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『ペルシアン・ブルー6』

8 ミラナの章

 夜中、人々のざわめく気配で目が覚めた。ミラナははっとして自分の寝台から飛び降り、四隅に支柱を立てたパリュサティスの寝台に駆け寄ったが、垂れ布の中はもぬけの殻である。夜番の侍女が発見して、宦官や女兵士たちに知らせたものらしい。

(アルタクシャスラさまのところだわ。ダラヤワウシュさまのことで……)

 明日では遅いと思いつめ、頼りにする兄に相談に行ったのだろう。身の軽い姫なら、後宮から抜け出すことは難しくない。

 リタストゥナ妃も起きてきて、表の宮殿に人を派遣するよう命じている。けれど、それより早く、王女の身柄が届けられた。ゾルタスが、小柄な少女を抱いてやってきたのだ。

(では、アルタクシャスラさまにお会いできたのだわ)

 それにしてもパリュサティスは、まるで立てないような弱り方で、女兵士に託されても、うつろな様子だ。

「この子はまた、人騒がせなことを。ミラナ、そなたが横にいながら、何という不始末ですか」

 リタストゥナ妃に叱られたが、ミラナはひたすら平身低頭してやり過ごした。それより、パリュサティスの様子が尋常ではない。

 ゾルタスは、ミラナにそっと目配せしてから立ち去った。必要なら、外部との連絡は取れるということだろう。これまでも、パリュサティスがお忍びの外出を望んだ時など、ミラナが仲介して、ゾルタスの配下と連絡を取り合っていた。

 しかし後宮が落ち着かないうち、今度は、皇太子の所の侍女頭が、武装した兵士たちを連れて現れた。中年の、たくましく骨ばった侍女頭は、夜中だというのに、完璧に美しく装っている。

「リタストゥナさま、こちらでは姫さまの警護が足りないのではないかと、皇太子さまの仰せです。今夜もまた、危険な外出をなさったとか。よろしければ、ただいまから、わたくし共が姫さまをお預かりいたします」

 言葉こそ丁寧だが、命令に間違いなかった。威厳ある侍女頭は、兵士たちに命じて、パリュサティスを小ぶりな輿に押し込める。四人の兵士たちが、輿を軽々とかつぎ上げた。

 リタストゥナはうろたえたまま、娘が連れ去られることに逆らえない。婚儀の日までは、娘を手元に置けるはずではなかったか。

「お待ち下さい!!」

 ミラナは咄嗟の判断で前に飛び出し、侍女頭の前に膝をついた。

「わたくしは、姫さまの筆頭侍女でございます。姫さまのお世話は、わたくしでなければ行き届きません。姫さまのお好みは、何もかも存じ上げております」

 それから顔を上げ、輿の中のパリュサティスに呼びかけた。

「姫さま、わたくしを是非、お連れ下さいますようお願いいたします」

 かろうじてパリュサティスは、声を出した。

「ミラナも一緒に……一緒でないとだめ……」

 尊大な侍女頭は、恩恵を施すように言う。

「こちらでも侍女はお付けしますが、まあよろしいでしょう」

 ミラナはほっとした。皇太子側では最初から、その方が面倒が少ないと思っていたのだろう。

 一行は篝火に照らされた回廊を通り、幾つもの宮殿を過ぎて、とりわけ警備の厳しい建物に入った。王宮内でも初めて訪れる場所だが、そこに立つ警備兵の衣装から、ミラナには、ここが皇太子の宮殿であるとわかった。他の王子たちは何十人もまとめて一つの宮殿に押し込められているが、皇太子だけは別格の扱いなのだ。

(それでは姫さまは、これから婚儀の時まで、ここに監禁されるのだわ)

 助けを求めてアルタクシャスラ王子に会いに行ったはずが、拒絶されたのか。もう既に、皇太子との婚儀は決まったものとみなされて。それならば、姫の絶望は、ミラナにはよくわかる。

