源氏物語より~『紫の姫の物語』12
14 紫の姫の章
春が過ぎ、夏が過ぎた。お兄さまの忍び歩きはだいぶ落ち着いて、公務以外は、わたくしの側で過ごす時間が長くなっている。藤壺さまのお邸の周囲をいくらうろうろしても、もはや入り込む隙がないらしい。
よかったわ。藤壺さま付きの女房も、お兄さまに泣きつかれて手引きをすることは、きっぱりやめたらしい。それでこそ、本当の主人思いというもの。あるいは、疑わしい女房を、藤壺さまが遠ざけたのかもしれないけれど。
貴族や皇族の女にとっては、邸内の女房たちの統率こそ、最も難しい課題なのだった。自ら望んで女房勤めをしている女たちは、下手をすると、女主人より美しかったり、教養や才覚があったりする。当然、彼女たちを使う側は、ただ優しいだけではなめられる。といって、厳しいだけでは恨まれる。普段はおっとり、でも節目はきっちり、という態度が望ましい。
それに気付いてから、わたくしも、あれこれと気を回すようになっていた。彼女たちの健康を気遣ったり、季節毎にちょっとした贈り物をしたり、車で気晴らしの外出をさせたり、身内の病気や不始末などの困り事で、助けの手を差し伸べたり。
宮中が右大臣さまと弘徽殿さまに支配されている現在、お兄さまも左大臣側の方々も、以前ほどは自由が利かないけれど、それでもまだ、できることはある。人脈をたどって、彼女たちの夫や兄弟の仕事口を見付けたり、お役目上の失敗をかばったり、有益な情報を伝えたり。
おかげで、昔からいるお兄さま付きの女房たちも、ようやく、西の対のわたくしを、二条院の女主人と認めてくれるようになっている。一応は結婚の儀式を済ませたといっても、ごく内輪の簡略なもの、しょせんは愛人ではないか、という見方が、古参の彼女たちの間では根強かったのだ。
それに、無理のないことだけれど、お兄さまの手の付いた女たちには、わたくしに対する嫉妬や反感もある。
(光君さまとは、わたくしの方が長いお付き合いなのよ)
(わたくしの方が、お癖やお好みを心得ているわ)
(光君さまの秘密だって、あれこれ知っているのよ)
という自負があるのだ。それを傷つけないよう、やんわりおだてて付き合いながら、少しずつ、こちらの権威を納得させていく。
まあ、それができたのは、お兄さまがわたくしを妻として立ててくれたからだけれど。
おかげで、宮中はともかく、二条院の内部はうまく治まっていた。どうかこのまま、穏やかに日が過ぎていきますように。
わたくしは、この世の大抵の女たちより、はるかに恵まれている。もしもこの上、望むことがあるとすれば、それは、赤ちゃんを授かること。
わたくしと同じ年頃の女房たちは、次々に恋人を作り、あるいは結婚し、赤ちゃんを産んでいる。そして、乳母を雇ったり、実家の母親に預けたり、自分で乳をやったりしながら、家庭と職場を往復している。
わたくしも何度か、彼女たちの子供を抱かせてもらった。お乳の匂いがする幼子は、本当にふくふくして愛らしい。おとなしく眠っている時でも、そっくり返って泣いている時でも、這い這いして虫を追っている時でも、夢中で母の乳房に吸いついている時でも、わたくしには珍しく、見ていて飽きない。
(わたくしも早く、自分の子を抱きたい。自分でお乳をやりたい)
という思いで一杯になってしまう。人の子でもこんなに可愛いのだから、まして、お兄さまの子供だったら、どんなに愛しいだろう。
でも、焦ってはいなかった。わたくしは健康なのだし、まだ若いのだから。いずれそのうち、何人も産めるに違いないわ。
葵の上さまがお産で亡くなっているので、少しは恐れもあったけれど、それは悩んでも仕方のないこと。よく食べて、よく動いて、元気に過ごしているのが一番、と少納言も言う。
こればかりは少納言も、品格より実利を取るらしい。几帳に囲まれてじっとしている姫君より、くるくる働いている庶民の女の方が、お産も軽いことが多いのですって。
