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『ペルシアン・ブルー7』

  9 魔王の章

 王女の身柄を巡って、すぐにでも皇太子とアルタクシャスラ王子の激突があるかと魔王は期待していたが、そうはならなかった。

 アルタクシャスラ王子は、貴族の娘と婚儀を行うと、すぐにまた都から旅立っていったのだ。今度は、バクトリアやソグディアナ、ガンダーラへ。

 パリュサティスの方は、皇太子の供の列に入れられ、スーシャからバビロンへ、またハグマターナへと、王の移動に伴って移動していく。

 ミラナという侍女もまた、パリュサティスにぴたりと付いて、細かく世話を焼いていた。半病人の王女を励まそうとして、心を砕いているのがわかる。

 帝国そのものは、平穏だった。つまらん、と魔王は思う。人間たちが争ったり、陰謀を企んだりしなければ、こちらの出る幕がない。

 公然と人間界に姿を現すのではなく、要所で物陰から介入するというやり方が、彼の気質に合っていた。たとえば、王国を乗っ取り、王になるというような気力はない。魔物など、民に怖れられ、憎まれるだけとわかっているのだから。

 ただ、繁栄している者たちが没落したり、幸福をひけらかしていた者たちが不幸に落ちたりする、惨めなざまを見たいだけだ。そうでなくては、自分の腹立たしさを忘れられない。

(なぜ、俺は死ねないのだ……いつまで、悪霊どものつぶやきを聞いていればいい)

 だが、夜の闇に紛れて、女たちの話を漏れ聞くと、王女がまだあきらめていないことがわかる。女たちは用心深く、言葉を選んで会話しているが、底に流れる緊張は伝わってきた。

 王女は皇太子を暗殺して、アルタクシャスラ王子を、新たな皇太子に据えるつもりなのだ。

 兄と戦う覚悟もない王子など、そうまでして、皇太子にしてやる値打ちはないと思うが。

 闇に隠れて観察を続けてきた魔王は、今はもう、王女を女神の娘だなどとは思っていない。少しばかり知恵や意地があるだけの、ただの人間の娘だ。せっかくだから、是非とも、騒乱の元になってもらいたいと思うだけである。

 しかし、侍女の方がどうしてか、気にかかる。もう忘れてしまえと思っても、しばらくするとまた、様子を見たくなる。

 白い横顔、優しい手つき、王女に語りかける穏やかな声。

 やはり、似ているのだ。五百年も前の、あの女に。

 その頃、彼は既に盗賊だった。前の首領を殺して、新しい首領になったのだ。手下を率いて、近くの町や村を襲い回った。貴族の行列を襲撃して、女をさらった。そして、何年か共に暮らした。それから王の軍隊に捕らえられて、処刑された。

 普通はそれで終わるのだろうに、気がついたら、捨てられた穴の中から這い出していた。首を斬り落とされたと思ったのに、ちゃんと元通りになっている。

 その代わり、頭の中にさまざまな声が渦巻くようになっていた。たくさんの人間が住みついたかのように、それぞれの声が、ぶつぶつ、ざわざわと、勝手な独り言を繰り返す。

 気が狂ったのか、と最初は思った。いや、あの頃は実際に、少し狂っていたのかもしれない。聞き取ることも難しいような、たくさんの悲鳴や呪いの言葉が湧き出してくる。

(痛い、苦しい、やめて)
(どうして俺だけ、こんな目に)
(誰か助けてくれ。楽にしてくれ。一思いに殺してくれ)
(誰もいないのか。ここは暗い。寒い。明かりが欲しい。毛布をくれ)
(誰か助けて。痛いの。苦しいの。手を握って)
(水をくれ。もう声も出ない。誰か水を)
(ちくしょう。あいつのせいだ。あいつが死ねばいい)

 声がやまない。いつまでもしつこく、つぶやき続けている。墓場によどんでいた、無数の悪霊たちに取り憑かれたものか。

 それから逃れようとしているうちに、足を踏みはずして崖から落ちたのに、何の痛みも苦しみもなかった。折れた手足も、すぐ元通りにつながってしまう。

 やはり死んだのだ、と彼は思った。死んで、魔物か幽霊になったのだ。
 気がついたら、暑さ寒さも感じない。飛ぼうとすれば、空も飛べる。
 彼は雲の上を飛んで、どこかを目指していた。どこへ行くのだ。何をしたいのだ。

 そうだ、自分を売った、あの女。

 思い出した時、既に、石とレバノン杉で築いた王宮が足元にあった。あいつは王にすがって、妾の一人になろうとしたのだ。彼がその王の軍隊に処刑される時、女はまばゆく身を飾り、貴族の並ぶ高い桟敷にいて、壮年の王にしなだれかかっていた。

 盗賊にさらわれて逃げられなかった、いやいや首領に囲われていた、とでも話していたのか。

 その王の軍隊が、山奥の岩棚に隠されていた砦を襲ったのだ。内部に手引きする者がない限り、決して落ちないはずの砦を。

(確かに、旅の途中の行列から、あいつをさらったのは俺だ。しかしあいつは、俺を好きになったと言ったではないか。妾の娘として、正妻の一族に苛められているよりも、ここの方がはるかにいいと)

 彼が狩りで怪我をした時は、懸命になって手当てをしてくれた。何日も付き添って、スープを飲ませてくれ、薬草を煎じてくれ、傷口に薬を塗ってくれた。優しい手つきで、全身の汗をぬぐってくれた。

 熱が下がった時は、この女なしではいられないと思うようになっていた。こんな上品で優しい女を手に入れたのだと、世界に自慢したいほどだった。

 彼は精一杯気を使い、他の男には指一本触れさせないようにした。日常の食料や衣類だけではなく、賛沢品もあれこれと運び込み、山奥の砦でも、決して不自由はさせなかった。時々は、こっそり町へも気晴らしに連れていった。

 ――それなのに、そういう機会をとらえて、あいつは俺のことを密告したのだ!!

