本には交流がある 最終章 かっこちゃんの大きな木 灯台

いよいよ、ほんとの最終章。山元加津子さんの本のことを書くときが来ました。緊張をしっぱなしです。手元にある本を読み返していきました。けれど読み進めるうちに愕然としました。突拍子もないことをしようとしていないか?いったい自分は何を纏めようとしているのか、本からキーワードをいくつ並べても、到底私の意図は表現できない。引用をしても自分の受けた感動は表現のかけらさえ出来ない。全部を引用するしかない。

思えばnoteに「本には交流がある」を書き続けたのは、この最終章のゴール目指したからですが、この、ていたらく、どうしよう、いや、落ち着け、素直に構えずになることだ。
どうしてこの章を書こうとしたのか思い出せと自問の幾日でした。でも(ありがとうの花)を読んでいるときでした。そうだ、ありがとうの気持ちを言葉にすればいい。
山元加津子さんの本は私のそれまでの人生観を価値観を、ひっくり返しました。どの本を読んでも自然な声音を感じた。この方は自然そのままではないか、自然は信じるか信じないかという以前のことだから。
そして、あつかましい言い方ですが、私自身の良心というものに気づかされました。感謝という言葉も思いました。(人は信じるに値する)と宮ぷーが言ったように、私も、かっこちゃんの本の数々を全部、信じられた。
かっこちゃんの本の奥には、おおぜいの子供たちの心があるようにみえる。またおおぜいの、かっこちゃんの大好きなお友達の優しい心もあるように感じます。
本当に同時代に、この人がいてこの本たちがあって、私の人生は気づきの多い、ついてる、ハッピーだと感じます。つらいとき、魂がすぼみそうになったとき、そこにかっこちゃんの本(灯台)がある。読んで本当のことに思いが及べば「あっ」と何かに気づいて航海を続けていける。
本は宇宙の発明かもしれないと想うこともあります。
かっこちゃんの本を評するとかはもちろん論外ですが、どうしても以上のことは言わんといかんと書きましたが、最後に、思いついた私の稚拙な空想の噺を書いてしまいます。

『ある広いひろい場所に、陽の鳥が飛んで来ました。ドングリを落として一度、高い空にとどまり、次の場所に飛びさっていきました。どんぐりは、芽を出し長い長い年月をかけて大きくおおきくなって、たくさんの枝葉をつけ、どんぐりを地面にふらせ、動物が運び、豊かな森をつくっていきました。
最初に現れた木は天にまっすぐにのびて空と交信しているようでした。
枝葉も嬉しく風にゆれている。木漏れ日が射す明るい静かな時空、強い雨のときも葉のおかげで静かな滴となり、地面を潤し、地面の上でも地面の下でも小さな小さな生物がいそがしく働き、土を作っています。そして土は樹を草花を、森を支えます。』
幹と枝葉、かっこちゃんとこどもたち。最初の木と大好きな仲間たちの樹木や草花は一つの宇宙、かっこちゃんの森、雪絵ちゃんの森だと想って、空想の絵を文字にしてみました。下手すぎるけど、あつかましく載せちゃいました。これからも、かっこちゃんの本は灯台の光になります。

本当にありがとう。



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