だから、わたくしが身をやつして市に出掛けても、馬に乗ってお花見に巡り歩いても、川遊びをしても、若くて身軽な女房や、気が利く牛飼童、慣れた警護の者たちさえ付いていれば、あまり文句は言わなくなってきた。いい傾向だわ。
やがて、冬が来た。
桐壺院が亡くなってから、もう一年が過ぎてしまったのだ。いまだ嘆き、御代を懐かしむ人もいるけれど、世間はおおかた、右大臣家に媚びることに慣れてしまっている。わたくしたち左大臣側には、いっそう身に染む寒さというわけ。わたくし個人にとっては、お兄さまの夜歩きが減った分だけ、心安らかと言えるかも。
冷たい風の吹き渡る、曇りがちの夕刻だった。
「この様子では、雪になるかもしれませんわね」
と空を見上げて女房たちが言う。わたくしは部屋を炭火で暖め、熱い食事を用意させて、お兄さまの帰りを待っていた。
ここのところ、桐壺院の一周忌の御法事が続いている。けれど、そのお兄さまはなぜか、真っ青な顔で戻ってきた。そのまま自室の御帳台に籠もって衾を引きかぶり、いくら勧めても食事も摂らない。
亡き方々のための、藤壺さま主催の法華八講会に参列しただけなのに、どうしたというのかしら。
やがて、噂が入ってきた。その法会の最終日、藤壺さまが突然、ご自分の結願として出家の決意を示されたのだという。そして、叡山の座主をお召しになって戒をお受けになり、伯父上である横川の僧都にお願いして、その場で御髪をおろされたという。
列席の人々は驚き、嘆き、
「まだお若いのですから、早まったことは」
「何も尼姿にならずとも、桐壺院のご冥福は祈れますのに」
「どうか、お心を強く持たれて、考え直されて下さいませ」
と、わたくしのお父さまが中心になって、必死でお止めしたそうだけれど、藤壺さまは揺るがぬご決意で、むしろ晴れやかなご様子であったとか。
「わたくしを差し置いて、院のための大掛かりな法会を主催するなど、生意気な」
と最初はご不興だった弘徽殿の大后さまは、藤壺さまの出家を聞いて、
「おや、そういうご決意でしたの。それはそれは、ご立派ですわ。見上げたご覚悟ですこと」
と勝ち誇ったように高笑いなさったらしい。これでますます、宮中は弘徽殿さまの思いのまま、というわけ。
でも、それで、お兄さまの受けた衝撃がわかった。
出家するということは、俗世への執着を断ち切ること。一切の愛欲の情を捨て去ること。
つまり、お兄さまにとっては、別離の宣言に他ならない。いくら能天気なお兄さまでも、出家した女性を口説くような罰当たりな真似は、とてもできないのだから。
わたくしも驚いたけれど、ほっとした部分が強い。
(よかった。藤壺さまが、決断して下さって)
これでもう、お兄さまも、きれいさっぱりあきらめがつけられるでしょう。東宮さまのおためにも、その方がよかったのよ。
甘ったれのお兄さまは、しばらく泣き崩れているだろうから、放っておくことにした。泣き疲れた頃に、様子を見に行けばいいわ。
そう思って、ちらちらと雪の降りだした一晩、離れて過ごした。憧れの方の出家、ご自分の青春の終わりを、思う存分嘆き悲しめばいい。わたくしだって、さんざん泣いたのだから、これで釣り合いがとれるというものよ。
そうして、翌日の朝。
お庭の木々には白く雪が積もっているけれど、昨日の厚い雲は去り、あたりには明るい日差しが注いでいた。人の行き交う小道や中門、車宿のあたりは、既に雪が除けられ、乾き始めている。この分では、残った雪も、じきに溶けてしまうだろう。
「紫の上さま、どういたしましょう。光君さまは、昨日から、お食事もなさらないのですが」
「格子も開けるな、うるさいから誰も来るな、とおっしゃるのです」
と心配する女房たちを下がらせておき、わたくしは、お兄さまの居室である東の対に踏み込んだ。格子をきっちり下ろしているから、中は暗い。