 気がついた時には、燃え上がる王宮を空から眺め下ろしていた。冷たい風の吹き渡る夜、数十個所から同時に上がった炎は、あっという間に燃え広まっていく。

 重い屋根が崩れ落ち、熱風が渦巻き、寝入りかけていた王も側近も、兵士も侍女も、たちまち煙に巻かれ、熱い炎に焦がされる。

 あの女の悲鳴が聞こえた。倒れてきた柱に潰されたのだ。

 そして、馴染んでいた気配がこの世から消えた。あっさりと。

 彼は我にかえり、強い恐怖に襲われた。集まってきた群衆の上を飛んで、地の果てまで逃げた。

 あいつを殺した。殺した。殺してしまった。取り返しのつかないことを。

 目茶苦茶に飛び回り、岩山にぶつかった。岩を拳で砕いて、獣のように叫び、転がって唸った。

 本当はただ、あいつに会いたかっただけだ。だが、面と向かって、憎悪と嫌悪をぶつけられるのが怖かった。
 少しも愛してなどいなかった、仕方がないから愛するふりをしていただけだと、真実を突き付けられるのが怖かった。

 しかし、もしも火を放つ前に会って、話をしていたら。あいつが、泣いて命乞いでもすれば。

 いや、俺を売ったのは他の誰かだと言ってくれれば、そうしたら……

 彼は絶望で気が狂いそうになった。深い海に飛び込み、高い山に登り、力の限り世界を飛び回って、自分を痛めつけた。

 そうやって何年も、何十年も経った。何百年も。

 自分は確かに、馬鹿なのかもしれないと魔王は思う。だが、賢く生きられる人間などどこにいる。

 彼の父親は、行きたくもない戦に駆り出されて死んだ。身重の母親は、遠くの親戚を頼る途中、狼の群れに襲われて死んだ。
 まだ子供だった彼は、一晩中、木の上で震えていた。朝になった時には、木に登れなかった母親は、骨しか残っていなかった。

 泣きながら骨を埋め、一人で親戚のいる村を目指し、そこで厄介者扱いされて育ち、くだらない喧嘩を繰り返し、やがて盗賊の仲間に入り……

 生きていることの、どこに救いがあるのか。

 混乱を抱えたまま、あちこちさまよった。高名な学者がいると聞けば、弟子との問答をのぞきに行き、偉大な聖人がいると聞けば、人間たちと並んで説教を聞いた。

 しかし、奴らの言うことは納得できない。しょせんは、口先だけのごまかしだ。地上の王国が栄え、やがて滅びるのを見届けても、彼は少しも変わらない。頭の中の声は、潮騒のように気にならなくなっていたが、すっきりと消え去ることもない。

(痛い、苦しい、寂しい、誰か……)

 ふと、思いついた。俺が本当に死んだら、この声も止まるのではないか?

 しかし、試しに自分で自分の首を落としても、血は流れず、痛みもない。胴体の傍に転がったまま、何日でも目を見開いているだけだ。退屈のあまり、首を拾って肩に乗せずにはいられない。

 もしかしたら、これが呪いというものか。死ぬでもなく、生きるでもなく、俺は永遠に世界をさまようのか。

 上空から、王と王の領土争いを見物する。負けている方に味方してやり、戦乱を長引かせる。海賊の船を沈め、財宝を奪う。山賊どもの上前をはねる。女を横取りする。怯えるのを眺めて、憂さを晴らす。その女をまた、誰かにくれてやる。

 そんなことを繰り返して、自分はまだ、何かを待っているのだろうか……いったい何を?

 この五百年、幾度繰り返しても、その『何か』は起こらなかった。自分より惨めな誰かを見たくなると、女をさらった。泣きわめく女、抵抗する女、哀願する女、彼を誘惑して操ろうとする女。

 自分の女を取り戻そうとして、砂漠で迷って倒れる男もいた。捜索をあきらめて、途中から引き返す男もいた。

 財宝の誘惑に負け、喜んで恋人を売り渡す男もいた。最初から、無駄な努力などしようともせず、すぐ次の女を漁りにいく男もいた。女など、金や権力さえあれば、いくらでも手に入る〝家畜〟ではないか……

 それでも、何人かの男は彼に挑んできたが、ただの人間に何ができるというのだ。救うはずの女の目の前で倒され、女を一層、絶望させただけではないか。

 俺を倒せる男は、この世界のどこにもいない。いるはずがない。どうやったら死ねるのか、自分でもわからない身なのだから。

  ペルシアン・ブルー8に続く

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