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『ペルシアン・ブルー14』

   17 パリュサティスの章

 自分に女神の加護があると、単純に信じているわけではない。

 ただ、そうであればいい、と願っているだけだ。そもそも、神々が本当に存在するのかどうかも、まだ疑っている。自分が神なら、こんな不信心者には肩入れしないだろう。

 だが、人が〝女神の娘〟と思ってくれるのなら、それは利用できるとパリュサティスは考えていた。ゾルタスがずっと、自分を助けてくれたように。

 せっかくこの世に生まれ、教育も受けられたのだから、それを無駄にはしたくない。皇太子の妃になる可能性はなくなったが、他にも道はあるだろう。

(考えるのよ……ここで、自分に何が出来るか)

 地底で氷の池に閉じ込められている女性こそ、自分たちの助けになる存在かもしれない。いくら魔王でも、この灼熱の地で、あの冷気を維持するのは大変なはずだ。それをおそらくは、何年も、何十年も続けているのだろうから。

 それにまた、魔王がこっそり自分たちを監視していることも、好都合だとパリュサティスは思っていた。彼はこちらを気にかけ、一日のかなりの時間、物陰から様子を窺っているのだ。そうでなければ、あれほど的確に、自分たちの欲しいものが届けられるはずがない。

 ミラナと二人して、蜂蜜がもうないと話していれば、数日のうちに、岩山のどこかで蜂蜜の壺が見つかる。

 魚醤が欲しいと話していれば、小魚を塩漬けした壺が現れる。下着にする亜麻布が欲しいと言っていれば、美しい布が庭園の草木に掛けられている。

 ただの〝暇つぶし〟よりは、もう少し強い関心があるのではないか。

 だからパリュサティスは、木陰で休息している時や、泉の傍で料理をしている時、ミラナを相手に長く話すようにした。世界に関する、自分の考えを。

「……あたしは小さい頃から、父さまや兄さまに頼んで、王子たちの通う学問所に出入りさせてもらっていたわ。そこでたくさん勉強して、わかったの。男たちは暴力と屁理屈を総動員して、女を家畜にしているってね」

「家畜……ですか」

「ミラナだって、侍女の勤めに上がらなければ、好きでもない男と結婚させられていたでしょう? 女に自由を与えず、男の持ち物にしておくことが、男たちの策略なのよ」

「策略……ですか」

 ミラナは困惑しているが、焚火で夕食用のスープを煮込みながら、パリュサティスは構わず話し続ける。

「妊娠させてしまえば、女はもう逃げられない。おとなしく奴隷になって、男に飼われることになってしまう。王家でも貴族の家でも、庶民でも、全て同じよ」

 パリュサティスの意図が汲み取れずとも、ミラナは懸命に返答を考える。

「でも、子供が生まれなければ、みんな困りますわ」

 その調子、とパリュサティスは微笑んだ。

「産みたい女だけ、産めばいいのよ。好きな男の子供をね」

「そうしたら……子供が欲しい男は、女に頼むことになるのですか」

「そうよ。自分の子を産んでくれと、頭を下げて頼めばいい。断られたら、あきらめるのよ」

「あきらめてくれればいいですが……女が断ったら、男は怒るでしょうね」

 それはミラナにも、想像がつくことだ。

「そして、暴力で女を支配しようとする。それが、これまでの世の中よ」

「そうですね……それはわかります」

「だから、女が男を飼えばいい。牧場で、種馬を飼うようにね。男が女に暴力を振るえないように、あらかじめ、腕力を封じておくの。目を潰すなり、腱を切るなりしてね」

 ミラナはそういう有様を、想像してみようとした。

「それは、とても恐ろしいことのように聞こえます……」

 力を奪われ、閉じ込められる男たちの怒りは、どれほどのものだろうか。

「伝説のアマゾネスの国でも、女たちは、そこまではしなかったと思いますわ……」

「でも、いま現在は、女が、恐ろしい目に遭っているのよ。殴られたり、閉じ込められたり、犯されたりしてね。好きでもない男の子供を産むために、命を失うことだってある。これを変えるには、女が戦う意志を持つしかないわ」

 パリュサティスも、女戦士の国というおとぎ話は知っている。だが、その国は、かつて存在したにせよ、今はもうないのだ。どこへ旅をしても、女戦士の国に行き合うことはなかった。それらしい噂すら、なかった。

