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「生きる」なんてA・Iに任せておけ、KKKKKK))))))、

四月三日

「キャディー、どうしてそんなに腕時計を気にするんだ?」
「これは腕時計じゃありませんよ。磁石です」

ラリー・ワイルド『世界のジョーク集⑤ ゴルフ・ジョーク集』(浅倉久志・訳 光文社)

午後十二時九分。緑茶、紅茶、うずらのたまご、ご飯。ねむくてだるい。コンタックのおかげで睡眠中の鼻はそこそこ通っている。ただし副作用でやたら喉が渇きだからトイレに行く回数が増えた。きょうは図書館に行きたくない。さいきんはそもそも部屋から一歩も出たくない。というか布団から出たくない。ずっと寝てたい。寝るのに疲れたら読書。『シン・ニート論』の原稿はいちおう六月までには書くつもり。あまりにもねむくてだるいのでいまスクラップブックをめくっていたら「自殺者二万1837人」の記事に目がいった。かりに楽園にいても俺は自殺のことばかり考えているだろう。こんな「日常」に耐えられるのはよほど愚鈍な人間だけだ。この倦怠の先にあるのは病気と死。誰もが「日常」に心底うんざりしている。自分がうんざりしているということに気が付けないほど深くうんざりしている。人はそのうんざりを自覚しないためにこそ酒を飲むのだしギャンブルをする。ねむくてだるい。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。

『カミュ全集2』「シーシュポスの神話」(清水徹・他訳 新潮社)

私にしてみれば自殺は哲学の問題ではない。生きるに値するか否かなんてのは文学の問題だ(哲学の根本問題はつねに「なぜ何かがあるのか」である)。私にとってこの「世界」が生きるに値したところで、私はやはりこの「世界」には最初から飽き飽きしていることだろう。どんなに「充実」している(ように思える)瞬間にあっても私はやはりアクビを噛殺しているだろう。「人生の意味」などを探しても許されるのは中学三年生までだ。いい年した「大人」がそんな戯けた形而上学を弄んでいるのを見ると顔面に塩酸をかけてやりたくなる。そもそも十六歳以上の人間は例外なく死に損ないだ。そのくらいの年齢になると誰もがみずからすすんで蜜蜂になる。「惰性」に逆らうことが出来なくなってしまう。共同体的模範解答の重力に逆らえなくなる。ムーランルージュ666。

アリス・リヴァ『みつばちの平和 他一篇』(正田靖子・訳 幻戯書房)を読む。
20世紀のスイス・ロマンド文学を代表する女性作家、と紹介されることが多いアリス・リヴァ。スイス・ロマンドとは「ロマンス語圏のスイス」ということ。有名な作家としては他にシャルル=フェルディナン・ラミュがいる。
当時としては(たぶん)珍しくアリス・リヴァは経済的に自立していた女だった。彼女の小説が「フェミニズム小説」として読まれるのもそのため。賢い彼女はとうぜん「結婚は人生の墓場」だと知っていたし、おそらくは好きな人との同居さえ避けるべきだと考えていた。

私たちは恋愛について話し始めた。とても速く、速すぎるくらい、私たちはいくつかの結論に達した。まず何よりも、同居は罠、愛情を砕く機械でしかなく、結局愛情はそれを経て衰えるだけである、という絶対的真理であった。

みつばちの平和

日本の民法は夫婦の「同居義務」をいちおう定めている。誰かと同じ屋根の下で生活する、というのは耐えがたいことだ。相手のちょっとした癖が嫌になってもそれから逃れることが出来ない。互いにうんざりしたければ同居すればいい。好きだからこそ離れて暮らす、というのはとても理に適ったこと。少なくともすべての成人に一軒家を与えよ。

白状すると、私は自分から生まれた子供、破滅の道を急ぐ受刑者の顔つきをした子供がいなくて寂しいということはほとんどなかった。

残された日々を指折り数えよ

アリスは子供を作らなかったんだろう。「欲しい」という気持ちもなかったのかもしれない。人が子供を作らない理由は大きく分けてふたつあるようだ。利己的理由と倫理的理由。前者の代表が「チャイルドフリー」なら、考後者の代表が「反出生主義」か。オイラはどっちかというと後者に親しみを覚えるが、ときその種の「思想」には哲学的厳密性が欠けていて、「もっとちゃんとしろ」と活を入れたくなることもしばしば。紅茶飲み過ぎているからさっきから頻尿だわ。書くことに集中できない。もうそろそろ昼飯食う。今日は他に書くものがいっぱいある。咳がよく出る。ぱぱすぱぱす。

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