 遅い時刻にもかかわらず、皇太子も親衛隊長も起きていて、パリュサティスを出迎えた。部屋着姿の皇太子は、咎めるというよりも、面白がる顔である。

「そなたはどうも、禁止されたことをしたがる悪い癖があるようだな。未婚の王女が、勝手に出歩いてよいと思っているのか」

 輿が下ろされると、パリュサティスはミラナに支えられて立ち上がった。ようやく、顔に意志が戻っている。

「あたくしはまだ、母の庇護下にあります。後宮へ戻して下さい」

 皇太子の不興を買うのではと、ミラナは内心で恐怖に囚われたが、大柄な男は薄笑いのままだ。

「それはできんな。リタストゥナさまは、そなたに甘すぎる。これから婚儀の日まで、わたしがそなたを守ることにした。さもないと、そなたに悪い噂が立つかもしれん」

 パリュサティスはまだふらついていたが、それでも負けん気を絞り出した。

「あたくしはまだ、兄上さまとの結婚を承知するとは言っておりません。返事は、まだしばらく、待って下さるはずではありませんか」

 あたりに降りた沈黙は、手で触れられるほど張りつめていた。威厳を備えた親衛隊長も、経験豊かな侍女頭も、居並ぶ兵士たちも、顔を凍らせている。常識では、皇太子の申し出を拒む女など、いるはずがないのだ。

 ミラナも冷たい汗を感じた。皇太子の機嫌次第では、パリュサティスはどんな運命に見舞われてもおかしくない。いくら王女といっても、女の命の価値は、男より軽いのだ。

「待つつもりでいた。そなたが、こんな、はしたない振る舞いをしなければな。未婚の娘が、夜中に、男の部屋を訪ねてもよいと思っているのか。その考え違いは、正す必要がある」

 断罪するかのような言葉を聞いて、パリュサティスは何か反論しようとしたようだが、思いとどまった。これ以上逆らえば、殺されかねないと感じたのだろう。

(そうです、姫さま、ここはこらえて)

 ミラナは内心で祈っていた。さっきのゾルタスの目配せは、こういうことだろう。姫を絶望させず、機会を待てと。

「奥へ連れていけ」

 皇太子の指示で、侍女と女兵士の群れが、パリュサティスとミラナを取り囲んだ。階段を上がって連れて行かれた先は、豪華な調度で飾り立てた続き部屋ではあるが、地上からは高さがあり、扉の外にも窓の下にも、複数の兵士が立っている。警備犬を連れて、あたりを巡回する兵士の姿も、篝火に照らされて見える。

(やはり、牢獄だわ)

 侍女たちは、パリュサティスの寝支度を手伝うと隣室に引き下がり、ミラナ一人が後に残された。ようやく二人になって、ミラナは寝台に腰かけた女主人の足元に膝をつく。

「姫さま、とにかく今夜はお休み下さいませ。何か考えるのは、明日にいたしましょう」

 何を話しても、隣室の女たちが聞いているだろう。隣室との隔ては、厚地の帳だけだ。ここは敵地なのだから、迂闊な言動はできない。

「ミラナ、ごめんね。こんな所に連れてきてしまって」

 油皿に灯されたわずかな光の元、パリュサティスが悔やむような顔で言うので、ミラナは手を取って慰めた。

「わたくしは、筆頭侍女ではありませんか。常にお傍にいるのが、当たり前ですわ。姫さまは、わたくしに甘えて下さってよいのですよ」

 だが、これから先、どうなるのだろう。皇太子は本気で、異母妹を妃にしようというのだろうか。それともそれは、弟の反抗を誘う罠なのだろうか。謀反の動きがあれば、即座に叩き潰すつもりかもしれない。

(いいえ、アルタクシャスラさまが、きっと助けて下さる。このまま、姫さまを見捨てる方ではないわ。今はただ、機会を待っているだけよ)

 そうは思うものの、皇太子とただの王子では、力の差は歴然としている。アルタクシャスラ王子に、何ができるのだろう。国を二つに割ってでも、パリュサティスを取り戻すというのでない限り。

 ***

 旅の疲れが出たのか、心に受けた打撃のせいか、パリュサティスは熱を出して、しばらく寝込んだ。

 医師を必要とするほどではなく、ミラナはスープを飲ませたり、肌を清めたり、着替えをさせたりして世話をした。風邪のようなものだろう。季節は春だから、療養するにはよい時期だ。

 他の侍女たちは、パリュサティスの陰気な無口ぶりに閉口して、ミラナを介してしか接触しないようになった。彼女たちにしてみれば、パリュサティスが大人しくしていてくれれば、それでいいのだ。

 最高級の葡萄酒も、香りのよい薔薇水も、新鮮な果物も、ミラナが要求したものは何でも差し入れられた。皇太子の婚約者なら、物質的にはどんな贅沢もできるのだ。もっともパリュサティスはあまり食欲がなく、ほとんどスープと果物しか欲しがらなかったが。