「でも、女の力では、男たちに勝つなんて無理ですわ」

 ミラナにせよパリュサティスにせよ、男の兵士に立ち向かえるような腕力はない。多少は剣や弓を使えるとしても、結局は、体格や体力がものを言うのだ。アマゾネスの国が実在したとしても、どこかの時点で外部の男戦士たちに襲われ、滅ぼされてしまったのだろう。

「だから、知恵を使うのよ。毒なら、女でも扱えるわ。芥子から取れる麻薬を使ってもいい。男たちが油断しているうちに、世界中で毒を盛るの。女百人につき、男は五、六人残しておけばいいのよ。そうして生まれる子供のうち、女の子は全員育てるけれど、男の子は適当に間引くの」

 そしてとうとう、パリュサティスの期待していたことが起きた。隠れていた魔王が、二人の焚火の近くに舞い降りたのだ。憤激のあまり、肩を怒らせている。

「さっきから聞いていれば、よくも勝手なことを!! おまえはいったい、何なんだ!! 俺よりおまえの方が、はるかに悪辣な魔女じゃないか!!」

 パリュサティスは内心、してやったりと思う。

「あたしはただ、理屈を述べているだけよ。男に暴力で脅される世界は、もうたくさんなの。あなただって、あたしたちをさらって、閉じ込めているでしょう?」

「飢え死にしないよう、養ってやっている!!」

「ええ、それには感謝しているわ。だから、あなたと仲良くなろうとしているの」

「そんな恐ろしいことを考える女と、仲良くだと!!」

「女が世界を支配すれば、その先は平和が続くわ。この先、ずっと戦争や虐殺が繰り返されるより、はるかにましだと思うのよ」

「男を種馬にしてか!!」

「生かされる男は、大事にされるわ。家畜としてね。でも今は、女が家畜にされているの。最初は父親に飼われて、次は夫に飼われる。逆らったら、痛めつけられたり、殺されたりする。戦争で負けた男たちも、殺されるか、奴隷にされるかでしょう。男の子は去勢されて、宦官にされてしまう。この残酷が、未来永劫続くのよ。でも、あなたも男だから、それが正しいと思っているんでしょう?」

 魔王はやや、当惑したらしい。それでも、空威張りで言う。

「強い者が弱い者を支配する、それが当然だ」

「それなら、なぜ、あなたが世界の王になっていないの? これだけの力があるのに、なぜ世界を征服しようとしないの?」

 魔王は返事に詰まった。やはり、頭はあまりよろしくないと、パリュサティスは思う。

 彼に取柄があるとすれば、自分たちにはまだ、暴力を振るっていないことだ。それに、生真面目な世話係でもある。パリュサティスはそれを、高く評価していた。だから、この男と話したいと思うのだ。

「そんなこと、簡単すぎて、面白くない」

 ようやくの反論を、パリュサティスは笑い飛ばした。

「嘘おっしゃい。顔に書いてあるわ。自信がないって。だって、あなたには力はあっても、知恵はないんだものね。世界を恐怖で従わせても、その後、どうやって統治したらいいのか、わからないんでしょう」

 魔王の顔が怒りで歪んだ。ミラナがそっと寄ってきて、パリュサティスの上着の袖を引く。

(危険ですわ。刺激しないで下さい)

 という合図なのはわかったが、パリュサティスは軽く手を振り、ミラナを下がらせた。悪意で魔王を苛めているのではない。教育しようとしているのだ。

「無駄に自惚れていないのは、いいことだわ。あなたは自分の程度をわきまえているから、たまに女をさらうくらいの悪さで、満足しているんでしょう」

「それなら、おまえには、どんな知恵があるというんだ。女が支配する世界など、女の腕力で作れるはずがないだろう」

 パリュサティスはにっこりした。

「だから、あなたが遣わされたのよ」

 魔王は唖然とした。しばらく口を開けたままでいて、ようやく、かすれた声を出す。

「何だと……」

「アナーヒター女神は、あたしのために、あなたを遣わされたの。あなたがあたしの配下になってくれれば、あたしが世界を支配できるわ」

 ミラナも唖然としているのがわかったが、パリュサティスは澄まして続けた。

「あたしの支配する世界に、奴隷は要らない。働く者には、賃金を払えばいいの。きつい労働には、たくさんの賃金。今の世の中は、働かない者が威張りすぎている。王族や貴族や祭司たちのことよ。収穫したものを公平に分ければ、貧しい者はいなくなるわ」