「あなた、雪は止みましたわよ。お起きにならないのですか」
本人は、あちこちに畳紙や檜扇や直衣や指貫を散らかし、単姿で御帳台の中に伏していた。左大臣さまからいただいたという、立派な石帯も放り出したまま。
破り捨てた薄様の切れ端が何枚もあるのは、藤壺さまからのお文なのかしら。それとも、ご自分の書き損じなのかしら。もしも滅多な内容だったら、女房たちに見られないうち、火桶で焼き捨てておかなくては。
わたくしが近づくと、真綿入りの衾をかぶっていたお兄さまは、涙でぐしょぐしょの顔を上げた。わたくしは小袿の裾を優雅にさばいて座り、
「どうなさったの」
と、すまして尋ねてみる。すると、このお馬鹿はぐずぐず鼻をすすり、
「あの方が、あの方が」
と母親に何か言い付ける子供のように、わたくしに訴えるのだった。藤壺さまに見捨てられた、と。
「あの方はもう、わたしのことなんか、どうでもいいんだ。出家なさって、俗世のことはみんな忘れてしまう。わたしには母上も、お祖母さまももういないのに。夕顔も、葵の上も、六条の御息所も、みんな、みんな、どこかへ行ってしまう。父上も、わたしを残して逝かれた。誰も、わたしの側に残ってくれないんだ。その上、あの方まで出家だなんて。これからどうやって、何のために生きていけばいいというんだ」
と身もだえして嘆く。
まったくもう、馬鹿なんだから。
自分が藤壺さまを困らせ、追いつめるから、こういうことになったんじゃないの。
無理に押し入られ、不義の子を孕まされた藤壺さまこそ、いい迷惑というもの。よもや藤壺さまの側から、お兄さまを引き入れたわけではないはずよ。多少の好意はあったとしても、そんなもの、望まぬ妊娠で吹き飛んでしまったはず。
今となっては、おそらく、お兄さまの一方的な妄執が残っているだけ。東宮さまのご用事にかこつけて、普通の対面をするだけで満足していればよかったのに。そういう、大人の我慢ができないのが悪いのよ。
「そうなってしまったことは、仕方ありません」
と静かに言い聞かせた。
「藤壺さまも、東宮さまのおために、よくよくお考えになってのこと。宮中からの風当たりも強かったでしょうし、ここは一歩引かれた方が、弘徽殿さまのお気持ちも、幾分かはおさまるかもしれません。それに、東宮さまの後見であるお兄さまが、その母君さまに、まるきりお目にかかれない、というはずはないでしょう。何か御用があれば、普通の訪問はできるのだから、口実を考えたらいいのですよ」
子供を教え導くように、諄々と諭す。
「ほら、出家なさった方は、俗世の余計な悩み事がなくなって、長生きなさることが多いというじゃありませんか。藤壺さまもきっと今頃、清々しいお気持ちで、院のご冥福を祈っていらっしゃいますよ」
何より、お兄さまの邪恋から逃れられて、一安心、というところだわ。
「だからね、そんなに寂しがらなくていいんです。ここにこうして、わたくしがいるでしょう」
あなたの妻が。
「わたくしは、どこへも行きません。お兄さまが白髪になっても、歯抜けになっても、見捨てたりしませんからね。これからは、わたくしを藤壺さまの代わりだと思って下さればいいのよ」
すると、お兄さまは呆然として、わたくしを眺めている。
本当は、まずいやり方かもしれない。これでは、ただお兄さまを甘やかし、お馬鹿のままでいさせるだけかもしれない。
でも、いま、この人を慰めるには、これしか思いつかない。身代わりで始まった関係でも、長く続けば、わたくしこそが本物になるかもしれないでしょう。
―お祖母さまに死に別れて、心細く泣き暮らしていた時、お兄さまが両手を広げて迎えに来てくれて、どんなに嬉しかったか。
暑い日は釣殿で一緒に昼寝をし、氷室から取り寄せた氷に甘葛をかけて食べ、池に舟を漕ぎ出して水遊びを楽しんだ。
秋はお月見や紅葉狩り、重陽の節句。
