「赤い糸」 (短編小説)
辞表を出した時、部長の「形だけは引き止めてます」丸出しの顔を備品の詰まったロッカーを整理しながら思い出していた。
一瞬、お前誰だっけ? と云う眼をして、急激に活性化した脳細胞がようやく同じ課の部下であると知らせたようだ。
いい、慣れている。
いつもそうだった。
クラスメイトがはしゃぐ教室で小説を開いていたが、眼は同じ文面を漂っていた。
友人など皆無で、ひとりでいる姿をごまかすために読みもしない本を開いていたのだから。
家にも安らげる場所は無かった。
両親と何があった訳ではないのだが、僕が抜けた方が生来明るい姉の存在もあってみんな楽しそうだ。
僕がいなくても、周りの世界は変わりなく廻っていた。
誰にも気に留められない。
やがて慣れたと云うか、麻痺してきた。
僕はこの地球に降りた異星人だと思えばいい。
そう、だから気持ちが伝わらないのか……。
「……でさ、あいつ、何て言ったと思う? 赤い糸が見えるんですってよ!」
ドアを一枚挟んだ向こうがドッと笑い声で沸いた。
「そこまで言ったら悪いわよぉ」
「いーんだよ、辞めるヤツだし」
飲めない酒を飲まされての失態だった。
聞こえてるんだよ……まぁ、いいか。
少し前、激しい頭痛で眼を覚ました。
男の一人暮らしのワンルームマンションに薬箱などあるはずなく、会社を休み一日のたうちまわっていた。
どれくらい時間が経ったのだろう、喉の乾きに目覚めると左手薬指に赤いロープが綱がっていた。
悪い夢を見ているのだと思い横になり、気が付くと朝を迎えていた。
依然とあるロープを気にしながらも、会社に向かおうと玄関を開けると、街のそこらじゅうに赤い糸や紐など、さまざまな赤い線が道に横たわっていた。
まるで、赤い河だ。
不思議な光景に驚きながらも、駅に向かうが、どうもみんなには見えてないようだ。
パジャマを脱ぐ時にどうしようかと思ったが、この繋がっているロープ、物質を通り抜けて存在しているようだった。 でないと、電車に乗っている今、スーツ姿ではいられない。
だが、触ろうと思えば確かに触れられるのである。
まるで、ご都合主義のSFだ。
つり革につかまった左手から垂れるロープを右手で弄んでいる姿を、隣の女性が眉をしかめて見ていた。
やがて、ある法則が見えてきた。
赤いロープや糸は、太さによって関係が表されているのだ。
あんなに「世紀の大恋愛」と、華々しく社内結婚したバカップル。 新婚旅行で行ったフィジーからの帰り、成田空港で離婚決意し、そのまま届けを出したそうだ。
ふたりを繋ぐ、納豆の糸かと思うほどの細い糸は、すでに行く末を示していたのだろう。
気にして見ると、実に顕著だった。
公園を散歩する、おしどり老夫婦を繋ぐぐ、赤い注連縄。 テレビで観た、若手俳優と熱愛宣言するグラビアアイドル。 糸がマネージャーと思わしき人と繋がっていたので、カモフラージュのためなんだろう。
隣の部屋に住む、新婚夫婦の糸が日に日に細くなって行くのが気になるのだが……。
僕に繋がっている、まだ見ぬ運命の人に逢いたい。
その想いがいつしか自分を満たし、いても経ってもいられなくまった。 こんな僕にも、だれかがいるのだろうか……。
何も出来ない、空気として生きるしかないと思っていた僕に。
逢いたい。
逢って、僕にも生きる目的のような何かを掴みたかった。
僕の中の何かが、折れて消えてしまうまえに……。
急に寒くなった深い秋の朝、僕はキャリーカートとリュックで家を出た。 次に戻るのは、いつになるだろう。
だが答えが出るまで帰るつもりはない。
駅に向かう通勤者の流れとは逆に歩き、僕は空気ではないんだと小さく噛み締める。
赤いロープをたどる旅は、北へ北へと向かって行った。 荷物が多くなるから諦めようとした厚手のハーフコートを、ホッとした顔で着込み首元に襟を引き寄せる。
幾度か、運命の人かと思い、ロープを追って走り寄ったが、その女性をすり抜けてロープは伸びていた。
このロープがもし、どこかで切れていたら……。
貯金の残高と比例して、最初の衝動もなくなっていくのを感じた。
日中でさえ、吐く息が白くなった頃、日本海を臨む奥地の小さな漁村にたどり着いた。
他人である僕を怪訝そうに見ながら、高齢者ばかりの住人達が遠巻きにすれ違う。
それだけ、よそ者が来る事が無い村なのだろう。
視線を避けながらロープをたどると、村の外れの岬に伸びていた。 ススキの揺れる路の向こうに、たった一軒小さな平屋が鈍色の空を背負って建っていた。
「かさかさ」とつぶやくススキの路を、気付くと僕は駆け出していた。
あそこに、いる。
自分でも不思議と笑顔になった口から、白い息を吐きながら走った。
簡単に組んだ竹の物干しには、漁で使うのだろう、網が干してあって寒風に揺れている。
息を整えながら、同時に逸る気持ちも抑えようとした。
僕が動くと、戸やトタン壁をすり抜けて赤いロープも動く。 裏手に廻ってみても、やはり家の中に繋がっている。
間違いない、ロープは家の中に消えている。
だが、どうやって話す?
