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源氏物語より~『紫の姫の物語』4

4 葵の上の章

 わたくしが悪いのではないわ。

 酔った下人げにんどものしたこと。わたくしには、止めようがなかったのよ。

 でも、『葵祭の車争い』の一件は、またたく間に、都中に広まってしまったという。そして、わたくしが悪役になっているのだと。

『実家の権力をかさに着た、傲慢な女』

『温厚な左大臣には似ない、気の強い姫』

 ですって。ひどいわ。まさか、このわたくしが、下人たちをそそのかしたとでも?

 お腹がふくらみ始めているわたくしは、わざわざ外出などしたくなかったのに、女房たちがどうしてもとせがむから、賀茂の祭に先立つ斎院さまの御禊ごけいの日、車を連ねて見物に出たのだった。光君が勅使ちょくしとして立たれ、賀茂川に向かうみそぎの行列に供奉ぐぶなさるので、その晴れ姿を拝見するために。

 ところが、出遅れたために、御禊の行列の見られるよい場所は全て、他家の牛車に取られてしまっていた。見渡す限り、一条大路は人と馬と車で一杯。高く作られた桟敷席はそれぞれに飾り立てられ、女房たちの出衣いだしぎぬが華やかにこぼれて、盛装ぶりを競い合っている。

 車という車からも、女たちが袖口や裳の裾をのぞかせて、色合わせの才覚を誇っている。徒歩の者はみな、互いに押し合いへし合いして、少しでも前へ出ようとする。

 どこの邸の女たちも、こぞって光君を目当てに出掛けてくるらしい。遠い国からわざわざ、妻子を連れて見物に来る者も少なくないとか。興奮したざわめきが、大路一杯に響き渡っている。

 ――光君は、もうお通りかしら。いいえ、まだよ。斎院さまのお供の方々は、たくさんいらっしゃるわ。どの方がそうなのか、ちゃんとわかるかしら。もちろんよ。一際美しいお方だから、間違えようがないわ。何といっても、光り輝く君よ。

 そういう女たちの声を聞くうち、

(わたくしは、あなたたちの憧れの方の正妻なのよ)

 と、さすがに晴れがましく、誇らしい気分になったのは確か。

 びっしり並んだ車のうちに何台か、比較的地味な車があったので、これなら押しのけてよかろうと、うちの郎党たちは考えたらしい。

「こちらは左大臣家のお車ぞ。場所を譲れ」

 と無理に押し出そうとした。ところが、向こうは六条の御息所のお車だったのだ。わざと目立たぬように、地味にしつらえてお出ましだったものを、物知らずの若い郎党たちが、身分の低い者の車と勘違いして。

 どんな方かは、よく知っていた。

 あの方の第一の愛人。桐壺院の故弟宮に愛され、斎宮になられる姫君を産んだ方。当代最高の貴婦人と名高いのは、美貌だけでなく、才気も教養も兼ね備えておいでだから。

 どれほど素晴らしい方なのかしら、とあれこれ想像して、密かに嫉妬していたものだけれど。まさか、こんな所でかち合うなんて。

「何をする。無礼を働いてよいお方ではないぞ」

 と向こうの郎党も、お車を守って引こうとしない。そのうち、こちらの郎党たちも、

「や、あれは六条のお方さま」

「これは、まずいことをしてしまったか」

 と悟ったようだけれど、そこは力の余った若い男たち。年輩者の制止も聞かず、酒の酔いと祭りの興奮に任せて、そのまま無理を通してしまった。

「こちらは、源氏の君の北の方のお車だ。そちらは、ただの愛人ではないか」

 と嵩にかかって、向こうのお車に打ちかかり、簾を引きちぎったり、ながえを折ったり、踏み台を壊したり、罵声を浴びせたりしたという。

 乗っていらした御息所さまは、どんな恐ろしい思いをなさったことか。せっかく早くから場所を取っていらしたのに、行列の見えない後ろへ押しやられ、どれほど悔しい思いをなさったか。

 それがわかった時、わたくしは気分が悪くなり、飾り立てた行列が通過する長い時間を、やっとのことでこらえるしかなかった。

 この場から逃げようにも、車は隙間なく立て込んでいて動きようがない。斎院さまの御輿のお供をなさる光君は、馬上からわたくしの乗る車を認めたらしく、わざとゆっくり進み、黙礼して敬意を示して下さったけれど、それさえも、わたくしにはいたたまれない。