冬は暖かい塗籠で物語を読んだり、庭に降りて雪遊びをしたり。
春は若菜摘みや桜巡り、物詣でに連れ出してもらった。どんなに楽しい、晴れやかな日々だったことか。
この人にどんな欠点があるとしても、やはり、愛している。わたくしにとって、生涯ただ一人の殿方。この人を守れる妻は、わたくしだけのはずよ。
「わたくしが、お母さまの代わりです。泣きたい時は、いつでもわたくしの膝を貸して差し上げます」
と優しく言うと、お兄さまは信じられないように、まじまじとわたくしを見る。
ちょっと、子供扱いしすぎたかしら。生意気を言うな、と怒りだすかもしれない。そうしたら、わたくしも怒ってやるけれど。
でも、お兄さまは、わたくしの膝にがばりと身を投げてきた。そして、安堵が混じった勢いで、盛大にすすり泣く。
涙が袴に染みた。熱いのか冷たいのか、よくわからない。世間から見れば理想の貴公子でも、中身は一生、幼子のままなのかもしれない。わたくしはもう、そんな時期は通り過ぎてしまったのに。
「いい子、いい子ね。もう大丈夫。わたくしが付いていますよ」
頭を撫でて、慰め続けた。この人は本当は、顔も覚えていないお母さまが恋しいだけなのかもしれない。藤壺さまこそ、お母さまの形代だったのではないだろうか。
でも、それなら、わたくしだって構わないわけだわ。
いいえ、わたくしこそ、お兄さまの一番の理解者よ。
藤壺さまは、ご自分の御子を優先なさるのが当たり前。でも、わたくしは、この人を置いては、どこへも行かない。たとえ出て行きたくても、行く場所がないのよ。頼れる実家もなければ、自分名義の財産もないのだから。
「よかった、あなたがいてくれて」
やがて、泣き止んだお兄さまはそう言って起き上がり、照れ笑いしてみせた。だいぶ、気持ちを落ち着けた様子。わたくしだけはどこへも行かない、そのことを信じてくれたらしい。
「それでは、何か温かいものを運ばせましょうね。お腹がお空きでしょう」
「うん、頼む」
と素直に言う顔を見て、わたくしは、
(勝った)
という気がする。
別に、藤壺さまに張り合うつもりではなかったけれど、やはり、負けたくないと、深い所で念じていたのかもしれない。
とにかく、いま、この人の隣にいるのはわたくし。今後もずっと、わたくしこそが正当な妻。そのことに、深く安堵している自分がいる。
わたくしがこうして甘えさせている限り、この人はわたくしを頼るだろう。わたくしを慕い、まとわりつくだろう。
それは本当は、この人を損なうだけかもしれない。びしびしと厳しいことを言ってやって、大人の自覚を持たせるべきなのかもしれない。
でも、それをしたら、この人はよそに逃げるわ。帝の御子という身分、天下有数の美貌と才気、無邪気な愛嬌、これだけ備えていたら、どこの女も、喜んでこの人をちやほやするもの。
いいえ、渡さないわ。この人は、ずうっとわたくしが面倒みるの。いつか、わたくしが先に死ぬようなことになったら、その時は、許してもらうしかないけれど。
その時までには、きっと子供を産んでおくわ。家族は、増やすことができるのよ。わたくし、あなたにたくさんの子供と、孫をあげる。そうしたら、いつか老いて死ぬ時が来ても大丈夫。回りを囲んでくれる家族がいたら、満足して逝けるはず。
だから、わたくしを愛してちょうだい。早く、あなたの子供を授かるように。
***
事態は急速に悪化した。
お兄さまときたら、前からの恋人である朧月夜の姫の元へ忍んでいって、こともあろうに、お父上の右大臣さまに見付かってしまったのだ。
その晩、生憎と激しい雷雨になってしまったもので、心配なさった右大臣さまが、姫さまのお部屋にお見舞いに立ち寄られた。逃げ損ねて姫さまの御帳台に隠れていたお兄さまは、言い訳しようのない密会の現場を目撃されてしまった、というわけ。
