《今年の十冊》もしくは安全パイとシナモンティー、ガゼルの直腸、花咲く乙女たちの逆襲、論理的欠陥はお前の顎、安楽死と達磨、
十二月三一日
午後十二時四〇分起床。ライオンコーヒー、チーズアーモンド。豆腐の角に頭をぶつけて加山雄三の運転する救急車に運ばれる夢を見る。
きのうは午後五時にブック・オフ諸江店。買ったのはトバイアス・スモレット『フランス・イタリア紀行』、樹下龍児『風雅の図像』、星新一『おのぞみの結末』、村上春樹『世界の終りとハード・ボイルド・ワンダーランド』(上下)、ゲーテ『イタリア紀行』(上中)、オークシイ『紅はこべ』、上野千鶴子/小倉千加子/富岡多恵子『男流文学論』、坪内祐三『靖国』、『与謝野晶子歌集』、『寺山修司<ちくま日本文学全集>』、稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』、穂積陳重『続法窓夜話』、荻原魚雷『本と怠け者』の十五冊。締めて約三七〇〇円。「買うか買わないか迷ったら買え」という格言が本好きの間にはあるが、これにあまりに忠実だと電気代も支払えなくなってしまう。クレジットカード持ってなくてよかったよ。
「今年の漢字」とかいうバカバカしい行事がそういえばあった。「世相」なんていう曖昧で複雑なものを一字で表現すんな、なんて言うつもりはない。ただもう飽きたから来年からは「今年の数字」でいいよ。ちなみに俺の「今年の数字」は699。去年はたしか357。とはいえまいとし飽きもせずに「一年の総括」をしたがる凡夫どもをバカにはできない。俺だって「今年の十冊」なるものを毎年やってるじゃないか。本好きはみんなやるでしょこれ。
というわけで「寸評」を付けながら「今年の十冊」を並べる(順不同)。
・ホルヘ・ルイス・ボルヘス/オスバルド・フェラーリ『記憶の図書館』(垂野創一郎・訳 国書刊行会)
大冊ながら読み終えるのが惜しかった対話集。ボルヘスの博覧強記と書物愛に敬服。「聞き手」のフェラーリが出しゃばらないのも好ましい。ボルヘスがジョージ・バーナード・ショーを激賞していたのが意外だった。
・テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』(徳永恂・訳 岩波書店)
「フランクフルト学派の名著」ということでいつかは読まねばとは思っていた。最初は詰まらなかったけど途中でその議論の迫力に圧倒されるようになった。「文化産業」批判の部分などは今も読むに値する。全体的にやや深刻過ぎるように思えるかも知れないが、これが書かれていた当時はまだナチス・ドイツが猛威を振るっていたのだ。「理性」と「野蛮」は共存できる。
・ドラウジオ・ヴァレーラ『カランヂル駅――ブラジル最大の刑務所における囚人たちの生態』(伊藤秋仁・訳 春風社)
※ブラジル最大の刑務所の懲りない面々の日常を医者の目線で描いたもの。リンチや喧嘩が凄まじくていちいち度胆をぬかれる。一九九二年に起きた囚人虐殺事件のことも詳しく書かれている。血に飢えているときにまた読み返そうと思う。
・デイヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった――存在してしまうことの害悪』(小島和男/田村宜義・訳 すずさわ書店)
※「子供を作ること」の加害性を倫理学的に論じたもの。さいてい二度は読まないとその精密な議論はつかめないだろう(特に「快苦の非対称性」を論じた第二章)。「出生反対」を否定したがるほとんどの人が「直感的反論」の域を出ていないのが残念。
・ロクサーヌ・ゲイ『飢える私――ままならない心と体』(野中モモ・訳 亜紀書房)
※「ルッキズム問題」のことを考えながら読んだ。「ハゲ」や「デブ」といった侮蔑語で他人の身体的特徴を嘲笑することの加害性。人は他人の眼差しにいつも包囲されており、「ひきこもり」になってしまう人たちはそうした眼差しの残酷性を「正確」に認識しているだけなのかも。
・朝日新聞国際報道部・他『プーチンの実像――孤高の「皇帝」の知られざる真実』(朝日新聞出版)