 魔王は疲労したように、首を横に振った。パリュサティスにではなく、ミラナに向かって言う。

「おまえの主人は、やはり頭がおかしいな。いつまでも子供ではあるまいに、現実というものがわかっていない。強い者が弱い者から取り上げるのが、当然だろう」

 やれやれと、パリュサティスは思う。この魔王は自分でまだ、自分の力の使い道を見つけていない。

「夢を持てば、少しずつでも現実を変えられるわ。十年、二十年では無理かもしれない。でも、百年、二百年経ったら、世の中は変わる。この地上は、天国になる。それがわからないなら、あなたは頭が悪いのよ。ものを考えていないから、少しも前に進めないの」

 後ろでミラナが、小さく悲痛な声を上げた。魔王は冷笑する。

「おまえこそ、俺に命を握られていることが、まだわかっていないらしい。俺がおまえを砂漠に捨てたら、おまえの理屈で自分を救えるか?」

 パリュサティスは落ち着いて言った。

「それをしたら、あなたが負けを認めたということよ。あたしを理屈で言い負かせないから、殺して黙らせるしかない、ということだもの」

 魔王はぐっと詰まった。誇り高いというのが、この男の弱点であるようだとパリュサティスは思う。これでもまだ、こちらを殴らない。

「あのね、もしも、この世に神がいるとしたら、神の意志は、人間を通して現れるのよ」

 自分でも不思議なくらい、すらすらと理屈が生まれる。あたしはいつの間に、こんなことまで考えていたのだろう。

「だから、今はあたしが、女神の意志を代弁していると思えばいいわ。命を守護する女神よ。あたしの考えは、すなわち女神の考え」

 それが真実であると、今のパリュサティスは、言いながら自分で信じられる。芸術家に霊感が下りるように、自分には政治の道が見えるのだ。

「だから、あなたも、あたしに従えばいいの。そうすれば、あなたの力が無駄にならずに済むでしょう。あたしに出会ったということは、あなたの運命なの。あなたの力は、そのために与えられているのよ」

 魔王はあっけにとられている様子だったが、ようやくのことで、言い返してくる。

「おまえが女神の代理人なら、何か、証拠を見せてみろ」

 パリュサティスは微笑んだ。

「あなたが、ここにいるでしょう。あたしの前に」

 魔王は、面食らった顔をする。

「あなたは、あたしの評判を聞いて、興味を持ったはずだわ。それは、あなたが心の底で、生きる目的を求めているからよ。それをあたしがいま、提供しているの。この地上に理想の国を作る。こんな大きな夢が、他にある?」

 ほとんど舌先三寸の詐欺師だが、わずかでも可能性があることなら、試してみる値打ちはあるとパリュサティスは思っていた。

 魔物は顔をゆがめ、吐き出すように言った。

「よくもそれだけ、勝手なことを並べ立てるな。俺はおまえたちを犯すことも、殺すこともできるんだぞ。なぜ、俺を怖がらない!? 少しは、俺の機嫌を取ったらどうなんだ!?」

 ――本当にお馬鹿だわ、こいつ。

 本当に凶悪な魔物だったら、とうにそれを実行している。自分の心が救いを求めているから、あたしにぶつかるのよ。

「あのね、あたしたちは、あなたを可愛いと思っているの。あなたがまともな男になる望みがあると、思っているのよ。だからこうして、話しているの。それが、わからない?」

 たくましい長身の魔物が、殴られたような顔をした。

(……可愛い!? 可愛いと言ったのか!? この俺を!?)

 ミラナが急いで前へ出て、地面に膝をついた。

「あの、姫さまは、言葉遣いの癖がおありなので。わたくしが普通の言葉に直しますから、どうか聞いて下さい。姫さまは、あなたが邪悪ではないと言っておられるのです。できたら、友達になりたいと」