まったく、この難しい時期に、何という大間抜けなの。よりによって、敵地同然の右大臣邸に忍び込んでの逢瀬だなんて。同じお邸に、弘徽殿の大后さまも里帰りしていらしたというのに。
朧月夜の姫は、元々、入内が決まっている方だった。つまり、朱雀帝の婚約者。
それが、お兄さまとの軽はずみな恋愛沙汰のおかげで正式な入内ができなくなり、苦肉の策として、女官長である尚侍の身分で宮中に上がられたという経緯がある。
その醜聞の時、右大臣さまは、
『我が家の大事な姫に、何ということを。妃にするべく、風にも当てずに育ててきたのに、主上さまに差し上げる前に、こんなことになるとは』
と、ひどくお怒りになったらしいけれど、既に葵の上さまが亡くなっていたため、お兄さまと左大臣家とのつながりは、若君の夕霧さまの養育のことだけ。
『既にそういう仲ならば、いくら怒っても手遅れか』
と考え直され、
『それならば、結婚を許してもいいかもしれん。左大臣家と手を切って、こちらの婿になって下さるなら、それなりにお世話して差し上げよう』
と言って下さったとか。さすがは老練な政治家、現実的な判断というもの。お兄さまの人気と将来性を考えれば、敵に回すより、自分の陣営に取り込む方が有利ということ。
それなのに、お兄さまときたら。
ことによったら、わたくしに義理立てしてくれたのかもしれないけれど、
『いや、結婚する気はないよ。朧月夜の姫は、美人で愛嬌があるけれど、少々考えの足りない、軽薄な方だからね。妻にするには向かない』
とすまして、そのお話を蹴ってしまった。浮気癖のやまないお兄さまが、人のことを軽薄だなんて、開いた口がふさがらない。
それに、結婚話を断ったのならば、そこですっぱり別れておけばいいものを、逢瀬だけはこっそり繰り返していたというから、図々しいことこの上ない。右大臣さまや弘徽殿の大后さまでなくても、
(何という、けしからぬ男)
と思われて不思議はない。
貴族社会では、どんな事件の時も、それぞれの邸に仕える女房たち、郎党たちの人脈によって、かなり正確な噂が伝わるのだけれど、前は折れて下さった右大臣さまも、今回はさすがに、許して下さらないようだ。
「この二人は、まだ切れていなかったのか。うかうか誘いに乗る姫も愚かだが、源氏の君も何という無節操だ。しかも、わが邸内での密会とは。これではもう、主上さまに言い訳できないではないか」
と、ひどくお嘆きとか。
ところが、今上さまは不思議な方。この朧月夜の姫をたいそう気に入られていて、今では女御以上のご寵愛なのだった。普通なら、寵姫の裏切りはとても許せないはずだと思うのだけれど、
「光君に口説かれたら、どんな姫でも、よろめくのは仕方ないね。いいよ、わたしは気にしないから、宮中に戻っておいで」
と寛大におっしゃっているらしい。
いいのかしら、そんなにお優しくて。
元々、この方は、『光源氏の君の崇拝者』なのだと聞いている。兄が異腹の弟に憧れるなんておかしな話だけれど、お兄さまが御前に伺候すると、主上さまはいつも大喜びなさり、様々な遊び事を持ちかけられ、なかなか退出をお許しにならないとか。
「やはり、どんな催し事でも、あなたの姿がなければね」
と公言なさり、お兄さまが宴の舞い手を引き受けたりなさると、うっとり見惚れていらっしゃるとか。宮中の人々からは、
「ひょっとして、周囲の女君より、源氏の君の方がずっとお好きなのでは」
と苦笑混じりに噂されるほどだという。貴族社会では、男性同士の妖しい関係というものも、決して珍しくはないことだから。
恐れ多いことながら、うがって考えれば、
(朧月夜の姫を通して、源氏の君と重なりたい)
というお気持ちなのかも。何となくわかるような、やっぱりよくわからないような、不思議なお気持ちである。
おさまらないのは、弘徽殿さまだった。
「何と不甲斐ない!! お気に入りの姫を盗まれた上、まだそんな甘いことを言っているのですか!!」
