源氏物語より~『紫の姫の物語』6
8 藤壺の宮の章
院の御所に現れた光君は、頬がこけて、目ばかり光り、まるで病人のようだった。無紋の袍に鈍色の下襲という服喪のお姿で、いつもの華やかな様子とは打って変わり、声まで湿っておいでになる。
「この度は、父上にもご心配をおかけしました。数々のお見舞い、ありがとうございます」
と院の御前で、深く頭を下げられる。
葵の上を亡くしてから、もうずいぶん経つというのに、まだこんなにやつれているなんて。
不仲だと聞いていたけれど、やはり、夫婦の情はあったのだろう。葵の上も、お気の毒に。こんなに愛されていたのに、夫と子供を残して逝かねばならなかったなんて。
わたくしだったら、想像することさえできない。既にもう、あの子と離れて暮らしているというのに。この上、もっと遠くへ行くなんて。
「そなた、随分とやつれたではないか。きちんと食事を摂っていないのだろう。今日はここで、滋養のあるものを食べていきなさい」
院は優しくおっしゃり、女房たちに命じて、光君の前に御膳を運ばせる。その溺愛ぶりは、以前と少しも変わりない。いえ、ご自分が病がちになられてから、なおいっそう、強まったかもしれないほど。
もっとも、溺愛というのなら、このわたくしこそ、過分に愛していただいている。それというのも、わたくしが、ずっと昔に亡くなられた桐壺の更衣さま、つまり、光君の母上にうり二つだというせい。
内裏に入った最初の頃は、正直なところ、幾度も戸惑った。
『まあ、本当にそっくり』
『怖いほどですわ』
『まさか、あの方が乗り移っていらっしゃるのでは』
『おやめなさいな。そんな不吉なことを』
という他の局の女房たちのささやきが、どうしても耳に入ってきたから。
わたくしは藤壺に部屋をいただいたので、今も藤壺と呼ばれているけれど、あの頃、主上さまから聞く話といえば、
『桐壺の更衣はああだった、こうだった』
という、亡くなった方の思い出ばかり。おまけに時々、主上さまは、わたくしをその方と混同なさった。
『更衣や。あの行幸の時は、本当に桜が見事だったねえ』
と優しく話しかけてこられてから、
『いや、すまない。藤壺だったな』
と目を伏せられたりして。
もちろん、時間が経つにつれ、主上さまの痛いような悲しみは薄れていき、わたくしはわたくしとして、愛していただくようになってきた。今では、桐壺の更衣に申し訳ないと思いながらも、この方こそわたくしの運命の方、と思い定められるようになっている。
できるものなら、この方の御子を生み参らせたかったのだけれど。こればかりはもう、どうにも取り返しのつかないこと。
わたくしは院のお側に控え、御簾や几帳の陰になるよう座っていたけれど、それでも、隙間からこっそり様子を窺うことはできる。そうすると、光君が女房たちに囲まれて食事をしながらも、ちらちら、こちらを気にしておられるのがわかった。まるで迷子の子犬のような顔で、
(藤壺さま、そこにいらっしゃいますよね。わたしのことを、見守っていて下さいますよね)
と無言のうちに訴えてくるのが感じ取れる。やつれているだけに、なお一層強い目の光。
(一声だけでもいい。じかに、お声をかけては下さらないのですか。そのお気持ちがあれば、わたしは立ち直れますのに)
そんな顔をしないで。
こちらばかり、見ないで。
誰かに怪しまれたら、破滅するのは、わたくしたち二人だけでは済まないのよ。
わたくしの生んだ皇子は、いま、東宮として宮中にいる。もしも、あの子が不義の子と人に知られたら、帝位どころではない。命が危ない。ただでさえ弘徽殿の大后は、わたくしたち親子を目の敵にしていらっしゃるのだから。
もしかしたら、あの噂は本当なのかもしれない、と思うことすらある。弘徽殿さまが、桐壺の更衣を毒殺なさった、という恐ろしい話。わたくしを初めてご覧になった時も、まるで、物の怪でも見るような、青ざめたお顔をなさっていた。
(あの女が、適当な誰かに乗り移って、甦ってきたのではないかしら)
