十一月二五日
午後十二時三五分起床。緑茶、栄養菓子。抑鬱が本領を発揮し始めている。「実力」を持ち始めている。なにもしてないのに涙がにじむ。なんとか動く気力はある。書くものは書く。図書館も行く。夜間逍遥もたぶんする。でないと「強迫さん」は激しさを増す一方になる。これを書いている俺はもうすでに隣人の雑音にイライラしまくっている。「もっと静かに閉めろカス」と小声で罵っている。来週ココスで俺に飯をおごるつもりでいる老人に向かって。
きのうはコハ君と午後二時から二時間四五分ほど閑談。彼はげんざい若年無業者向けのSNSを開発している。俺も協力できる部分は協力したい。それにしても彼は、エロマンガ描いたり、投資したり、ゲーム作ったり、なにかと器用な人である。俺はろくに絵も描けないし(「素朴派的抽象画」なら描けないこともない)、プログラミングも基本程度しか勉強したことがない。ただHTMLのソースコードは美しいと思う。世が求めるような「スキル」をほとんど持たない俺はこれからどうなるんだろうか。だいたい俺は運転免許証さえ持っていない。「考えざるを得ない葦」としての俺。俺の「偉大さ」は他の人間があえて考えようとしていないことを執拗に考え続けているところにある。「生の残酷さ」を前にして眩暈に襲われ続けているところにある。このどうしようもない悪夢的世界を「正視」し続けること。けっして「前向き」には生きないこと。なにも「肯定」しないこと。それが「倫理的な態度」なのだと、愚直に信じている。
ジャン・ジュネ『葬儀』(生田耕作・訳 河出書房)を読む。
フランスには一般ピープルの良識を嘲笑うような、「暗黒文学」の系譜が存在する。ジュネはそのなかでも特殊に乾いた「異彩」を放っている。そもそも彼は「読者の同感」などをすこしも想定していない。最初から最後まで「耽美的単独者」として書いている。
ナチスさえ彼の夢想の舞台装置に過ぎない。おのれの内的絢爛世界を彩るための。
小説の要約などは無意味。この種の作品であれば尚更。
以下はタテ付箋のある頁からの引用。
どこにもいない菩薩だけが<礼拝>に値する。美しさなどもはや無用。有用性など、救済など、もはや無用である。菩薩はつねに<絶対的無力>のうちに留め置かれている。菩薩はただ私を眼差しているだけである。菩薩はつねにそこにある。私は菩薩と「共にある」。私は菩薩の喉仏に接吻する。菩薩の肛門を覗いてみる。そこにあるのは莞爾とした空虚だけ。その空虚だけが私が呼吸できる場所。私の帰るべき場所。「魂の故郷」。
そろそろゴハン炊けるかな。押忍おら悟空。レトルト麻婆丼。きょう四時には入れるかな。さいわいきょうは他に書くものがない。古書店に行きたいが今月はもうピンチ。やばいぞ。