本には交流がある9-1 少年という子供でも成人でもない過渡期を否定しない
青森図書館の太宰治生誕100年の記念作文を募っていることを知ったことがきっかけで、全集を読み直してみた。並行して、昭和53年自分が27歳のときに読んだ津島美知子著の「回想の太宰治」も読み返してみた。この本も書店で背文字をみたとき素直に手にしていた。夫人にとって太宰治の姿勢はどう映っていたんだろうと・・・。
聡明な文章でした。
太宰の文学での仕事を心から尊重して、夫、津島修治の天分をわかっていた太宰文学の最高の読者であり理解者だった。それが読み終えた感想でした。
少し話が寄り道します。これからの生き方、いや生き方といえば気取っているかな、どんな、ぢいさんになっていきたいのか思っていた時期です。
なぜそう思ったのか?物が豊かで便利で長寿社会なのに、ふしぎなことに幸せそうでない先輩の大人や老人が私の知るところだけでも多くいることに気がつきだしたのです。以前には、強引な生き方をして何が悪いんだ!と得意げの狡猾の人が大人というもので、かえってこちらが成長がないようなヘンな劣等感、引け目を感じていたが、実際は憎しみや怒りで、目の前の損得だけで動き、気持ちがギリギリしていて勝手な僻みをおこしているように見えてきたのです。憎しみは老人.の敵です。人は、かならず必ず年をとる。老人になってまで憎しみに囚われたくない。皮肉にも長寿社会は、はっきりと気持ちの幸せの人とそうでない人を現したように思えます。遅いかもしれないが、私に一種の欲が出てきました。いままでにない欲です。ギリギリした不機嫌の心でない(囚われていない、ぢいさんになっていきたい)という向上心みたいなものが湧いてきたのです。
それを太宰についてのエッセイを書きながら気づいていったことでした。書くことは頭でなく指でペンで考えることだと今更ながら痛感します。書くから、はっきりしてくる。
そんなことを思い出したころから、私のまえに、しあわせを義務にしているようなひとたちの本や人が現れ出しました。読書の習慣は、このときも私を応援してくれました。少しづつですが考え方をその方たちにまなんでいったように思われます。でも初めは付け焼き刃ですから上手くいくはずがありません。自分の浅はかな考え方の(行ったり来たり)で落ち込むことも多かったのです。それでも、灯台の光だけは見失ないよう難破しない、昧くならない、暗くならない考え方だけは守りたいと思っていました。
そんなときに、あれ何かに似ていると再び気づいた。いつの時ににているか思い出した。16歳17歳の時に似ている。
似ているが決定的に違うところがある。少年期、感性だけからくる根拠の乏しい反抗心と焦燥の時間。もちろん58歳の白髪の少年はいませんが、少年期に訪れる(これからの生き方)を想う気持ちに似ていた。しかし、決定的に違うところがある。あのときは(大人にはなりたくないけれど、特別な人にはなりたい)でした。妄想的な自我。けれども、この時間も大切なことだった。交流分析でいうP(親)A(成人)C(こども)だけでない思春期の少年の過渡期が大事なんじゃないかと、青くさくても、そこはたいせつにしたい。
そして今は(囚われていない爺さん)になりたい、なっていく務めをするのが役目かなとエラソーには思う。ただし、好々爺とは違う意味で言っているつもりです。外からの評価の特別なひとではなくて、かけがえのない自分にたいして感謝する義務があるように見えてきた。きれいごとな言い方過ぎるか、でも実際そう思うだからそういうしかありません。
それが太宰の全集、美知子夫人の「回想の太宰治」を読み直してみて、エッセイを書いて、わかったようです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?