とでもお疑いだったのだろうか。それ以来、いつお目にかかっても、仇敵でも見るかのような目で、わたくしをご覧になる。
もっとも、初めのうちは、他の女御や更衣の方々からも、白い目で見られていたけれど。
そちらの方は、こちらの努力で次第に打ち解け、憎まれずに済むようになった。わたくしは桐壺の更衣ではない、主上さまも今はもう、わたくし一人にかかりきりになることはない、とわかっていただけたのだ。
変わらず冷ややかな態度を保っていらしたのは、弘徽殿さまだけ。すると自然に、お付きの女房たちからも、何かと冷たい仕打ちを受けることになる。はっきりした無作法ではなくても、油や炭を届けてくるのを後回しにするとか、催し事の変更などを、うっかりしたふりで知らせてこないとか。
もちろん、わたくしが正妃である中宮にしていただいてからは、扱いが格段に重くなったので、くだらない嫌がらせの類は、ぱたりとなくなったけれど。
皇族の端くれであるわたくしでさえ、後宮暮らしは気苦労の連続だったのだから、まして、頼れる後見のない光君の母上は、どれほど心細い日々を過ごされたことか。たとえ毒殺されずとも、気苦労で疲れきり、命の火が消えていくのは当然だったかもしれない。
その悲劇の根底には、ただ一人の殿方の世継ぎを確実に儲けるために、多くの女たちを後宮に閉じ込めておく、という制度の残酷さがある。たとえその方が、この豊葦原の瑞穂の国の帝という唯一無二のお方だとしても、女盛りの歳月を捧げて何も報われなかった女たちにしてみれば、恨みの気持ちが湧いて当然、ではないだろうか。
宮中に差し出されたりせず、普通の女として暮らしていれば、もっと穏やかな日々が過ごせたかもしれないのに。贅沢はできずとも、たくさんの子供や孫に恵まれ、笑って過ごせたかもしれないのに。
わたくしについては、兎にも角にも、こうして院の御所に移ったことで、弘徽殿の大后のおられる内裏から離れられて、ほっとした。今はほとんどの時間、あの方の刺すような視線のことを忘れて暮らしていられる。
ただ、東宮は変わらず内裏にお住まいだから、油断できない。乳母や女房たちにくれぐれも堅い守りを言い聞かせ、まめに文の遣り取りをして、変事がないかどうか、いつも気にかけている。
本当は、東宮をこの院の御所に住まわせて、わたくしがこの手でお世話できれば、一番いいのだけれど。東宮は内裏で育つもの、という長い伝統がある以上、生母であっても、どうしようもない。
「――愛する者を失う苦しみは、わたしもよく知っている。そこから回復するには、長い時間がかかるものだ」
院はぽつぽつと光君を慰め、励まされている。昔、桐壺の更衣を亡くされた時のことを思い出していらっしゃるのだろう。
過度のご寵愛が、かえって彼女の命を縮めた。後宮中の女たちの妬み、憎しみが、彼女を追いつめた。
院はそれを強い教訓となさって、わたくしの時は、かなり用心深くなられていた。弘徽殿さまを差し置いて、このわたくしを中宮の位に即けて下さったのは、ただひたすら、わたくしの生命安全を案じてのこと。
ただ、そのことでまた、弘徽殿さまのお怒りを深くしたことも確か。中宮という女の最高位を、やはり、あの方も欲していらしたようだから。
問題は、あの方の憎しみが、わたくしだけではなく、わたくしの息子にまで向かうことだった。それだけは、何としても、わたくしの所で食い止めなくては。
「だが、そなたには、そなたを頼る息子ができたのだ。これからは、父親としての責任を果たさねばな」
院は穏やかに諭された。それもまた、ご自身の経験からのお言葉に違いない。光君を臣下に降ろされたことも、左大臣家に婿入りさせたことも、光君の身を案じられてのこと。
その父君の、大きな愛情に包まれて育った光君は、素直に頷かれた。
「左大臣家の大宮さまが、夕霧を養育して下さいます。わたくしもまめに訪問し、成長を見守るつもりでおります。父上がわたくしを教え導いて下さったように、わたくしも、息子のために力を尽くしたいと思います」