 四、五日経って、パリュサティスが寝床の中でひっそり泣いているので、ミラナは驚いて側に膝をついた。

「姫さま、どうなさいました。そんなにお辛いのですか」

 熱はさほど高くないはずだ。しかし、パリュサティスは惨めそうに言う。

「あたし、始まったみたいなの……」

 ミラナはすぐに察した。以前から、下着の汚れ方にその前兆を見て、そろそろだろうとは思っていたのだ。

「おめでとうございます、姫さま。何も、ご心配はいらないのですよ。いま、お手当てをいたしますから。痛みがひどい時は、薬湯を煎じることができます」

 後宮の母后に知らせれば、すぐさま、薬草を届けてくれるはずだ。心配をかけないよう、パリュサティスが寝付いていることは知らせていないが。

 しかしパリュサティスにとっては、これで、結婚という現実が、ますます身に迫ってきたのだろう。肉体は日々、成熟に向けて変化しているのだ。もう、子供には戻れない。子供のふりをすることすら、できないだろう。

「こんなもの、来なくてよかったのに」

 と、赤毛の乙女はすっかり落ち込んでいる。悲しい気持ちは、ミラナにも覚えがあった。これでもう、子供だという言い訳は一切許されなくなるという、沈鬱な覚悟をしたものだ。

 しかし、女がみな、たどる道である。痛みも不自由も、妊娠の危険も、全て引き受けるしかない。その上で、生きる道を切り開くのだ。

「お妃さまにも、お知らせしましょう。気にかけておいででしたもの。お喜びになりますわ」

「だめ。知らせないで。嬉しくなんかない」

 その気持ちはわかるが、周囲の侍女たちにも、汚れ物のことは隠せない。すぐにも皇太子に報告が届けられ、内輪の宴席での笑い話にされるのではないか。男というものは、女の辛さも苦労も、当然の罰であるかのように扱うのだ。

 実際、更に四、五日が過ぎて、パリュサティスの熱が下がった頃、皇太子が見舞いに来た。〝穢れ〟の時期は過ぎたと、侍女の誰かが報告したのだろう。

「ご機嫌はいかがかな、婚約者殿」

 パリュサティスはまだだるさが取れず、風の通る露台の近くで、寝椅子に横たわっていた。礼儀上は立ち上がるべきだが、その気力もない。ミラナが気にして支え起こそうとすると、皇太子は鷹揚に手を振ってみせる。

「ああ、そのままでよい。顔を見に来ただけだ」

 そして、お付きの兵が置いた銀の脚の椅子にかけ、満足そうに赤毛の娘を眺める。

「順調に育っているようで、安心した。そなたが十五になったら、聖都で婚儀を行うからな」

 やはり、貴族の姫を妻にした時よりも、一段、格上の扱いにするつもりのようだ。

「それまでに、もっと女らしくなっておけ。わたしを満足させられるようにな。そなたには、元気な子をたくさん産んでもらわねばならん」

 それは馬の繁殖を楽しみにするような言い方であり、近くに控えていたミラナも、内心で悲憤を感じた。皇太子なりの励ましの表明なのかもしれないが、これでは姫も、反発の方が強くなってしまうだろう。

 パリュサティスは顔をそむけ、返事をしなかった。動物の雌のような扱いを受けて、怒りや恥じらいよりも、脱力の方が強い。

 この人とは、少しも気持ちが通じないのだ。というより、女には、考慮するに足る気持ちなど、ないと思っているのだろう。宝石や衣装をあてがっておけば、それで足りると。

(男が気にするのは、自分より高位の男の機嫌だけ。あと三年近くも、こんな状況に耐えられるだろうか……)

 熱のために臥せっている間、パリュサティスの心はあちこちに浮遊し、様々な想像を巡らせていた。家出して、帝国の外に出たら。どこかの僻地で、男装して暮らしたら。あるいは、神殿の女神官になったら。

 そうするうちに、ぼんやりした空想が、一つの核に凝縮してきた。

(そうよ、これしかない……)

 愛用の髪飾りは、衣類や他の装身具と共に手元に届けてもらって、まだ誰にも疑われていない。

 婚儀が済んで、ダラヤワウシュ王子が気をゆるめた時なら、殺せるはずだ。いかに屈強な男であれ、寝所を共にする妻に対しては、油断するだろう。自分が彼に組み敷かれ、涙ながらに、歓喜の声でもあげてみせた後ならば。

 多くの女が、必要に応じて歓喜の芝居をしていることを、パリュサティスは知っていた。後宮で育てば、女たちの、生存のための知恵も身に付く。

 できれば暗殺だと知られないよう、病死か事故死を装える方がよいが、知られても仕方がない。要は、アルタクシャスラ王子が皇太子になれればよいのだ。たとえ、自分が〝気の狂った女〟として、内々に処分されるとしても。