 華やかな行列が通り過ぎる間、わたくしはずっと、一つのことだけを恐れていた。この出来事が光君のお耳に入ったら、どう思われるだろう。

『さもあらん。あの葵の上はわがままで、権高で、女らしい思いやりのない方だ』

 と言われるのではないか。

『わたしが尊敬し、礼を尽くしている高貴な女人に、なぜ妻のあなたが恥をかかせたりする』

 と、お怒りになるかもしれない。

 どうしよう。どう言い訳したらいいの。

 わたくしが何か訴えても、本気で聞いては下さらないのではないかしら。常日頃のわたくしの態度を顧みると、あまりにも、光君に与えてきた印象が悪すぎる……

 ***

 その晩、わたくしの女房たちから話を聞いて、お父さまが驚かれ、六条邸にお詫びの使者を送って下さったけれど、わざとではない、わたくしの指図ではないと、御息所にわかっていただけたかどうか。何よりも、申し訳ないと思う気持ちが、光君にまで届いたかどうか。

 事実、その後しばらく、光君は我が家においでにならなかった。わたくしははらはらして過ごしていたけれど、やがて、噂が届いてきた。

 何でも、賀茂の祭の当日に光君は、二条院の女と同車で見物にお出掛けだったとか。

 世間の人々は、あっと思い知ったらしいのだ。いま現在、光君の寵愛が最も深いのは誰なのか。

 正妻のわたくしではない。長年の愛人の御息所でもない。

 出自の知れない、新しい女。

 もう、望みはないとわかった。元々、あの方は左大臣家の後援が必要だっただけ。わたくしは、お義理の妻にすぎない。形だけ奉っておけば、それでよいだろうと思っていらっしゃる。

 その証拠に、たまに邸へやって来ても、お父さまやお兄さまたちと飲む方が優先なのだ。それだけではない。わたくしの女房の何人かにも、こっそり手を付けていらっしゃる。それを知っていて、知らぬ顔をしていなければならない苦痛。

 もちろん、わたくしにも確かに、いけないところがあった。最初のうちは、すねていたから。せっかく東宮さまからのご内意があったというのに、お父さまが断っておしまいになったと聞いて。

 なぜ、中宮になる夢、国母になる夢を台無しにしてくれたのかと、しばらくは恨めしかった。それが、女の最上の誉れではないの。

 でも、源氏の君と夫婦になってから、わかったのだ。お父さまは間違いなく、この世で最高の殿方を、わたくしのために選んで下さったのだと。

 世界がどれほど広くても、光君以上にまばゆい殿方はいない。世間では左大臣家の御曹司としてもてはやされるお兄さま方も、光君と並べて見たら、比較にならない凡庸さ。

 それなのに、わたくしはうまく自分の気持ちを表せなかった。年上だという引け目もあって、つい、つんけんしてしまい、ぎくしゃくしてしまう。

 それに、あの方もまた、女の気持ちなど深く考えない。表面の態度は柔らかいけれど、根底では、自分は愛されて当たり前、望まれて当たり前、とふてぶてしく構えているところがある。口先では、すらすらお愛想を言うけれど、

(このくらい甘いことを言えば、女は感激するだろう)

 という作為が透けて見えてしまうのだ。何も考えず、そのお愛想に浸ってしまえば、それで済むのかもしれないけれど。

 わたくしのことも、心の奥では、

(甘やかされて育ったから、いつも相手が機嫌を取ってくれて当たり前、と思っているんだ。その態度を改めるまで、少し放っておいてやろう)

 と見下しているのがわかる。その図太さがつい、勘にさわって反発してしまう。いけないとわかっていながら、冷たく振る舞ってしまう。

 そうして、あの方が帰ってから、一人でくよくよと悔やみ、思い悩む。

 そんなことを、もう何年続けてきただろう。

 もういい。

 よく、わかった。

 わたくしにも六条の方にも、もはや勝ち目はないのだ。寵愛されているのは、二条の自邸に引き取られた娘。若く気の利いた女房をたくさん付け、最高の調度や衣装をしつらえ、ご自身も昼といわず夜といわず西の対に出入りなさって、北の方同然の扱いだという。

 これまで、内輪の噂だけは聞いていたけれど、それがとうとう、世間にも知れ渡ることになってしまった。古い女が車争いなどしているうちに、源氏の君は、新しい愛人に夢中だと。