※プーチンの「時代錯誤な領土的野心」を理解するのに有用な一冊。彼のKGB勤務時代を知っている人の証言が多く、資料価値も高い。東独とソ連と、国家の崩壊を二度経験しているプーチンは、国家というものの基盤がいかに脆弱であるかを身を以て知っている。最近ますます強くなってきたあの強権性はそうした経験によるトラウマと表裏一体なのかも。
・稲垣諭『絶滅へようこそ――「終わり」からはじめる哲学入門』(晶文社)
※「人間ってもうオワコンじゃね?」といった清々しい溜息を基調とした「人間論」。希死念慮がかなり強めのときでも読めるだろう。この本がきっかけで私は村上春樹を読むようになった。(私の考える)「哲学」とはほとんどの関係ないので、この副題はいらなかっただろう。
・ブリュノ・ラトゥール『近代の<物神事実>崇拝について――ならびに「聖像衝突」』(荒金直人・訳 以文社)
※「よく分からない」にもかかわらず知的衝撃を受けた本。西欧の「存在論」への厳しい批判が含まれていることだけは分かった。読後、占いなどを「信じている」人を見ても、「そんなのは迷信だ」と吐き捨てることが出来なくなった。ラトゥールの本はもっと読まねばならない。
・石井妙子『女帝 小池百合子』(文藝春秋)
※シュテファン・ツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』の現代日本版を読んだような気がした。こんな無節操なタレント政治屋(これは重言である)を都知事に選ぶのだから、東京都の「平均民度」はおそらくかなり低い。本書に出てくる、小池のカイロ時代を知る「かつての同居人」は、さいきん実名証言に踏み込んだ。その勇気ある行動に感服する。権力者は怖いからね。
・朝井リョウ『正欲』(新潮社)
※どういう嗜好が「異常」でどういう嗜好が「正常」かを決めている「市民的価値観(リスぺクタビリティ)」に巨大な疑義をはさむ小説。大事なのは、けっして「公認」されることのない「マイノリティ」が、この世にはかならず存在しているということ。「噴出する水への発情」といった小説設定に引きずられ過ぎないほうがいい。なかなか売れたようだ。いったいこれはどういうことなんだ、と考えざるを得ない。
二〇二三年の「だいたい図書館にいます賞」は稲垣諭『絶滅へようこそ』に授けます。右であれ左であれ「少子化が止まらない、大変だ」と騒ぎたがるこの国が俺には気持ち悪すぎる。「絶滅」という語に私はずっとまえから惹かれていた。人間が存在しない地球はおそらくいまとは比べものにならないほどに美しいだろう。げんざいけっこう懐があたたかいので、賞金は二五〇〇円くらいまでなら出せます。ご所望でしたら選考委員の僕に連絡を。
五野井郁夫/池田香代子『山上徹也と日本の「失われた30年」』(集英社インターナショナル)を読む。
どっちもデモクラシータイムスでよく見る。去年の元総理射殺事件の犯人のものと思われるツイートについて二人が語り合ったり分析したりしたもの。本書を読むと、その「犯行理由」が、「統一教会への恨みを晴らすため」といった単純な話ではないことが分かる。
山上はいわゆる就職氷河期世代(ロスジェネ世代)で、この世代の人々は、社会経済上、いくら努力しても報われにくい。山上のものと思われる投稿のなかに、彼と同世代の五野井は、ロスジェネ世代に特有の鬱屈と悲鳴を敏感に感じ取る。山上に誰かひとりでも愚痴を言い合える親友がいれば、と思わずにはいられなかった。孤独はその人の心身にひじょうに悪く作用する。それは一日十本以上の喫煙よりも体に悪いと言い切る学者もいる。
「すこしでも<偏差値の高い大学>を目指すべき」「カネを稼げるやつこそ成功者」「まともな人間はみんな結婚している」と人々に吹き込んでいる「現代的世俗主義」(犬飼裕一)の呪縛圏を「知的」に逃れる方法をどう模索するか、と読みながら考えずにはいられなかった。
このあと洗濯機まわして、燃やすゴミ捨てて、一年ぶりにフェイスブック書いて、散歩する。雨雨雨。リバティ門田。
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