と、いたくお怒りらしい。このお気持ちは、よくわかる。客観的な立場で見れば、お兄さまが右大臣家に大恥をかかせ、煮え湯を飲ませたのだ。
「そもそも、葵の上の時も、こちらが妃にと望んだのに、源氏の君に横取りされたのですよ!! 二度目、三度目の無礼ではありませんか!! 甘い顔をしていたら、この先何度でも、同じ無礼を繰り返しますよ!!」
わたくしも、たぶん、そうだと思う。よほど痛い目に遭わなければ、お兄さまは懲りない。自分のすることは全て許されるという、とんでもない感覚を持っている人だから。
そして、その感覚を維持するのに、わたくしも一役買ってしまっている。本当は、少納言がわたくしを躾けたように、もっと厳しく、お兄さまを叱り付けなければならないのに。
とにかく、弘徽殿の大后さまは、以来、ことあるごとに、主上さまの前でも、公卿方の前でも、公然とお兄さまを非難なさるようになった。
「源氏の君の不敬ぶりは、目に余りますわ!! 聞いたところによれば、賀茂の斎院さまにも、しつこく言い寄っておられるとか!! 神に仕える斎の皇女を汚すおつもりとは、何という増上慢ですか!!」
ここで登場する斎院さまは、例の車争いの時に御禊なさった斎院さまではなく、新しく交替して斎院になられた、桃園の式部卿の宮の姫君、朝顔の姫のこと。
こちらはまあ、言い寄るというよりも、
「朝顔の姫とは、昔からの文通相手だから、季節の便りを交わし合っているだけなのに。斎院になられたからといって、急に不義理をしたら、おかしいじゃないか」
というお兄さまの言い分が正しいだろう。朝顔の姫というのは、とても怜悧な方で、最初から、お兄さまとややこしい関係になるおつもりはないらしいし。
でも、弘徽殿さまにとっては、今が長年の憤懣を一気に噴出させる時。桐壺院がお亡くなりになった以上、この世に遠慮する相手は一人もいない。
「あの者を、いつまで好き放題させておくおつもりですか!!」
と日々繰り返し、主上さまや、右大臣さま、その他の殿上人の方々に訴え続けていらっしゃる。
「でも、あのう、光君には何の悪気もないのですよ。ただ、あまりにもまばゆい存在だから、女たちがつい、よろめいてしまうだけで……」
と主上さまが異母弟をかばおうとなさっても、弘徽殿さまにじろりと一睨みされると、真っ青になって、縮み上がってしまわれるとか。
一見、感情的になられているだけのようにも見えるけれど、弘徽殿さまの態度には、冷静な計算も織り込まれていると思う。いま、口実があるうちにお兄さまを排斥するのが、政治的には正しいことなのだ。
もし、お兄さまをこのまま好きに振る舞わせておいたら、次の時代はどうなるか。
藤壺さま腹の東宮さまが新たな帝になり、お兄さまが新帝の補佐に付けば、皇統はそのまま藤壺側の血筋で続いていき、今の朱雀帝の血筋は、傍流に追いやられてしまうかもしれない。だから、弘徽殿さまがご自分の御子のため、その子孫のため、早いうちに邪魔者を排除しておこうと考えるのは、理に適っている。
そのうち、お兄さまに対する、公然たる嫌がらせも始まった。これまでも少しはあったことだけれど、桐壺院がおられた頃は、まだ右大臣方に遠慮というものがあったのだ。でも、もはや、お兄さまに意地悪しても、どこからも叱責が来ないから。
右大臣方の公達に、通りでわざと前を横切られたり、聞こえよがしの皮肉や悪口を浴びせられたり、下襲の裾を踏まれて、大勢の前で転びかけたり。
一つ一つは些細な出来事でも、子供時代からずうっと人気者だったお兄さまにとっては、慣れていないことばかりなので、余計にこたえる様子。
心情的にはお兄さまに味方したい者たちも、とばっちりを恐れて、知らん顔で通り過ぎていくらしい。
――中宮であられた藤壺さまでさえ、弘徽殿さまの権勢を恐れ、出家なさったではないか!! まして我々などに、いったい何ができる!!
