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私の「抽象普及運動」               

■結論:私にとっての「抽象普及運動」とは「note」に記事をあげること


■細谷功氏の著書の魅力

これまでも何度か記しておりますが、私は細谷功氏の書籍が好きです。細谷氏の著書は、様々な切り口で「具体⇆抽象」の概念を明解に説いてくれています。読書を通じ「具体⇆抽象」の概念を知り、私の世界の視野が広がることを体感したり、世界に新たな線が引かれ、これまで見えなかった形状が不意に浮かび上がる知的発見も得ることができました。細谷氏の著書は、いつも私にそのような新鮮な感覚をもたらしてくれます。

そんな新鮮な感覚を具体的に例えることができないものだろうかと考えました。そして、以下の事象などは例えとしてどうだろうと浮びました。       

■「具体⇆抽象」で世界線が変わる    

◇世界線の変わる例えばなしその①

随分と前に、視力回復に役立つという触れ込みの「マジカル3D」という本が流行ったことをご存じの方はいらっしゃるでしょうか。どのような本かというと、まず本を開くと、グラフィック模様の絵があります。そして、絵の中央の2つの黒点が1つになるように、目の焦点をずらしながらその絵をぼんやりと眺めます。すると、幾何学やまだらのグラフィック模様から突然に動物や物品の輪郭がくっきりと浮かび上がってみえるのです。ネットで検索をかけていただくと「ああ、これね。」とすぐにお分かりになると思います。(画像を上手く貼り付けられずごめんなさい)           

細谷氏の書籍を読んでいると「マジカル3D」と同じ感覚を知的体験によって得ることができます。日常、何食わぬふうに目に映っていた風景の一部が、突如、輪郭線を引かれ、意味のある物としてググッと立ち現れてくるのです。一度、意味のある物として私の前に立ち現れてしまうと、もうそれ以外には見えなくなり、以前までのぼんやりとした景色を思い出すことすらできなくなってしまいます。視界が突然にガラッと変わるのと同じように、自身の意識や概念がガラッと変わる、次元の上がるこの感覚がたまらないのです。                  

◇世界線の変わるたとえばなしその②

小学低学年の頃、週末、家族と郊外の湖までよくドライブに出かけました。そして必ず湖のまわりを車でぐるっと周遊していました。当時の私は、湖のその先には人の行く手を阻む深い森があり、その端で世界は途切れているものだと思い込んでいました。というか、その先の世界など考えたこともありませんでした。

それがある日、父が湖の裏手の道路に入り込み、道をくねくねと下りました。すると、カーブ沿いに小さな商店は連なり住宅が並ぶ、丘陵の街を形成していました。途切れるはずのその先に世界が続いてたことに私は非常にショックを受けました。と同時に、頭の中の白地図が延伸し、新たな道が書き加えられたことに心の底から感銘を受けました。(その後、本屋で自分用の地図を買い求めたほどです)私の世界の視野がパカーンと開けるこの感覚に強い快感を覚えました。この快感が忘れられず、未だ読書によって同じことが頭のなかで起こることをついつい求めてしまうのです。                                                

■「抽象普及運動」というパワーワード

ところで、細谷功氏の書籍、見えないものを見る「抽象の目」「具体の谷」からの脱出」の巻末の「おわりに」の文中に「抽象普及運動」というパワーワードが登場します。「抽象」と「普及運動」が組み合わさっただけなのにエネルギーが発生するとはなんということでしょう!!(といってもこんな風に感じるのは私だけですが…)ということで、押し売り気味ですが、こちらの書籍の「おわりに」をほんの少し紹介したいと思います。(文中、省略および注釈を加えた個所があります)

世の中の多くの問題(コミュケーションギャップの類)は「具体と抽象の違い」からくるものである。このような状況において、「具体と抽象」や「抽象化能力」という概念とその言葉が共通言語となれば、世の中は大きく変わるという信念をもち、コンサルタントや著述家として、すでに20年以上「抽象普及運動」に取り組んできました。その活動の一環が本書といえます。
(中略)
それ(抽象概念)を少しでも多くの人に共有できる形にし、共通言語とすることで世界を少しでも生活しやすい場所にしたい、というのが著者としての基本的スタンスです。             

