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あかあかと燃える冥王星、あたらずといえどもとおからず、草にすだく虫の音、失望の海を平泳ぎ、円周率の息切れ、

十一月二五日

十六世紀ないし十七世紀の人間は、私たちがごく当然のこととして受け入れている戸籍届の記入項目を見て、驚くかもしれない。自分の子供が言葉を話すようになると、すぐに私たちは彼らの名前、両親の名前、それにその子供の年齢を覚えさせる。その年齢をひとに問われて、幼いポールが二歳半だとうまく答えたりすれば、両親はとても誇らしく感じる。じっさい、私たちは幼いポールが間違わず自分の年齢を言うことは重要なことだと思っている。もし自分の年齢を知らないとしたら、いったいどういうことになるだろう。アフリカの未開の土地では、年齢はいまだはっきりした観念とはなっていず、ほとんど重要なことではなく、それゆえ忘れてもかまわぬものなのである。だが、今日の技術文明の世にあってはどうして自分の生年月日を忘れることができるだろうか。旅行のたびにホテルの宿泊名簿にそれを書き込まなければならないし、各試験のたびに、各手紙のたびに、公式の書式に記入するたびに年齢を書かねばならないのである。

フィリップ・アリエス『<子供>の誕生 アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』「人生の諸時期」(杉山光信/杉山恵美子・訳 みすず書房)

午後十二時三五分起床。緑茶、栄養菓子。抑鬱が本領を発揮し始めている。「実力」を持ち始めている。なにもしてないのに涙がにじむ。なんとか動く気力はある。書くものは書く。図書館も行く。夜間逍遥もたぶんする。でないと「強迫さん」は激しさを増す一方になる。これを書いている俺はもうすでに隣人の雑音にイライラしまくっている。「もっと静かに閉めろカス」と小声で罵っている。来週ココスで俺に飯をおごるつもりでいる老人に向かって。
きのうはコハ君と午後二時から二時間四五分ほど閑談。彼はげんざい若年無業者向けのSNSを開発している。俺も協力できる部分は協力したい。それにしても彼は、エロマンガ描いたり、投資したり、ゲーム作ったり、なにかと器用な人である。俺はろくに絵も描けないし(「素朴派的抽象画」なら描けないこともない)、プログラミングも基本程度しか勉強したことがない。ただHTMLのソースコードは美しいと思う。世が求めるような「スキル」をほとんど持たない俺はこれからどうなるんだろうか。だいたい俺は運転免許証さえ持っていない。「考えざるを得ない葦」としての俺。俺の「偉大さ」は他の人間があえて考えようとしていないことを執拗に考え続けているところにある。「生の残酷さ」を前にして眩暈に襲われ続けているところにある。このどうしようもない悪夢的世界を「正視」し続けること。けっして「前向き」には生きないこと。なにも「肯定」しないこと。それが「倫理的な態度」なのだと、愚直に信じている。

ジャン・ジュネ『葬儀』(生田耕作・訳 河出書房)を読む。
フランスには一般ピープルの良識を嘲笑うような、「暗黒文学」の系譜が存在する。ジュネはそのなかでも特殊に乾いた「異彩」を放っている。そもそも彼は「読者の同感」などをすこしも想定していない。最初から最後まで「耽美的単独者」として書いている。

付箋まみれのジュネ、

ナチスさえ彼の夢想の舞台装置に過ぎない。おのれの内的絢爛世界を彩るための。
小説の要約などは無意味。この種の作品であれば尚更。
以下はタテ付箋のある頁からの引用。

最初に私は、あふれた小便の中から咲き出たような、たくましい水兵を見つめた、それから辺り全体を、樹を、花を、そして人々を見わたした。

私の肉体のもっとも大切な部分は、尻だ。それを私は忘れ去るわけにはいかない。それほど私のズボンはそのことを思い出させる、なぜならズボンは尻を収め、ぴっしり締めつけているからだ。私たちは尻の軍団を編成しているのだ。

彼は生きて、この世に現存するのだ。彼はこの世に生れ、そして私は毎日彼に白い襁褓を着せてやるのだ。ところで、私に世迷い言を口走らせた悲しみが、私の眼を悦ばせるこの花を創り出すのだ。ジャンが肥しに変れば変るほど、その墓の上に咲き出る花はますます私を薫らせることだろう。

また彼の目の前で糞と一緒に腸をひり出し、塵の中を長々と後に引きずり、藁くずやしなびた花をくっつけるとか(蒼蠅や銀蠅がそこへたかり、それを彼は白いふくよかな手で追いはらいに来るだろう、そして彼の周囲をとびまわる蠅をいやらしげに追っぱらうことだろう)。また私の性器が魚にむさぼり食われるのを永劫にこの眼で見て、この身に感じつづけるとか。

「冬支度にかからねばなりません。もうすぐ冬が来ます、うっとうしい葬式みたいな・・・・・・」

「あの娘がつばをはいたときはわかるんだよ。つばのにがい味が、女中の口の味が、お行儀のよい召使いがみんな腹の底にためている恨みつらみのにがい味が・・・・・・」

ところで、哲学者も言うように、絶対を足し算することはできない。殺人のおかげで――それはその象徴であるが――ひとたび達成されると、「悪」は他の一切の悪しき行為を道徳的に無意味に帰する。千の死体もただひとつの死体も同じことだ。それはもはや救われようのない致命的罪状である。

私は神になった気分だった。私は神だった。ひとり木製の食卓に腰かけて私は、死んだ裸のジャンが、自分で自分の死体を両腕でかかえて、私のところに運んでくるのを待っていた。

彼らはどのような光も通さない、一種の楕円形の中に自分たちを閉じ込める陶酔感のなかで、互いに結ばれあったことだろう、

どこにもいない菩薩だけが<礼拝>に値する。美しさなどもはや無用。有用性など、救済など、もはや無用である。菩薩はつねに<絶対的無力>のうちに留め置かれている。菩薩はただ私を眼差しているだけである。菩薩はつねにそこにある。私は菩薩と「共にある」。私は菩薩の喉仏に接吻する。菩薩の肛門を覗いてみる。そこにあるのは莞爾とした空虚だけ。その空虚だけが私が呼吸できる場所。私の帰るべき場所。「魂の故郷」。

そろそろゴハン炊けるかな。押忍おら悟空。レトルト麻婆丼。きょう四時には入れるかな。さいわいきょうは他に書くものがない。古書店に行きたいが今月はもうピンチ。やばいぞ。

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