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漱石枕流、音吐朗々、

十二月八月

多木が言うように、閉じた文化圏のなかに生きる人間は、まわりの人々の顔を、一種の「ランガージュ」として詳細に読み解く技術を共有している。そのため人は、その文化圏の外に出て、他者と遭遇するときにはじめて「顔の読解」という作業を自覚的な課題として意識することになる。

鈴木智之『顔の剥奪:文学から〈他者の危うさ〉を読む』(青弓社)

午前十一時五〇分起床。珈琲、柿ぴー。パンダの口にアントニオ猪木人形を突っ込み過ぎて死刑を宣告された夢を見る。ひさしぶりに隣の爺さんが在室しているな。「強迫さん」が眼を覚ましてむずかりそう。そんなときはソニーのワイヤレスヘッドフォンを付けてピーター・ゼルキンの弾くゴルトベルク変奏曲。やや書きにくくなるけどドキドキが中途半端に続くよりはいいわ。どうせドキドキするなら惚れた男の腕につつまれながらドキドキしたいもんだけど。今さだまさしの「雨やどり」が聞きたくなった。「あなたの腕に雨やどり」なんて彼もたまには乙な詞を書くね。ココナッツココナッツ、けらけら、ペンパイナッポー、アッポーペン。俺はもう他人を罵らない。
昨夜はダイス氏と南砺市の温泉へ。また値上げしていた。もう毎週は行けないな。いま財布には二百円くらいしかない。

與那覇潤『過剰可視化社会:「見えすぎる」時代をどう生きるか』(PHP研究所)を読む。
彼の書くものは、斎藤環との共著『心を病んだらいけないの?』以来か。震災後に何かともてはやされた「気鋭の若手論客」のなかの一人。本書でもそのことへの気恥ずかし気な言及がある。
本書、薄いわりに、現代への鋭利な診断が多く含まれていて、不覚にも自省を強いられることしきりだった。著者がとくにしつこく問題化するのは「個性のタグ化」。「#HPS」「#性同一性障害」といったいわゆるハッシュタグによる自己規定を通してでないと他人と関わりにくい心性が「コロナ禍」でとても悪い方向に機能した、とおおむねそんなところか。俺はツイッター(旧称)とかはやらないので、そういうタグ付け文化の事情には疎いのだけど、ある時期から、自分の「精神疾患」や「性的指向(嗜好)」をプロフィール欄などで目立たせる人が多くなった、という「実感」はある。「秘密の告白」といった調子で「自分のアイデンティティ」をいちいち確認せずにはいられない人のなかには、「人はつねに何者かでなければならない」といった強迫観念があるのかもしれない。なにかと自分の仕様(スペック)を語り、その取扱説明書(トリセツ)まで作りかねない人にとって、生の他人との関わりはつねに「ちょっとした戦場」なのだ。その過酷さは、相手が「自分の傾向」をあらかじめ知っていてくれることによって、多少はやわらぐ。だからできれば「自分と似たような人」としか関わりたくない。と書きながら、「なんか違うな」と思う。これでは、「他人との摩擦を避けたがる現代人」といった既存の陳腐イメージをただ踏襲しているだけじゃないか。このことはまたいずれみっちり考えたい。

きょう二時には図書館行くので、もうそろそろ飯食うわ。

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