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存在論的ルミネッセンスならびに魔術的マンゴー闘争のボブサップ的帰結とそのガメラ的考察

六月一日

寺田透が東京大学教養学部教授であった時、ボードレール『パリの憂鬱』中の単語のひとつが訳出できず、教授が頭をかきむしって立ち往生した。辞書に載っている安易な訳語では気に入らず、厳密に徹したゆえの苦悶である。『赤と黒』の演習で、あるとき、学生が一生懸命に訳しているのに、寺田先生はそこでハッと気付いた難問題に自分で考えこみ、学生の報告を一言もきいていなかった。『古典と現代』三十四号で、塚本康彦が描くエピソードである。

谷沢永一『紙つぶて』「学問的講義の形式と内容」(文藝春秋)

九時三八分起床、FBとTwitterとnoteのへたでういすっぺらい文章を一通り読んだのち礼拝、紅茶、貯古、マーラー十番。マーラーのシンフォニーは一番がもっとも素敵。ときに童話的ときに叙事詩的で、光彩陸離、緩急自在。あとのシンフォニーもいいだけど一番に比べればどうも物足りない。マーラーについてはまたいずれ詳しく論じてみたい。

きのうもライブラリーで『我と肉』等を三時間半ほど読む。そのあと香林坊のうつのみや書店。この店は品揃えはまあまあ良いのだが、管理職っぽいオヤジ店員がいつも無駄にべらべら喋っていて鬱陶しい。というか店員のお喋りは概して不快だ。なんでだろ。買ったのは、ガストン・バシュラール『空間の詩学』、ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』、フェルナンド・ペソア『不穏の書、断章』の三冊。今月、本だけで一万円以上支出してる。ペソアの本は、

もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子にすわったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。

「断章」(澤田直・訳)

という文言がたまたま目に入ったので買った。彼はポルトガルの人。本人名義のほか、アルベルト・カイエロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスなどの「筆名」で作品を発表している。佐野白羚、佐野野狭、高尾九三八などの「筆名」を使い分けてものを書いてきた私として、そんな彼に親近の情を抱かざるを得ない。

ボブ・サップ『野獣の怒り』(双葉社)を読む。自叙伝。「タレント本」を読んだのはひさしぶりかもしれない。口述筆記をもとにどこかのゴーストライターが書き上げたものだろう。「ビースト」ボブ・サップがああみえてかなり知的な男だったことはよく知られている。おそらく自叙伝出版の主目的は、K-1プロデューサーだった谷川貞治らの「不正」を糾弾することだったのだろうが、その主調音は、生身で人を殴ったり殴られたりすることの過酷さをもっと理解してくれ、という叫びである。プロモーターと格闘家との容易ならざる緊張関係をうかがい知ることができた。とはいえ契約や金絡みの話が多くてさすがにとちゅうから食傷した。興行界は政界や財界に劣らず魑魅魍魎が跋扈しやすいところらしい。精神不安定な母親のもとで育ったこと、富と名声を得て兄弟と疎遠になったことなど、ビーストの自分語りはあんがいに痛々しい。わたしが高校生だった頃、彼の名は、ほとんど誰もが知っていた。いまもむかしも格闘系イベントにはぜんぜん興味はないが、曙太郎VSボブ・サップはなんとかぎりぎり覚えている。KOされてうつ伏せになった元横綱の姿は傍からみれば滑稽そのものだったが、ボブ・サップによると、あのままだと呼吸困難で死ぬかも知れないと気が気でなかったらしい。しかしいくら「格闘技バブル」の真っ只中(二〇〇三年大晦日)とはいえ、視聴率四三パーセントというのは凄まじい。お前らくだらないことにフィーバーしすぎ。二年後の「小泉郵政解散」であらためて露わになった愚民国家ぶりと明らかに重なる。くだらないことといえば、ボブ・サップがガキ使(「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」)という番組で七変化していたのも覚えている。ラジオ(「放送室」)で松本人志が彼の<お笑いセンス>をけっこう褒めていた。エンターテイナー(自己演出家)であるボブ・サップはやはり自分に求められている「キャラクター」をよく理解していたのだろう。「知的である」ということは、こういうことでもある。

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