 正しい翻訳だったが、魔王は笑いだした。笑わなければ、自分が保てない。

「俺と友達だと!! 人間の小娘が!!」

「あら、あなただって、元は人間でしょ。貧しくて、読み書きを習うどころではなかったんでしょ。せめて大きな町だったら、商家に奉公できたかもしれないのに」

 パリュサティスの指摘に、魔王はたじろいだ。これまでの接触から、また、この岩山に積まれた品々から、パリュサティスは彼の過去を推理していたのである。

「……何かの事件があって、途中から魔物になった。でも、それがなぜなのか、あなたに説明してくれるような先輩の魔物はいなかった。あなたはどうしていいかわからずに、しばらく世界をさまよった。学者に聞いても、神官を脅してもわからない。結局、人間の世界では暮らせないとわかって、こういう辺鄙な場所に落ち着くことにした。でも、しばらく一人でいると寂しくて、退屈で、居ても立ってもいられない。だから、海賊船を沈めたり、山賊の上前をはねたりして遊ぶ。でも、そんなことでは、ほんの一時の退屈しのぎにしかならない。眠るという救いもないのだから、辛くてたまらないわよね。だから、自分より、もっと惨めな者が見たいんでしょう?」

 魔物の目に浮かんだのは、恐怖の色だと思う。おまえこそ魔女ではないか、という顔だ。パリュサティスはあえて、にっこりする。

「でも、今度から、寂しくないわよ。あたしとミラナがいるでしょ。仲良くしてあげるから、まずはここへ来て、お座りなさい」

 魔物はぶるっと頭を振った。精一杯の虚勢で言う。

「おまえを岩山のてっぺんから逆さに吊るしても、そんな大きな口がきけるのか?」

「あなたの方が強いのははっきりしているんだから、わざわざ証明してくれなくてもいいわよ。それは、人間が素手で、熊に勝てないのと同じこと。だからといって、熊の方が、人間より優れていると言えるかしら? 熊が人間を何人か殺したら、それは、熊が人間全てに勝ったことになるのかしら?」

 魔物はまた、後ずさりする。

「あたしが生意気な口を利くのが嫌なら、殺してもいいわよ。一思いに殺してくれるなら、むしろ親切だわ。でも、あたしはね、あなたに感謝しているの。王宮から救い出してもらって、ここで楽園暮らしをさせてもらっている。心の底から、有難いと思っているのよ。だから、ね。逃げないで」

 パリュサティスはそっと、足を踏み出す。

「逃げる、だと」

 魔王が、その言葉を忌み嫌うのはわかっていた。だから、それを聞いてしまった以上、たとえ逃げ去りたくても、こちらを振り払えないだろう。

「あなた、女の方こそ、得体の知れない魔物だと思っているでしょ。でも、違うの。女が冷酷になるのは、男の冷酷の反射にすぎない。男が優しくしてくれたら、女は優しさを返せるの」

 それを信じたかどうか、彼は逃げずに立ち尽くしていた。

「よし、捕まえた」

 パリュサティスは彼の肩布の端を掴んだ。小柄なパリュサティスからすれば、見上げるほど大きな男だ。

「あなたには、大事な用があるの。あたしを抱いて、上空へ飛んでみて。あたし、この目ではっきり見たいの。この大地が、球体だということを」

 黒髪の男は、当惑したようだ。

「それに、意味があるのか?」

「もちろんよ。大ありだわ。宇宙の仕組みを知ることは、人間の生き方に大きな変革をもたらすのよ。男たちが妊娠の仕組みを知って、女を敬うことをやめたようにね。新しい知識は、どんな変化に通じるかわからないわ」

 魔王はどうやら、あきらめたようだった。こちらを避け続けるより、望みを叶えて満足させる方が楽だと思ったのだろう。

「よかろう。飛んでやる。しかし、途中で気絶しても、そのまま死んでも知らんぞ」

 彼は以前に、捕まえた海賊を脅すため、高い空に連れて上がったことがあるという。ところが、地上に降りてみたら、海賊は死んでいたというのだ。高い山で病気になることがあるのと同じで、非常な高空では、人は生きていられないらしい。

「苦しくなったら、そう言うわ。そこから、降りてくればいいでしょう。間違って死んだとしても、あなたを恨むつもりはないから」

「姫さま、おやめください。危ないですわ」

 ミラナが祈るように訴えたが、パリュサティスは笑って手を振った。あとどれだけ生きていられるかわからないのだから、この機会を無駄にはできない。

「大丈夫、待ってて」

 その時にはもう、パリュサティスは魔王の冷たい腕に抱えられ、空へと運ばれていた。傾いた日差しの中、孤立してそそり立つ岩山も、その周囲を囲む険しい山地も、あっという間に下方へ遠ざかる。