 もはや、笑ってしまうしかない。

 わたくしたちは、祭りを盛り上げた道化のようなもの。

 本当に愛しているのは、どこの一族の出とも知れない、その娘というわけ。身分がなくても、財産がなくても、その娘当人を大事に思ってらっしゃるのね。

 もういいの。

 もういいわ。

 わたくしは、母になるのだから。

 光君が愛して下さらなくても、わたくしは生きていける。この子がいれば。

 わたくしはどうせ、あの方の好みの女ではないのだもの。

 結婚した、最初の頃からそうだった。わたくしを抱いていながらも、しばしば上の空で、他の誰かのことを思っているのが、はっきりわかってしまったから。

 以前はそれを、六条の方なのかと思っていた。でも、違う。いつでも会える女性のことを、そう思いつめるはずがない。

 やはり、二条の女なのか。長いこと思い続けていた相手だから、ようやく手に入れて、有頂天なのか。

 あるいはまた、わたくしの知らない誰かなのか。だとしたら、気振りにも出せないほど、難しい相手であるのに違いない。皇女のどなたかか、さもなければ、一度噂になった、右大臣家の姫君か。でなければ、その姉妹のどなたかか。

 わたくしはおそらく、あの方にとって、三番目か四番目、いいえ、それ以下の女でしかないのだろう。

 だとしたら、泣いてすがっても無駄なこと。せめて、みっともないあがき方だけはしたくない。

 車争いの件では、あの方にどう言い訳したとしても、どうせ信じてはもらえないだろうから、知らない顔をしていようと決めた。二条の女のことも、向こうから言い出さない限り、口にするまい。

 それよりも、子供を授かったことを、最大の幸運と考えよう。少なくとも、あの方が、ご自分の子供を無視することはできない。これから先は、子供を通して、わずかなりとも、つながりを持ち続けられるのだから。

5 光源氏の章

「若君でございます!!」

「お元気な若殿でございますよ!!」

 白い調度を揃えた産屋うぶやに、赤子の泣き声が響くと、それまで張りつめていた左大臣邸の人々は、わっと浮かれて沸き立った。

「いや、めでたい、めでたい」

「これで一安心でございますわねえ」

「まあまあ、何と元気のよい泣き声でしょう」

 わたしもまた、深く安堵していた。とにかく、無事に生まれたのだ。それが何より。

「ご覧なさいまし、光君さま」

 しばらく経って、白装束の女房に抱かれて連れてこられた子を、わたしも恐る恐る抱かせてもらった。

 本当に小さいが、ふくふくとして温かい。きょろっとした黒い目を見開いて、甘い乳の匂いがする。壊れそうに小さいくせに、爪まで揃った手を、ぎゅっと握りしめている。猿のように赤くて、まだ、誰に似ているともわからない目鼻立ち。

 しかし、左大臣も、北の方の大宮さまも、頭の中将たち兄弟も、目は誰それ、口許は誰それと楽しく言い合っている。

 とにかく、よかった。

 この子はわたしの跡取り息子として、皆に守られて育っていく。わたしにも、本当に家族と呼べる者ができたことになる。

 わたしは古参の女房に頼み、そっと産屋に入れてもらった。白い几帳や屏風に囲まれ、しおれた白い単一枚の葵の上は、げっそりと疲れはてた様子で、白いふすまにくるまれて横になっている。あたりの白さを映したかのように、顔に血の気がない。

「葵の上」

 わたしは枕元に用意された白いしとねに座り、遠慮しながら手を握った。産屋に長居をしては迷惑だろうから、すぐ引き上げるが、礼だけはじかに言っておきたい。

「ありがとう。よく頑張ってくれたね。本当に嬉しいよ」

 これまでの言葉遣いより、あえてくだけた言い方をした。子が生まれたのだ。本当の夫婦にならなければ。

 賀茂の祭の一件では、確かに、六条の御息所がひどく傷ついたようで、邸の女房たちにもあてこすりを言われるし、

(困ったことをしてくれた)

