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内臓露出、LSD、曖気、至高、私、

十二月十一日

善良な人々は、自分の子どもを苦しみから逃れさせるためにどんなことでもするわけだが、奇妙なことに、自分の子どもの苦しみ全てを防ぐのに保証された一つの(そして唯一の)方法は、そもそもまず第一に、その子どもを存在するようにしないことである、ということに気づいていると思われる善良な人はほとんどいない。

デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった(存在してしまうことの害悪)』(小島和男/田村宜義・訳 すずさわ書店)

午後十二時四〇分起床。coffee、chocolat。休館日。それゆえほんらいなら古書店をたずねたい日なんだが、空模様が中途半端に悪い。降ってはないがいまにも降りそう。諦めがつきにくい。ちなみにいまは、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」を聞いてる。ナンカ・キョウハ・ミョウニ・カタカナヲ・ツカイタインダ。ポールの声は好きだけどジョンの声は苦手とか言ったオーディオマニアとむかしケンカしそうになったことをいま思い出した。
ところでこの「日記」を書き始めてからもうやがて一年になる。これはなかなか「偉大」なことではないだろうか。毎日欠かさず最低一〇〇〇文字以上ですよあなた。どんなくだらないことでも一年間毎日続けるなんてのはそう容易なことじゃない。嘘だと思ったらやってみるがいい。オイラがこの「日記」を継続できたのはことによると「隣の爺さん」のおかげかも知れない。「強迫さん」のことを事細かく「文章化」する作業が気が付けば日課になっていた。「現に感じているあらゆる不快とあらゆる怒り」をことごとく言葉にするつもりでいた。十ヵ月前くらいの日記を読み返していると、そのあられもない罵詈雑言に閉口し、気が滅入ってくる。「ユー、そこまで言うなよ、クールダウンクールダウン」とついたしなめたくもなるけど、それは暴風雨がいちおう過ぎ去った今だからこそ出来る「大人の対応」なのであり、当時はもう藁人形に五寸釘を打ちつけて呪殺もしくは夜陰に乗じて鈍器で撲殺することしか考えていなかった。あれからいろんなことがありました。残高不足で送電を停止されたジジイに金を貸したこともあった。梨をもらったこともあった。たくさん立ち話もした。つまりそこそこ「親しい関係」にはなれた。でも「強迫さん」は立ち去らなかった。相変わらずその生活音にはイライラドキドキさせられている。日によっては壁クンクンを繰り返してしまう。おそらくこれは「気質」であって「病気」ではないのだ。「根治しよう」などと考えるべきではない。「近くに他人がいる」ということが過剰に気になるのも一つの生物的特性として捉えるべきだ。「イライラドキドキしている自分」を拒もうとしないこと。全部だきしめて、君と歩いて行こう。

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