(妃が皇太子を殺したなんて、王家の恥を、外部に公表するはずがない……)

 自分がアルタクシャスラと離れて何年も過ごした後なら、彼に使嗾されたのではないかと、疑われることもないだろう。いや、疑われたところで、手遅れだ。

 これから自分が虜囚暮らしに耐えるのは、ただその日のため。そう覚悟していれば、きっと生き延びられるとパリュサティスは思った。

 少しずつ、あきらめて、おとなしくなる演技をすればよい。男など自惚れの塊だから、この娘も自分に惚れたのだと解釈するだろう。

 小娘に刺された瞬間、自信満々だった男がどんな顔をするか、楽しみだ。

(ああ、でもミラナだけは、巻き添えにしないうち、どこかへ逃がしてやりたいけれど……)

 彼女は決して承知するまいと、わかっていた。もう何年も、姉妹のように睦まじく過ごしてきたのだから。

 ***

 皇太子の膝元での生活は、ミラナが覚悟していたほど、悪いものではなかった。

 日々の食事も贅沢なものだし、宮殿の周囲の散歩も許される。時には、王宮の外に広がる市街への外出も認められた。十分な護衛が付いていれば、問題ないと皇太子は判断しているのだ。

 もっともパリュサティスは、愛馬ティシュトラにまたがることを許されず、輿に乗っての移動になったが。
 それでも都の人々には、王女のおでましだとわかる。護衛に付くのがアルタクシャスラ王子の親衛隊ではなく、皇太子の親衛隊だということも。

(あの方は、パリュサティスさまがご自分のものになったと、民に見せたいのだわ)

 とミラナは皮肉に思う。

 それでも、〝女神の娘〟を慕う人々が周囲に集まり、花や贈り物を捧げることは、パリュサティスの慰めになったことだろう。薄い垂れ布に囲われた輿の中からでも、子供たちに手を振ることはできるのだ。兵に命じて、彼らに屋台の菓子を配ってやることも。

 子供たちの笑顔を見る時には、パリュサティスの顔も、憂いの色が薄くなる。以前のような、心底からの笑顔を見たいと、ミラナは密かに思うのだが。

 パリュサティスはやがて、都の一画に、庶民のための療養所を設営させた。王宮の医師団は王族や貴族、大商人や外国の使節など有力者しか相手にしないが、ここでは民間の医師たちが、治療代を払えない貧しい者を助けてくれる。噂が広まると、遠方からも怪我人や病人が集まってくる。

 また、その療養所に付属する施設として、才能のある庶民の若者を集め、医師や技師、教師として育成する試みも始めた。パリュサティスの内心の希望とは違って、少年ばかりが集まることになったが。

「まあいいわ。ここがうまくいったら、次は女の子のための養成所を作れるでしょう」

 皇太子がパリュサティスに贈る豪華な衣装や宝飾品が、あらかた施設の運営費として消えていった。ミラナとしては、せめて少しは自分で着飾って楽しんでから手放してほしい、と思うのだが、パリュサティスは、

「構わないのよ」

 と静かに言い、右から左に下げ渡してしまう。

 黄金で埋もれた王宮で育ったパリュサティスには、財宝に対する執着はない。体裁を保てる程度の衣類や装飾品が手元に残っていれば、それで問題はないと思っていた。

 また、こういう事業が皇太子の評判をも高めることになるのだから、文句をつけられることもあるまい。

(どうせ、気飾って見せたい人がいるわけじゃなし……)

 アルタクシャスラ王子とは、王家の催しなどで、遠くから姿を見る程度の接触しかなくなっていた。その時でもパリュサティスは、皇太子の大きな背中の陰に隠れるようにして、黒髪の王子の方は見ないように努めている。

 見ない方がいいのだ。どうせ兄の近くには、美しい妃が立っているのだから。うっかり見てしまうと、自分が苦しくて、いたたまれない。なぜ、自分は兄の隣にいられなかったのかと、夜中に一人で泣くことになる。

(泣いたって無駄よ。それよりも、今のうちに、出来ることをしておかなくては……)

 パリュサティスには、母后からの贈り物も届いていたし、王宮に出入りする貴族や商人からの付け届けもあった。パリュサティスがアルタクシャスラ王子から離れ、皇太子の婚約者に納まったことは、当初こそ驚きを持って語られたが、やがて、