 怖くないと言えば嘘になるが、それよりは期待と興奮が強い。魔王はほとんど垂直に、ぐんぐん空を昇っていた。地上の大半は夕闇に沈みかけているが、周囲はまだ青空だ。わずかな雲にぶつかると、霧に包まれたようにあたりが見えなくなるが、それを突き抜けると、また青空になる。

「あのね、気絶した場合に備えて、今のうちに言っておくわ」

「何だ」

「あたしたちをひどい運命から救い出してくれて、ありがとう。あなたが最後に、幸せな時間をくれたこと、感謝するわ。できたら、ミラナのことは守ってやって」

 なぜだかこの男には、それを頼んでいい気がする。

 彼は返事をしなかった。小娘の言うことなど、どうでもいいのか。それとも飛ぶことに、かなりの力を割いているのか。

「あっ」

 パリュサティスは小さくは叫んだ。沈んだはずの太陽が、地平の向こうに再び見えてきたのだ。それなのに、周囲の青空は暗くなり、深い藍色になっていく。

 パリュサティスは魔王の腕の中で身をねじり、頭を巡らせた。砂漠の向こうに青い色が見えるが、あれは海ではないか。地平はぐるりと丸い。はるか足元の大地は、黄褐色の砂漠と緑に染め分けられている。一筋の青い流れは、ナイル川だろう。その周囲を、大きく海が取り巻いている。自分はもしかして、リビア全土を見下ろしているのか。もっと高く昇れば、パルサ本土まで見えるのか。

「上を見ろ」

 と言われ、頭上を仰いだ。そこはもう、漆黒の闇だった。たくさんの星が見えている。長袖の衣服でも、震えるほど寒かった。魔王はまだ、上へ飛ぶ。頭上の星空が広がり、真横も星空となった。はるか足元の大地は、完全に円を描いている。

 いまや大地は、巨大な球体であることが見て取れた。まさしく〝地球〟だ。信じられないほど美しく、雲の白と海の青に彩られている。半分近くが暗いのは、夜の領域に入っているからだ。昼の側は、太陽に照らされている。

 そう、太陽はまぶしく明るいのに、その周囲の空は暗いままだ。宇宙とは、いつも夜なのか。

 いや、おそらく昼夜とは、〝地球〟のような天体の上でだけ感じられる区別なのだ。岩でも草木でも水面でも、太陽の光を反射する物体がなければ、光はそこを素通りするのだろう。

 それにしても、太陽ははるかに遠い。あれが一日に一回、〝地球〟の周りを回るとすれば、相当な速度になるはずだ。

 無理な話、という気がする。何のために、それほど凄まじい速度で宇宙を廻る?

 星々もそれに合わせて回転するのなら、〝地球〟が、この宇宙の中心であるはずだけれど。でも、星座の中で、太陽の位置は、少しずつずれていく。

 パリュサティスが身をねじるにつれ、太陽の光が自分を照らす角度が変わる。

 そうか、わかった!!

 〝地球〟の方が、一日に一回、回転しているのだ。一定の速度で。だから毎日、昼と夜が正確に繰り返される。一回転が、すなわち一日なのだ。

 その発見を魔王に告げようと思ったが、息が苦しい。さっきから、苦しくなっていたのかもしれない。そろそろ、引き返さないとまずい。

 その時、月が目に入った。暗黒の中で白く輝いて、太陽に照らされていない側が暗い。太陽の当たり方で、月面にくっきりした明暗ができている。

 それにしても、月ははるかに遠い。火星や金星は、もっと遠いに違いない。太陽も星々も、気が遠くなるほど遠い。

 ――ああ、神さま!!

 パリュサティスには、宇宙の広さがわかった。恐ろしいほど空虚で、冷たい。無限の深淵だ。そこに、無数の星が散りばめられている。

 あれらが、太陽と同質の、燃える星であることも感じ取れた。遠すぎるから、小さな点にしか見えないだけだ。

 〝地球〟はこの無限の暗黒に浮かぶ、ちっぽけな岩の塊にすぎない。人間たちは生まれてから死ぬまで、この球体の表面にへばり付いているだけだ。わずかばかりの土地を争ったり、金品を奪いあったりして。