 と腹も立ったが、この疲れきった様子を見れば、まず痛々しさが先に立つ。

「元気で立派な息子だ。すぐに、院の御所にも使者を出そう。父上が、どんなに喜んで下さることか」

 と声を明るくして言った。

 だが、葵の上は、誇らしい笑みを浮かべるのではなく、ただ、ほろほろと涙を流す。わたしはびっくりして、顔を寄せた。

「どうしたの。まだ苦しいのか。祈祷きとう薬湯やくとうは効かないのかな? それとも、何か汁物でも運ばせようか。でなければ、手足をさする?」

  初めてのお産というのは、相当に大変なものなのだろう。お付きの女房たちから、悪阻つわりがひどかったことは聞いていたが、夏場の暑さでもまた、体力を消耗したに違いない。これから回復してくれればいいが、青ざめた頬に、ただ涙だけが流れていく。そのうちに、唇がかすかに動いた。

「わたくしの、役目は、終わってしましました……」

 何、何だって。

「跡継ぎの息子さえできれば、もう、わたくしに用はないでしょう? ここへいらっしゃるのは、ただ、それだけのためでしたものね……」

 わたしは息ができなくなった。

 この人は、そんな風に思っていたのか。

 いや、でも、それは違う、とは言えない。わたしは確かに、左大臣家という後ろ盾を失いたくないために、子供を作ろうと努力していた。孫ができれば、父上も、どんなに安心して下さるかと思っていた。怜悧なこの人には、ちゃんとわかっていたのだ。

「ねえ、葵の上」

 努力して、優しい声を出した。

「息子を産んでくれて、とても嬉しいよ。将来が楽しみだ。きっと、素晴らしい公達になる。でも、わたしは欲張りだからね。次は、姫が欲しいな。あなたによく似た、可愛い姫を何人も……」

 わたしの手の中にある手は、ひんやり冷たく、力がない。不安が強くなった。この人は紫の姫と違って、外を駆け回ったことなどない、本当の深窓の姫君だ。やはり、体力が乏しいのかも。

「いいの。そう、無理なお芝居をなさらないで」

 責めるというよりは、ただもう静かにあきらめた、という様子。

「あなたには、他に、大切な方がいらっしゃるんですものね……ここにお泊まりになるのは、いつも、仕方なく、でした……」

 そうか。それも、知られていたのか。

 わたしにとっての最愛は、藤壺さま。次は若紫の姫。それから、いつも甘えられる六条の御息所。

 死んだ夕顔のことは、思い出すのも苦しい。その中で、この人はいったい何番目に当たるのか。

「あなたは、わたしの妻ですよ。あなたが一番大切に、決まっているじゃありませんか」

 けれど、葵の上は涙を流したまま、うっすら微笑んだ。わたしの口からは、いつも社交用の美辞麗句が流れ出るのを知っている。完全な嘘ではないが、大幅に飾り立てた言葉。それを交わし合うのが、貴族の日常。そうでないと、世渡りできない。打ち解けた口を利こうと努力しながら、わたしもつい習性で、普段のよそ行き口調に戻ってしまう。

「もう、いいのです。わたくしが何番目でも。わたくしには、あなただけが、ただ一人の殿方だから……ずっと、お慕いしていました。でも、これからは、あの子が、わたくしを慕ってくれます。あなたの分まで」

 刺されたように、胸を貫かれた。

 わたしが。

 このわたしが、葵の上の最愛の相手だというのか。

 そして、わたしの愛が足りないから、もはや何も期待せず、あとは子供にすがると。

 これがこの人の本音なのだと、胸に打ち込まれるようにわかった。これまでの強がりが全て、極限の疲労によって押し流されたのだ。

「もっと早く、言えばよかった。でも、認めるのが、悔しくて……」

 何ということだ。わたしは愛されていたのではないか。これまで、それを知らなかったなんて。

 いや、自分が知ろうとしなかったのだ。他の女性のことにかまけていて。

「葵の上」

 白い手を握りしめ、その上に身をかがめるようにして、心底から訴えた。

「わたしこそ、あなたに見下されていると思って、怖かった。年下の夫としては、強がるしかなかったのです。あなたがこんなに素直な、可愛い方だなんて、知らなかったのですよ。でも、これからは、もっと仲良くなれる。もう、くだらない意地の張り合いはよしましょう」

 ようやく、力のない手から、わずかな反応が返ってきた。

「かわ、いい?」

 そうか。この人は、わたしにそう言ってほしかったのか。美しいでも、気高いでも、賢いでもなくて。

「そうですよ。あなたの泣きべそ顔は、本当に可愛い」

 励まして元気になってくれるものなら、何でも言おう。

「悔しい時は悔しい、悲しい時は悲しいと、素直に言って下さればいいんです。怒りたい時は、わたしをぶってもいい。引っ掻いてもいい。ものを投げつけてもいい。好きに振る舞っていいんです。わたしはそういう、飾らない人が好きなのだから」

