由紀夫論」の文章はとても鋭利だった。「三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた」という「小説的」な書き出しを、私はひとつのパロディとして受け取った。
彼の言いたいことは「すべては幻想である」という一言に尽きるらしい。ちょうど私の《思想》が「人間の存在はすべて悪である」の命題に集約可能なのと同じか。ただそんなアフォリズム的なものだけではあまりにあっさりし過ぎているので、様々な比喩や傍証によって、その論旨を明快にしていくことが求められるのだ。

さして考えなくとも、巷間で誰もが信じているふりをしている、「友情」「恋心」「親の愛情」「愛国心」「郷土愛」なんてものが、幻想を土台としていることは明らかだ。人は「はじめから喪失している何か」を外部の人や物のうえに求めずにはいられない。「現実への過剰要求」つまり「理想主義的志向」は、「人間と呼ばれている動物」に最初から内在している「病」といえる。素朴な認識次元において、「このようにある」と「こうあってほしい」の弁別は、ほとんど不可能なのではないかと思う。「矛盾」による「弁証法的発展」は、この両者の弁別不可能性ゆえに、不可避なのだ。通俗的宗教(信仰)説話において、「人であって人ではない」というマージナルな他者が必用なのは、そうした超俗的他者なしでは、「閉ざされた共同体」を「救済の可能性」に開くことは出来ないからだ。

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