目に見えないものを見る「抽象の目」「具体の谷」からの脱出

細谷氏は、世の中に起こる問題の多くが「抽象と具体の違い」によるものだと言います。人間関係における各種コミュニケーションギャップや誰もが陥る考えの落とし穴には、具体と抽象の思考のズレ、いわゆる認知の歪み「認知バイアス」が潜んでいることが多い。そして、認知バイアスの悪い影響を受け過ぎないようにするには、自分自身と周囲のあいだの具体と抽象のズレを認識し、自分や関わる人たちの物事の判断の仕方や思考のクセを理解することが重要だと述べられています。そして、一歩引いて全体を眺めることも、大きくは「抽象化」の一種であると本書に書いてありました。全体を客観的に捉えることで、人間関係におけるズレや不和に気付き、より良い人間関係の築き方を考えられるようになるのだそうです。

「終わりに」の文言にもあるように、細谷氏は、かれこれ20年以上、「抽象化普及運動」に取り組まれています。具体⇆抽象という概念を世に広めること、そして、人々が生きる上で抽象概念を知ることは有用だという信念のもと著述業やコンサルタントに携わられています。そして、その概念を更に押し広げるために、抽象概念のあらゆる角度に光を当て、多くのテーマを書き下ろし、大人から子供まで常に読者の裾野を広げようと取り組まれています。

■私の「抽象普及運動」

それにしても。もし、細谷氏の掲げる「抽象普及運動」に、私が少しばかりでも力を尽くすことが出来るのであれば、一体、どんなことが私に出来るのでしょう。

誰にも頼まれてもいないのに余計なお世話でひとり勝手に思案していたところ、ひとつの考えが浮びました。

実は、言葉もそれ自体が形のないものであり、人間が頭のなかで生み出したものなので「抽象概念」にあたります。ですので、自身の思考を文字に落とすことは、内的世界の言語化(抽象化)です。そして、それを「note」の記事という形式に変換し、外の世界へ発信する行為は、具体行為にほかならず、これはさしずめ「抽象⇆具体普及運動」と言っても良いのではないかと思い至りました。   

■「抽象化」=「具体⇆抽象」

なお、盛んに私は「抽象、抽象」と書き散らかしておりますが、実際は、抽象と具体の一対を成してこそ抽象普及運動だと認識しています。何故なら、具体物があってこそ抽象化は強く促進されるためです。例えば、意識や夢といった概念は、そもそも私という具体物が無ければ意識も夢も発生し得ません。したがって、様々な概念を組み合わせ、より濃密でクリアな抽象世界を立ち上げるためには、具体世界で多くの経験を積み、たくさんの情報(五感といった感覚刺激や自他の感情)をしかと受け止めることが大切なのです。

■具体世界でたくさんの情報を「しかと」受け止める

しかと受け止めろと言っても、周囲にあふれる情報は、自分にとって心地の良い情報ばかりでは決してありません。むしろ、嫌な情報ばかりが目につき、時に、何かに傷ついたり、忌まわしい感情に絡めとられたり、それは決して容易いことではありません。それでも、それらの中から私由来の抽象世界を精製し、構築してゆくには、どのような経験にも無駄なものは無いと捉え、誠実に向き合い続ける、そのような心持ち、「こころの灯」が失せることが無いよう心に薪をくべ続けてゆく作業がとても大切だと感じています。                

■心に薪をくべる                            

こころの灯が消え失せないよう心に薪をくべること、それがどんなことなのかパッと言語化することはできませんが、まずは「note」というスペースをお借りして、ささやかな私の抽象普及運動を続けてゆきたい次第です。と、書きながら、ハタと初回の記事でも同じことを記していることに気が付きました。ほんとうに初心忘るべからずですね、まったく。

そして、「note」で活躍される皆さん、おひとり、おひとりの抽象普及運動は、ことさらに私に多くの発見や学びをもたらしてくれています。「note」に携わられる方々、「note」を訪問される方々への感謝と更なるご活躍を心より願って止みません。最後までお目通しをいただきまして有難うございました。       

                  



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