 白い顔に、ほんのり笑みが浮かんだ。

「あなたがお好きな方は、あなたのことを、ぶったりするの?」

「いや、その、それは……また別の話で」

 紫の姫は、怒ると遊び道具でも何でも投げ付けてきたものだが、それはまだ子供だったから。

「ただ、わたしは誤解していた。あなたがもっと、冷たい人だと思っていた。とんでもない間違いだったと、ようやくわかりましたよ。今度からは、何でも言いたいことを言って下さい。そうしたら、わたしも正直になれる」

 この世界では、それが一番、難しいことなのだが。

「あなたの愛しい方は、正直な方?」

 というのはまた、困った問いである。

「ええと、それはその……」

 紫の姫はそうだ。まだ、大人の世界の悪知恵に汚れていない。でも、藤壺さまも嘘の嫌いな方である。

「その人はね、人妻なんです」

 わたしは思いきって白状した。几帳を隔て、隅で控えている女房たちに聞こえないよう、声は低めたが。

「立派な夫がいて、幸せに暮らしているのですよ。だから、わたしもいい加減、あきらめようと思っていた。今度から、あなたがそれを手伝って下さればいい。泣いたりすねたりふくれたりして、わたしを引き留めてくれればいいんですよ」

 葵の上はうっすらと微笑み、あとは、どこか遠くに視線をさまよわせた。

「本当は、わたくし、姫も欲しかったの……可愛い女の子がいたら、どんなに楽しいか……でも、とても疲れました……こんなで、また次の子が産めるかしら……」

「もちろん、産めるとも」

 わたしは空事そらごとではない、本気の熱意で言った。ここは女房たちに聞こえてもいいから、声を強くして。

「いくらでも産ませてあげるよ。すぐに元気になるから、大丈夫。わたしがついているからね。欲しいものは、何でも取り寄せよう。痛い所は、さすってあげよう。何も心配しなくていいから、元気になることだけを考えて」

 わたしはもしかしたら、この人に、母の幻を重ねているのかもしれない。母はわたしが物心つかないうちに、病んで逝ってしまった。呪詛されたのか、毒殺されたのか、それともただの心労だったのか。

 わたしは、顔すらも覚えていない。お祖母さまと父上から、思い出話を聞いただけ。母上が生きていて下さったらと、子供時代、幾度悲しい思いをしたことか。

 もし、この人が死んだら、生まれたばかりの息子も、母親の顔を知らないことになってしまうのだ。そんなことにさせてはいけない。絶対に。

「約束する。あなたが元気になるまで、ずっと付き添っているよ。浮気もよそ見もしない。さあ、少し眠るといい。一眠りしたら、楽になるから」

「手を……」

 葵の上は、どこまで信じていいかわからない顔をしてささやいた。

「手を、握っていて下さる?」

 これが紫の姫なら、大威張りで命令するだろう。

『手を握っていて!!』

 そして、わたしがその通りにするものと信じきって眠るだろう。この人がそういう無邪気さを持てないのは、たぶん、わたしの責任だ。

「ずっと握っているから、大丈夫。あなたが目覚めるまで、ここにいるからね」

 わたしは約束した。そして、その約束を守ろうと心に誓った。女房たちは、わたしが産屋に長居するのはよくないというが、出産の穢れなど知ったことか。この人が元気になるためには、心の張りが必要なのだから。

 わたしは今まで、この人のことを考えなさすぎた。あまりにも身勝手だった。でも、この人がわたしを必要としてくれるなら、わたしはここに、本当の自分の家族が持てるではないか。

 心の底では、わかっている。藤壺さまは、焦がれても手に入らない、天上の月のようなものだ。それよりも、人に祝福される相手と愛し合う方が、はるかにいいのだと。

 そうだ。愛しい妻が二人いても、いいではないか。葵の上と、紫の姫と。

 双方に子供ができれば、もう寂しいことも、心細いこともなくなる。わたしが本当に欲しかったのは、浮かれ歩きの先ではなくて、そこから帰っていける家なのだから。

   「紫の姫の物語」5に続く

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