見出し画像

NiとSeと写真とわたし

■外向的感覚、Seとは                          

スイスの心理学者、カール・ユングの提唱する「タイプ論」に示される心理機能の1つで外向的感覚Seというものがあります。外向的感覚とは、外界の刺激や情報をありのままに知覚する働きであり、この機能に長けている人は、「いまここ」という現実感覚にピントを合わせ、その時々の状況にあわせた反応や行動を適切にとることができると言われています。慣れないこともその場の雰囲気とアドリブで器用にこなせてしまう。見よう見真似でなんとなく出来てしまう。プレゼントのラッピングもお手のもの?とにかく知覚と運動の連携がしっかり取れている。ざっくり言うとそのような感じです。 

■Se劣等な私                                  

一方、私は、このSe機能を子供のころから上手く取り扱うことができず、手こずらされ、劣等感に苛まれてきました。左ききであったこと、体の緊張が高く、常に力んでいたからなのか、手先の作業が全くおぼつかない。私はいわゆる「ぶきっちょ」でした。その後、16タイプ性格診断テストによりINTJを自認し、その由来でもあるユングの「タイプ論」で示される8種類の心理機能を読みかじるほどに、幼少期から学生時代までの屈辱と劣等感の記憶と心理機能の働きが繋がり「なるほど…」と腑に落ちるのでありました。        

ある日、仕事の用事で、正面の顔が写っている写真を用意してほしいと言われることが有りました。しかし、私の手元には写真が全く無いのです。言い訳ではありませんが、私が写真やスマホで画像を滅多に撮らない(正しくは撮れない)ことも、これらSe劣等などの心理機能が災いしていると言えます。一向に写真は見つかりませんが、心理機能と写真がどのように繋がるのか、以下に記したいと思います。               

■内向的直観Niは未来志向                          

元々、私は写真や画像を残しません。なぜなら、過去を思い返したり、思い出に浸ることにあまり価値を置いていないからです。これは、INTJの主機能である内向的直観、Niの特徴が影響していると思います。Niは、未来の時点に自身を仮置きし、そこから現在を捉えようとします。予測される未来に自身を置いて、過去となった現在に対し逆算をして準備するような感じです。言わば、未来の私が現在の私に宛てて手紙を書く、そんなイメージです。                

そして、私は先のことばかりに意識が集中し、始終、予期不安や取り越し苦労をしています。反対に、過ぎたことはすでに確定した事象であり、確定したことに対しては不安や葛藤を抱くことはあまり有りません。それ故、過ぎたことに対する愛着や思い入れもまた乏しいのです。そのため、写真を撮っても後で見返すことは、ほとんど有りません。過去の出来事を教訓としたり、パターンとして記憶することは有りますが、過去を「美しい思い出」として掘り返すことはあまりないです。こうした性格特性から、写真や画像に対する関心も自ずと低くなるのだと推測します。                  

写真や画像は「いまここ」を瞬間的に切り取る作業です。現在に着目せず、常に先のことに目が向けられている。これでは、写真撮影の適性がないのはもっともな話です。いまここにいない感覚やその存在の薄弱さを強く感じさせられます。

■シャッターチャンスがわからない                     

また、写真や画像および動画撮影というものは、感覚機能が優位な人にとっては簡単な操作でしょう。もちろん、直観機能優位の人でも撮影が得意な人はたくさんいるはずです。むしろ、こじつけで個人的なエピソードを勝手に一般化させているだけで、シャッター切ったり、指でタップするなんて誰にでも出来ることでしょう。にもかかわらず、私はこれが上手くいかないのです。まず、いわゆるシャッターチャンスのセンスが無い。わからない。たとえ「今だ。」と感じても何故か瞬間、出遅れて機を逃す。結果、味気のない記録写真で終わり、センスの良い人が撮影した写真と何かが異なってしまいます。                      

■とにかく不器用                              

あと、不器用で目と手の協調が上手く行かず、流暢にカメラやスマホを使いこなせません。カメラのシャッターを押すときに手元は必ずブレる。スマホはどこを持てばレンズに手が映り込まないのか咄嗟にわからなくなる。更に他人様の顔を撮るときは、これらをスマートに扱いつつ、更に愛想よく、ノリよく「撮るよ~」とか「ハイチーズ」等の緊張をほぐすセリフを滑らかに言わなければなりません。写真を撮ることは情報とその処理量の多さからSe劣等者である私にとっては高等技術にあたります。                               

自分のことですらこのような調子なので、知らない人から「すいません、写真撮ってもらえませんか?」などとスマホを差し出されるような行為は本当に避けたいのです。「写真、誰かに頼もうかな…。」というオーラが出ている女性グループを見かけたら、顔を明後日の方向に向ける、足早に通り過ぎる、一切の感情を顔面から削除する等の「声かけないでオーラ」をこちらも対抗して発します。それでも声をかけられたら、連れに「写真、撮ってだってよ。」とすかさず高速パス。パスの相手がいないときは「すいません、時間がないんで。」ってどこの芸能人だよと突っ込みたくなるような不愛想な返答をする始末です。                              

■大事なことはいつでも取り出せる                   

最後に、これはNiの思い込みの強さから来るような気がしますが、大事なことは写真や記録媒体に残さなくても必要なときに記憶の中から取り出せるものだ、と思い込んでいる節が私には有ります。記憶に残らない、印象に残らないものは、所詮たいして重要なものなどではない、とバッサバサと切り捨てたりもしています。更に、その記憶さえも半ば捏造気味に自分の都合の良いように変性させています。つまりは、このような世界観を持っているために、写真を特徴づける機能(SeかつSi的と言えるだろうか)と私の有する心身の働きとの相性があまり良く無いということなのかもしれません。noteの中の「みんなのフォトギャラリー」からイメージに合った写真を探したり、お借りしてタイトルに貼り付けたりするくらいが私にとって写真や画像との丁度良い距離感なのでしょう。

以上、写真が苦手な私について書き連ねました。お目通しをいただき有難うございます。                         

                                

                  

                       

             


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?