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解像度の高すぎる夢は危険だ

私は夢の世界が好きで目覚めたら忘れる前に寝床のなかで夢の内容を反芻することが日課である。夢の世界を必死に手繰り寄せる一方で、現実の気迷い事やこなすべきタスクがどんどん浸食してくるので、そのせめぎ合いでたいてい二度寝は出来なくなり日々早朝覚醒に悩まされている。            

悪夢を見ることは無く、私の夢の世界は結構淡々としている。車を運転して旅行に出かけたり、電車に乗ってどこかの目的地へ向かっていたり、まあまあ楽しい。現実世界が冴えないぶん夢の世界で補完している、そんな感じ。

今朝の夢は、冬の日の夕方。日が落ちる手前、空気が一段冷えはじめる。ひんやりした冷気を感じながら私は木立のあいだを歩いている。散策路のような道の大きなカーブに沿ってゆっくりと歩くと、学校か何かの研究施設のような白い大きな建物が見えてくる。その入口から、学生服かどうかはわからないけど黒っぽい服装の若者がぞろぞろと出てくる。ちょうど下校の時間なのかもしれない。         

その建物から女性が出てきた。どうやら私の知人のようだ。私は彼女と少し言葉を交わした。すると、女性はその建物へ戻って行った。それを私は後ろから見送っている。                           

それだけの夢だけれど、目が醒めたとき、その建物らしき外観が異様にクリアに脳裏に映った。100メートル先、手前の木々で全景は遮られ、建物の屋上部分だけが見えている。                          

目醒めたてで覚醒不良だったのかもしれないが、私はこれが夢で捉えた映像記憶なのか実際にこの目で見たものの記憶なのか、もしくは想像上のビジョンなのか全く判別がつかなかった。いや、起きてしばらくは実際に見た記憶だと疑わなかった。朝の支度をして、仕事に向かう車の中で、やっとあれは夢の映像か想像上のビジョンだったとぼんやり正気に戻る、そんな感じだ。そのくらいの現実感を伴い私に迫ってくる。            

また、この学校か研究施設だと思われる白い大きな建物は、今から一年前から半年前に夢で見た学校の外観だと私のなかで完全に繋がった。その夢は、人気のないだだっ広い校舎の中のどこかに向かうため、一人私がうろうろしている夢だ。横幅の広い開放的な階段を私は上る。学校然とした生体反応が全く感じられない場所で何の感情も湧かない場所だった。                         

夢の断片が過去に見た夢と繋がっているような感覚を受けることが私はしばしば有る。まるでこの現実世界とは異なるもう一つの世界が夢の中にれっきと存在していて、その世界のなかでもう一人の私は生活を営んでいる、夢の中に実はパラレルワールドは存在している、そんな風にすら感じている。                                 

確かに昼と夜とで人生を2倍楽しんでいるようで楽しい気もするのだが、ふと薄ら怖い気持ちに囚われることがある。あまりに解像度の高すぎる夢の世界に私は夢と現実の境を見失いそうになるのだ。だが、この強い現実感が私を惹きつけて止まず、いつもその夢の魅力に負けては度々私は夢日記を書いてしまう。しかし、しばらくすると空恐ろしくなって日記をつけることをやめてしまう。度が過ぎていた頃は、眠りにつくことも恐ろしく感じる時期もあった。幾分、緩和されながらも結局そんなことばかりを繰り返している。                   

ネットで「明晰夢」と検索すると、3つ目くらいには「明晰夢を見ることはやめた方が良い」とか「夢日記をつけることの危険性」などが出てくる。全てを真に受ける訳ではないけれど、これらの記事が言いたいことは体感的に理解できる。                                    

夢は私にとって楽しくて、かつ様々な気付きや示唆を与えてくれる有難いものではあるけれど、距離感をほどほどにしておかないと夢の世界に呑まれてしまうので注意が必要だ。このように言語化することで少しは客体化できるのではないかと考え、ひと思いに記してみた。                

耳なし芳一の全身にお経を書き付けている和尚、まるでそんな気分である。


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