見出し画像

ポアンカレ予想、数学脳格差、世帯収入

三月二八日

一時二〇分起床。やや寝坊。よくない。春眠暁をオーボエ協奏曲というかというやつか。
米国で銃撃事件があり六人死んだというブレーキングニュースをFBでみた。アメリカだからけっきょくどんな銃規制強化議論も全米ライフル協会がある限りは進まないだろうけど。日本にもこんな乱射事件を起こしたい人が少なからずいるだろう。私の目からみて生きている人間はすべて狂っており絶望している。その表現の仕方が個々人で違うだけだ。銃乱射事件を起こすような人間を特殊化してはならない。人間ときには「なにかどでかい復讐行為」をしたくなるだろう。そういうとき「たまたま」近くに銃があっただけさ。日本でこういうことが起こらないのは、銃を所持をしている人間がほとんどいないからだ。日本人は法律に「守られている」。こんな話をしているときでさえ、「日本でうまれてよかった」と思わない私は、おそらく永久に愛国者になれないだろう。
死ぬのを待っているだけの絶望爺さんの咳払いが聞こえて来る。嫌だ。できるだけ存在の気配を消してくれよ。きょうこそは鼻くんくんしないぞ。壁に耳当てもしない。ここは動物園の裏だ。ヤニ臭いゴリラの檻がすぐ隣にあるだけだ。

ジョージ・G・スピーロ『ポアンカレ予想(世紀の謎を掛けた数学者
解き明かした数学者)』(早川書房)を読む。ポアンカレ予想とは、一九〇四年にアンリ・ポアンカレ(一八五四年~一九一二年)の提唱した位相幾何学(トポロジー)における予想。その予想は、「単連結な三次元閉多様体は連続変形によって三次元球面になる」というもの。並み居る数学者たちがその「証明」の挑戦しては敗れ果てるなか、二〇〇三年、ロシアのG・ペレルマンによって終止符が打たれた。そのフィールズ賞の受賞が決まったが、辞退した。ポール・エルディシュ同様、彼もまた、「天才数学者には浮世離れした変人が多い」というありがちなステロタイプを強化させかねない人物。いまも存命だが、ほとんど隠者的に暮らしているので、何をしているのか分からない。
『知恵蔵』のかなり明快な説明を借りると、位相幾何学とは、「図形の、連続的な変形によって不変な性質を研究する幾何学の分野」。
読んでいるうち、数学を勉強したくなった。そういえば学生時代にクルト・ゲーデルの伝記に触発されて、数学基礎論の本を図書から借りまくったことがある。最終的には「不完全性定理」を完全に理解しようと意気込んでいた。がそれはあまりに無謀なことだった。やはり「数学向きの脳」というのがあるのだろうか。それを認めるのはきわめて屈辱的なことだ。

山田昌弘『新型格差社会』(朝日新聞出版)を読む。
著者は、「婚活」「パラサイトシングル」といった造語の発案で著名な家族社会学者。世の中に「格差」というものがあることは、だいたい誰でも知っている。重要なのは「実感」でなく「実態」だ。それを知るには、ある程度信頼可能な統計データを分析する必要がある。マクロな社会現象は、数字で知るほかはない。統計データ等のエビデンスを無視した議論は、直観的な印象論に流れがちだ。「俺の周りでは」論になりがちだ。学問は「現実はしばしば直観に反する」ということを教えてくれる。自分の生活圏が全社会の代表ではないことをあらためて認識すべきだろう。
生まれた場所による「教育格差」はなかなか「解決」が難しそうだ。「親の格差の再生産」について論じられた章は「残酷な事実」でいっぱいだ。およそ親の年収がそこそこ高ければ子供にいい教育を受けさせられる、というのは火をみるより明らか。この社会的「事実」を、「貧乏な家庭出身でも成功した人はいるよ」という「個別事例」の強調によって、ごまかしてはいけない。
若者の直面している「結婚難」についてはどうでもよかった。「婚姻」なんていう悪趣味な慣習があるかぎり、人間は「正気」に戻れないだろう。だいたい人間関係を結ぶのにどうして法的手続きなどが必要なんだ。戸籍なんてのも理不尽だし、嫌いだ。当たり前のように子供を作る人たちのことも、僕は嫌いだ。そういうけがらわしい人たちとはできるだけ関わりたくない。

きのう散髪した。刈り上げてもらった。ガキやババアが五六人ほど待っていた。イオンのプリペイドカードで柄谷行人を買った。人身売買じゃない。柄谷行人の著作を買ったということ。一九八〇年代の講演録をあつめたもので、ちくま学芸文庫から出ているもの。今夜読む。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?