(女神の娘なら、ただの王子の妃より、皇太子の妃の方が相応しかろう)

 という納得に代わっていったのだ。

 ならば、彼女は次代の王妃である。今から関係を深めておかなくてはなるまい、と野心のある者たちは考え、彼女の事業にも協力するようになっている。

「姫さま、わたしの地元からも、有望な若者を送り出しましょう」

「姫さま、どうぞ我らの寄進をお受け取り下さい」

 パリュサティスは彼らからの援助や贈り物を喜び、愛想よく謁見したり、使者を遣わして、礼の言葉を届けさせたりした。そして、贈り物はほとんど、療養所や育成所の拡大に使ってしまう。

 王家は冬の都バビロンから、行政の都スーシャ、夏の都ハグマターナと季節毎に移動していくので、パリュサティスも皇太子の隊列に組み込まれ、女用の馬車での旅を繰り返した。そうするうちに、三つの都それぞれで、庶民のための療養所と育成所が軌道に乗っていく。

 人々はもう、パリュサティスが王妃になるはずの、新たなダラヤワウシュ王の時代を、当然のように待ち望んでいた。

「ダラヤワウシュ一世の御代には、帝国の土台が定まりましたからな」

「皇太子がダラヤワウシュ二世として即位されれば、ますます興隆することは間違いない」

「そうとも、女神の娘が妃になられるのだから」

 一年の大半を旅に出て過ごすアルタクシャスラ王子のことは、一部の支援者の間を除いては、話題にも上らなくなっている。おかげで皇太子は機嫌がよく、パリュサティスに面会すると、

「すっかり女らしくなったではないか」

 と、満足そうに眺めていく。さすがに〝豊満な美女〟とまでは形容できないが、それなりにふっくらして、愛らしい乙女になっていると、ミラナも思う。できるものならこの姿を、アルタクシャスラ王子に間近で見てもらいたいが。

「そなたの療養所も、評判がよい。父上も喜んでおられる」

 パリュサティスはおとなしく、控えめに答えるようになっていた。

「兄上さまが、援助して下さるおかげですわ……」

「今度から、援助は金貨でしてやるから、衣装や装飾品を手放すのはよさないか。せっかく、そなたのために作らせているのだぞ」

「そうですか……それでは、そのようにいたします」

 皇太子は苦笑した。

「大人びたのはよいが、おとなしすぎて、気味が悪いな。少しは前のように、口答えせんのか」

 するとパリュサティスは、むくれたようにそっぽを向く。

「生意気な女がお好きとは、存じませんでした。あたくしはもう、乗馬での外出も禁止されましたし」

 皇太子は大笑いした。

「王宮の馬場なら、乗ってもよいと言っているではないか。多少の運動は、女にも必要だ。スパルタでは、健康な子供を産むために、女たちにも躰を鍛えさせているという。蛮族どもの習慣とはいえ、見習う部分はあるかもしれん」

 ミラナが内心で危惧していたように、皇太子が婚儀の前に、パリュサティスを〝お手付き〟にする気配はなかった。既に何人もの妻がいるので、そういう意味では飢えていないのだ。

 元々、細い娘が趣味ではないということもあるだろう。娘らしい体形になりつつあるとはいえ、パリュサティスはまだ、少年に近い、引き締まった肢体を保っている。

 王宮内の馬場ではティシュトラに乗っているし、弓矢の稽古も続けている。身は軽く、動作はしなやかだ。それもこれも、

(恐ろしい企てのため……)

 とミラナは察している。他の誰が欺かれようとも、ミラナがパリュサティスの真意を誤解することはない。

 しかし、その企てについては、パリュサティスとの間でも、口に出して確かめたことはなかった。皇太子の配下はどこにでもいるのだから、迂闊なことを言うわけにはいかないのだ。

(わたしなどには、止めることはできない。姫さまの決意だもの)

 ただしミラナは密かに、ゾルタスの配下と連絡を取り合っていた。王女の事業に紛れて、あるいは愛馬ティシュトラの厩の係を通して、必要な伝言は届けられる。

 ゾルタスはその遣り取りをアルタクシャスラ王子には報告せず、ただ、いずれ来るであろう〝その時〟のために、自分の配下を鍛え、準備していた。

(アルタクシャスラ王子に即位していただく。そして、姫には王妃になっていただく)

 それがゾルタスの夢であり、野心であった。二人が玉座に座れば、自然と共同統治になるはずだ。そして、パリュサティスの夢が夫を導き、この地上に真の楽園が出現するだろう。

  ペルシアン・ブルー7に続く

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