と、かしこまってお答えする。
でも、それはまだ口先だけ、という気がした。殿方というものは、大人になるのに時間がかかる。大抵の場合、女の何倍も。
この方に父親の自覚が育つのは、まだまだ先のことではないかしら。本当に若君の養育に打ち込むおつもりならば、もっとお元気になられているはずだもの。
光君とは長年のお付き合いだった六条の御息所が、斎宮さまの付き添いとして、伊勢に去られてしまったのも残念なこと。あの方ならば、失意の光君を受け止め、慰めて下さっただろうに。
こうなると、この方の一番の支えは、やはり、わたくしなのかしら。それとも、二条の邸に住まわせているという、謎の姫君なのかしら。いったい、どこのどういう姫君なのか、わたくしの女房たちも不思議がり、しばしば噂している。
でも、こちらを窺う剣呑な顔つきからすると、光君はまだ、わたくしの隙を狙っているらしい。よくよく気を付けて、戸締まりを厳重にさせなくては。
お願いだから、もう、わたくしに構わないで。
愛して下さるのは嬉しいけれど、半分以上は迷惑なのです。わたくしは、このまま院に添い遂げるつもりなのですから。
あれはもう、十年以上昔のこと。宮中で初めて光君に会った時、
(何てお綺麗で、利発な皇子さまかしら)
と感動し、その美少年から、
「藤壺さま、藤壺さま」
と慕われるのが単純に嬉しかった。
皇女として生まれたとはいえ、お父さまの在位中には婿が決まらず、独身のまま終わると覚悟していた身。それが、思いもかけず入内が決まり、日の当たる場所に出てこられた晴れがましさ。
わたくしはまだ娘気分が抜けず、主上さまがお優しくして下さることに安堵し、多少の意地悪はあろうとも、後宮の華やかな暮らしにはしゃいでいた。衣装は季節ごとに新しく、最高の品があつらえられるし、気の利いた女房たちが座を盛り立ててくれるし、宮中のどんな行事でも、一番いい場所から見られるのだもの。
華やかな貴公子も、才気溢れる女房たちも、あちこちの局に自由に出入りして、歌を詠み合い、洒落た冗談の応酬をし、管弦の腕前を披露する晴れやかさ。
中でも光君は、愛らしい弟のようなものだった。童子の頃の総角姿もよかったけれど、元服したりりしいお姿もまた格別で、わたくしは幾度もうっとりと見惚れたもの。
「何てお美しいのかしら」
「桜襲の直衣に、葡萄染の下襲がよくお似合い」
「花なら、庭園のあやめというところかしら」
「いいえ、深山の白百合よ」
「一度でいいわ、あの方に口説かれてみたい」
「でも、案外きまじめでいらっしゃるのよ。軽はずみなことはなさらないわ」
「ああ、もう、お姿を見られるだけで幸せ」
という女房たちの熱狂を見て、
(わたくしは、あの光君の母代わり、姉代わりなのよ)
と、どれだけ誇らしく思っていたか。
その弟が、よもや、あんな真似をしでかすとは。
里下がりをしていたある晩、光君が、闇に紛れて忍び込んで来たのだ。突風に巻かれたようなもので、どうしようもなかった。若い殿方がその気になった時の勢いは、到底、女に止められるものではない。
頼み込まれて手引きをした王の命婦も、まさか、いきなりそこまでとは思わなかったらしい。
でも、彼女に後から手をついて謝られても、泣いて詫びられても、もはや手遅れ。
懐妊がわかった時、わたくしは絶望して泣いた。若い男に甘い顔をした、自分の愚かさを悔やんだ。けれど、起きたことは元へ戻せない。この子は主上さまの御子、と言い通し、心底から喜び、誇っているように振る舞うしかない。
わたくしの懐妊を心から喜んで下さり、あれこれと気遣って下さる主上さまの前で、しおらしげにはにかみ、微笑んでみせるとは、我ながら何という悪行。
よくも、わたくしをこんな苦境に追い込んで、と、どれだけ光君を恨んだか。
わたくしはこれから一生、お優しい主上さまに嘘をつき通すことになる。この罪で、死後は地獄に落ちるかもしれない。周囲の女房たちに悟られないよう、努力して明るい顔を見せながら、心底ではどれだけ悩み苦しみ、眠れない夜を過ごしたか。