 でも、人は地上でしか生きられない。

 〝地球〟は青い宝石のように輝いていた。冷たい暗黒の中の、ただ一つの輝き。神に与えられた楽園。

 人は最初から、楽園の住人だったのだ。

 ただ、それを知らないだけ。

 パリュサティスは気が遠くなるのを感じたが、満足していた。宇宙の深淵を垣間見たのだ。地上の人間たちが、誰も見たことのない深淵を。

 ***

 気がついた時は、元の庭園の、平らな地面の上に横たわっていて、ミラナがこちらを介抱していた。頬を叩いたり、冷えた肌をこすったりして。

 パリュサティスが目を開けると、ミラナは泣き声でとりすがってくる。

「ああ、姫さま、よかった!!」

 あたりはすっかり夜で、虫たちが草むらで鳴いている。眩暈がしたが、何とか起きられた。魔王が、気絶した自分を運び降ろしてきたという。空気の層で包んだつもりだが、足りなかったと言っていたそうだ。俺一人なら、もっと高くまで飛べるのに、と。

 夢ではなかった。

 自分は〝地球〟を見下ろした。

 太陽すら、多くの星の中の一つに過ぎなかった。

 あまりにも荘厳な体験だったので、しばらくは、ミラナに語ってやることもできそうにない。言葉では、到底、伝えきれないだろう。

 ただ、パリュサティスは、魂がしびれるほどに嬉しかった。あれを見ることができただけで、生まれてきた甲斐はある。

 それにまた、人間の知恵にも感動していた。空に昇れずとも、大地が球体だと推理していたではないか。日食も月食も、それで説明できるのだと。

 神がこの宇宙を創ったならば、創られた人の中にも、神の叡智が宿っているのだ。

 あるいは、神がいないとしても、少しも構わない。人はいつか、自分たちの知恵で、この世界の神秘を解明できる。そうしたら、人が神になるのだ。

「ミラナ、頼みがあるの」

「はい」

 近くにある焚火の炎に照らされながら、パリュサティスは地面に座り、心の姉妹と向き合った。

「人が生きて、世代を重ねれば、いつかきっと、宇宙の真理に届く時が来るわ。だから、あたしが今後どうなろうとも、あなたは生きて、子孫を残してちょうだい」

 ミラナは戸惑う顔をした。パリュサティスが急に、何を言い出したのか、理解しかねている。

「姫さま、わたくしは、姫さまの行く所、どこにでもお供します。たとえ、冥府でも」

「うん、わかってる。でも、あなたが少しくらい遅れても、構わないの。どうせ、あの世には、無限の時間があるだろうから。ミラナはこの世で子供を育てて、孫が大きくなるのを見届けて、それからゆっくり、あたしを追ってきてくれればいいのよ。それが一番、あたしに対する忠義ということになるわ」

 するとミラナはどう思ったのか、ほろほろと泣きだした。いつでもこちらより冷静なのに、珍しいとパリュサティスは思う。

「そんな、不吉な、わたくしより先に逝くようなこと……」

「違うのよ、ミラナ」

 パリュサティスは静かに笑った。

「人はいつか、必ず死ぬ。それを語ったところで、不吉でも何でもない。死んだらきっと、魂が宇宙に溶けるのだから」

 宇宙の暗黒。その中の、青い楽園。人は、神の恩寵を与えられている。既に、楽園に住んでいるのだ。ただ、その楽園でどう生きるか、それが問われているのだろう。

「それまでの間、魂がこの肉体に閉じ込められている間、泣いたり笑ったりすればいいのよ」

 岩山の中の部屋に戻ってから、パリュサティスはいいことを思いついた。燃えさしの炭を使って、岩壁一杯に文字を書いていく。

 大地が球体であること。地球の回転のために、昼夜ができること。昼間の青空の向こうには、常に暗黒の宇宙が広がっていること。思いつく限り書き続け、室内の壁を埋め尽くして、ようやく息をついた。眩暈がして倒れかけたところを、ミラナに支えられる。

「姫さま、もうお休みにならないと」

「うん」

 明日以降、岩壁にこの文字を彫り込んでいこうと決めた。そうすれば、簡単に消えることはない。いつか誰かが読んでくれる。何百年後のことであっても。

「ミラナ、いつか子供を産んで」

 パリュサティスはそれだけ、年上の侍女に繰り返した。自分自身は、それが出来るかどうか、わからない。でも、あたしでなくてもいい。誰かが生きて、未来に希望をつないでくれれば。

  『ペルシアン・ブルー』15に続く
 

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