「赤い糸で繋がっているんで逢いにきました」……それでは頭がおかしいと思われてしまう。
だいたい僕にしか見えないもの、説明して納得されるはずもない。
でも、どんな人なんだろう。
この29年間、空気のように扱われ、自身を異星人と思うことで淋しさをごまかしてきた。
その孤独を癒してくれるひとが、この世に、ここにいる。
知りたい。 ただ、ひと目でも……。
立てかけてある銛や竿を倒さないように、窓から中を窺って見た。 さっぱりとした室内に古い薪ストーブがあった。 ストーブの窓から漏れるオレンジの光が、女性の姿をあたたかそうに照らしていた。
シンプルなワンピースにグリーンのカーディガンを羽織って、スイングチェアーでまどろんでいる。
長いまつげが、あたたかな光で白いであろう頬に陰を落としていた。
女性がお腹に当てている左手に、僕から繋がるロープが確かに見えた。
だが……。
もう一本、女性の服の上を伝い肩に伸びている。 いや正確には、女性の肩に置かれた大きな手に。
浅黒く、節くれだった男性の左手に光る指輪。 男性は後ろから、女性を優しく見つめていた。
ふたりを繋ぐ赤いロープ。
小さくて、とても大きな幸せがガラス一枚隔てた、こちらにも伝わってくる。
混乱していた……。 自分の運命の人が、すでに誰かと幸せそうに暮らしている。
彼女が別れて、僕と出逢うのか。
でも、あんなに幸せそうに……。
今まで見て来た結果、「赤い糸」の効果は間違いない。 だから、会社を辞め旅立ったのだ。
あの彼女の、満ち足りた顔……。
僕の今までの淋しさはどうする! 誰にも相手されず、必要とされなかったこの想いは。
誰かに必要とされたい。 誰かと共に生きたい。
誰かと……。
駅に向かうバス停で、1時間以上もバスを待ちながら、ぼんやりと灰色の雲の流れを眺めていた。
“諦めよう”
そう決めたものの、これから今まで以上の淋しさの中を溺れそうになりながら泳げる自信がなかった。
さっき見た彼女と男性の結婚生活が、とても眩しかったのだ。 他人の幸せを壊してまで、自分自身の幸せを手に入れてもいいのか……。
ふたりの穏やかな笑顔が歪むことは、僕には出来ない。 どうか末永く幸せでいて欲しい。
いい、また以前の生活に戻るだけだ。
一度知ってしまった「期待」と云う、あたたかい塊りをいつの間にか思い出し、気が付くと声を出して泣いていた。
いつしかちらつき出した雪に嗚咽は吸い込まれていった。
「しっかし、部長補佐。 羨ましいっすよ、マジで。 あ、今度から社長さんかぁ」
リビングの食卓に拡げられた数々の料理を、部下達が頬張りながら盛り上がっている。
先日、本社の新事業のために設立する会社の代表に抜擢された。
業績を見込まれての抜擢だったらしい。
仕事に打ち込んで来た。 諦めた、赤い絆を忘れるために。
やがて、赤い糸は見えなくなっていき、私の左手のロープも消えていった。
それで良かった。
「ちょっと、聞いてんすかぁ? 奥さーん、こっち来ていっしょに飲みましょうよぉ」
部下の佐々木が、赤い顔でだらしなくネクタイを緩めている。 少し飲ませ過ぎたか。
妻も料理を終え、カウンターキッチンの向こうで微笑んでた。
「新・社長♪ あんなキレイで若い奥さん、どこで摑まえたんすか」 「そうそう、30歳も離れてたら犯罪ですよ」
妻とは、彼女が17歳の時に出逢った。
彼女からの猛烈なアタックで根負けした私が結婚を決意したのだった。 ご両親に挨拶に行くと、そこは若い頃、ロープをたどり行き着いたあの家。
あの時、幸せそうにまどろむ彼女に伸びていたロープは、左手ではなくその先、彼女のお腹の中に伸びていたのだ。
あれから孤独に負けないように、ひたすら前を向いて歩いた。
ただ、それだけだ。
「マジどうやって知り合ったんすか? そろそろ教えてくださいよ」
真っ赤に緩み切った顔で部下の佐々木が肩を組んで来た。
「そうだな……、赤い糸だよ」
グラスを持ったまま、怪訝そうに固まる佐々木を見て、私は妻を想い少し笑った。
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