懐妊の時期について、世間に疑われはすまいか、弘徽殿さまに怪しまれはすまいか、生きた心地がしなかった。内裏から下がった時、わたくしが懐妊などしていなかったことを、乳母子の弁をはじめ、身近な女房たちは知っている。
幸いにも、
『物の怪が憑いたせいで、出産の時期が予定よりも遅れたのだ』
という弁解が通用したので、胸を撫で下ろした。
人はおそらく、都合の悪いことを、かなりの部分、物の怪のせいにしてきたのに違いない。王の命婦以外の女房たちは、よくぞ、不審の思いを隠し通してくれたものだと、口には出せないながら、深く感謝したものである。
それにまた、いくら命婦を恨み、光君を恨んでも、生まれてしまった息子は可愛い。この世の誰より愛しい、わたくしの半身。まさしく、銀にも黄金にも勝る宝。
どうか、この子は無事に育ち、幸せになりますように。弘徽殿さまの憎しみも、この子には影を落としませんように。
光君の幼い頃によく似ている点も、
『異母とはいえ、ご兄弟なのだから、当然のこと』
とみなされて、密かに安堵した。今のわたくしは、院に対する感謝と情愛の他は、ただもう、あの子のためにだけ生きている。
光君が退出なさってから、院がしみじみおっしゃった。
「かなり参っているようだな。無理もない。子を生した仲というのは、特別なものだ」
子を生した仲。
胸を刺す言葉だったけれど、でも、院は何もお疑いではない。わたくしはさらりと、他人事のような相槌を打つ。
「光君は、まだお若いのですもの。じきにまた、お元気になられますわ」
そう、わたくしでなくても、あの方を慰める女はいくらでもいる。この都の女たち、貴族の姫でも女房たちでも、河原の遊び女でも、光源氏の君と聞けば、それだけで陶然とするほどなのだもの。
おまけに、手元で大事にしているという、謎の姫もおいでなのだし。通うことで飽き足らず、わざわざ自邸に引き取るとは、相当なご執心に違いないという世間の噂。
わたくしと過ごした幾度かの夜、情熱を込めてかき口説いて下さった光君のお言葉、全てが嘘とは思わないけれど、ああいうことは、その場の雰囲気次第で、どの女にでも言えることなのだ。葵の上にも、六条の御息所にも、その他の女たちにも、ああやって迫って感動させたに違いない。
それをいちいち本気にしていたら、女はばかをみる。だから六条の御息所も、光君の相手より、実の娘御の後見を優先なさったに違いない。
わたくしもやはり、天から授かった皇子が宝。
あの子が無事に帝位に即き、日嗣の皇子をもうけるまでは、わたくしが気を張って守っていかなくては。
そして、そのために必要ならば、源氏の君にお愛想も言おう。心残りのふりもしよう。あの方はゆくゆく、国家の重鎮になられる方。まして、心の内で自分の子と思えば、東宮のために、どれほどでも力を尽くして下さるはず。
わたくしもまた、弘徽殿の大后などに負けはしない。負けないだけの身分、中宮という地位を主上さまが与えて下さった。
ただ、その主上さまが、退位なさってからは、目に見えて老いを深められ、病がちになられているのが大きな心配。一日でも長く生きていただき、幼い東宮の後ろ盾として、ご威光を示して下さらなくては。そして、院がこの世におわす間に、光君にも、一人前の政治家になっていただかなくては。
(いつまでも、あちこちの花を巡り歩いて、ふらふら遊んでおられる場合ではありません) と言ってやりたい。
(一日も早く立ち直って、政務に邁進して下さいませ。そして、弘徽殿さまに対抗できるだけの貫禄を身につけて下さいませ)
わたくしにはもう、源氏の君のことは、東宮の守り手としての意味しかない。
だから、幾度ここへ来て、すがるような目をしても無駄なのよ。あなたはあなたで、心の支えとなる方を探して下さい。そして、これからの日々は、その方のために生きればよいのです。
『紫の姫』7へ続く
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