これまで、あれこれの頼み事に列をなして来ていた者たちも、時候の挨拶や任官の挨拶に来ていた者たちも、ぱったり二条院に寄り付かなくなっている。
門前に並んでいた馬や車の列もなくなり、従者たちの詰める侍所もがらんとしてしまった。常に誰かしらが食事していた台盤も、隅の方にはほこりが積もっているくらい。それはもう、唖然とするほどの様変わり。
(あの時は、こちらが色々お世話したのに)
(ご子息の出世のために、口利きして差し上げたのに)
と、わたくしたちが思っても、それはもう、全てなかったことにしたいらしい。
左大臣方の人々の昇進も、見事に止まってしまった。お兄さまの親友の頭の中将さまも、そのご兄弟たちも、先行きの暗さにがっくりなさっているとか。
お兄さまの舅にあたる左大臣さまも、温厚な方なので、怒って右大臣方にやり返すということはなさらない。すっかり嫌気がさされたらしく、公務から退かれてしまった。こうなると、天下は完全に弘徽殿さまと右大臣家のもの。
そうして、ある午後、お兄さまの部屋で、
「いや、参りました」
と膝を並べてうなだれたのは、惟光と良清である。二人ともこれまでは、お兄さまの側近として順当な出世ぶりだったのに、今度の司召で官位を剥奪されてしまったのだ。
当然、参内もできない、お手当も出ない。事実上、貴族社会からの追放である。お兄さまにとっては、両腕をもがれたようなもの。
それで済むどころか、お兄さま本人も、ついに無位無官の身に落とされてしまった。右大将という輝かしい身分から、一気に、宮廷の序列の外にはじき飛ばされたわけ。これにはさすがに、能天気なお兄さまも、とどめを刺された様子。
当面、さして困らずに暮らしていけるだけの荘園も財産もあるけれど、宮中への出入り不可では、先の展望がない。いつ何時、新たな難癖をつけられて、それらの所領を没収されないとも限らないのだし。
また、あまりにも恐ろしいので口には出したくないけれど、この二条院に放火され、どさくさに紛れて、家人もろとも惨殺されるという可能性もある。古来から、政治というのは血腥いもの。
「困りましたなあ」
「これから、どうなるやら」
惟光も良清も腕を組み、考えあぐねているけれど、几帳の陰にいたわたくしは、
(これは、行くところまで行くわね)
と覚悟を決めていた。
(まあ、最悪の罪が発覚していないだけ、まだましよ)
いえ、それも油断はできないかも。男女の密会というのは、手引きする者がなくては成立しない。あちらの門の錠、こちらの扉の掛け金を外さなければ、最奥の寝所にはたどり着けないのだから。
お兄さまと藤壺さまが堅く沈黙していても、秘密を知る女房あたりが右大臣方に密告する、ということは考えられる。まさか腹心の古参女房は裏切らなくても、その下の者が何か気付いていないとは限らない。
そのことを、お兄さまの謀反の証とでも言われたら。あるいは、呪詛とか謀殺とか、まったく事実無根の罪を着せられたら。
そんなことになる前に、何とかしなければ。
でも、どうすればいいの。何ができるの。
現在、弘徽殿さまに逆らえる者は誰もいない。藤壺さまも、ご身分は高いけれど、これといった後ろ盾のない方だし(わたくしのお父さまは、藤壺さまの兄にあたるけれど、北の方のお尻に敷かれていて、まったく頼りない)、東宮さまにとばっちりが行かないよう、息を潜めておられるのがやっと。藤壺さまへの公式なお手当さえ、出家を理由に減額されてしまっているのだ。
お兄さまの場合、流罪も考えられる。絶海の孤島に流されたりしたら、わたくしたちは生き別れだわ。いいえ、その時には男装してでも、漁師の舟を盗んででも、お兄さまに随いていくけれど。
「紫の姫の物語」13に続く
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