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源氏物語より~『紫の姫の物語』7

 


9 光源氏の章

 疲れた。つくづく、虚しい。

 もう、何もかも投げ出して、どこかへ雲隠れしてしまいたい。できるものなら、このまま出家したいくらいだ。

 父上の御所から二条院に戻る牛車の中で、桧扇ひおうぎもてあそびながら考えていた。天下随一の貴公子と言われたところで、それが何だというのだろう。人にはわからないのだ。母もない、妻もないわたしの寂しさは。

 葵の上は、二度と戻らぬ彼方へ行ってしまった。何という皮肉だろう。心が通じたと思った時には、もう失う時だったなんて。

 せめてあの告白が、一年前だったなら。いや、半年でも三月でもいい。優しくする時間が残っているうちだったら。

 誇り高いあの人が、わたしの腕の中で、幾度も柔らかく溶け崩れたのは、わたしを愛してくれているからだったのだ。それを単なる女の弱さと思い、心中で見下していた、わたしの愚かさ。

 こんなわたしに、親の資格があるのだろうか。父親としての責任を果たせ、子供のために元気を出せと言われても、まだぴんとこない。夕霧と名付けた息子は、左大臣家で大事に守られているから、わたしの出る幕はあまりないし。

 父上の前では気を張っても、一人になると、深い沼の底に沈み込むようだった。

 本当は、心中に期待があった訪問だったのだが、父上の側におられる藤壺さまとは、とうとう、直接にはお言葉を交わせなかった。そもそもあの方は、ある時期から、わたしを避けよう、避けようとなさっている。心の奥深くでは、わたしを愛して下さっているはずなのに。

 わたしの錯覚、身勝手な自惚れ、ただそれだけではないはずだ。密かに寝所に忍び入り、この腕に抱いた時、最初は抵抗していたあの方も、最後は歓喜に震えた。自ら、熱い腕でわたしにしがみついてきた。

 あれは罪だった、もう裏切りを繰り返したくない、そう思うお気持ちはわかるが、せめて、目配せの一つでもして下さらないものか。子まで生した仲だというのに、御簾や几帳の陰に隠れ、視線も合わせないままでは、あんまりだ。子供の頃は、あの方のお膝に甘えたこともあるというのに。

 もう一人、わたしが膝にすがって甘えられた女人、六条の御息所も、遠い伊勢に去られてしまった。わたしの相手より、姫君の世話役を選んで。

 賀茂の祭の後、車争いの話を聞いた時は、わたしもまずいと思ったのだが、真正面から責められるのが怖くて、一度面会を断られた後は、なかなか六条に足を向けられなかったのだ。そのうちに葵の上の出産、死別の騒ぎがあり、あの方のことを気にかけるどころではなくなって……

 つまりは、わたしが捨てられた。誇り高いあの方を、長い年月、中途半端な愛人のままにしておいたから。

 やはり、それを恨んでおいでだったのだ。そうならそうと、もっと早く、正直に言って下さればよかったのに。

 いや、言われても、どうしようもなかったか。わたしはひたすら藤壺さまを思い、紫の姫がそっくりに生い育つのを楽しみにしていたから。

 おそらく、何を訴えても無駄、とわかっていたからだろう。あの方は最後の最後まで、無駄な恨み事を言わなかった。そして、いさぎよく伊勢へ旅立っていかれた。生きているうち、またお目にかかれるかどうかもわからない。

 別れというのは、いつも突然に来る。

 夕顔との別れも、あっけなかった。出会ってすぐ、あっという間に燃え上がり、夢中になっていた時の急死。惟光の馬に乗せられ、逢瀬の隠れ家から邸によろめき帰り、しばらく寝込んでしまったものだ。

 わたしはもしかしたら、愛する者を片端から失う定めなのか。これからも、わたしの人生には、悲しい別れしかやってこないのか。

 藤壺さまとの逢瀬も、もはや無理かもしれない。忠義者の王の命婦も、今では、わたしの手引きをしたことを悔やんでいる。かといって、下手に他の女房を口説くのも危険だし(女を味方に引き入れ、秘密を守らせるには、やはり、抱いて骨抜きにするしかない。あの方に近づくために、そういう策略を使うのは、あまり気が進まないのだが……)。

 人の心というものは、本人にさえ自由にならないもの。

 あの方は今でもなお、わたしの最愛の女性。この世に舞い降りた天女。

 わたしは母上の顔を覚えていないが、皆が口を揃えて言う。藤壺さまは、亡くなった桐壺の更衣に生き写しだと。それを聞いて、少年の日のわたしが、どれほどあの方に焦がれたか。

 紫の姫を引き取ったのも、姫が藤壺さまの姪にあたると知ったからだ。姫の父上は、藤壺さまの兄君。事実、顔立ちにも声にも、はっきりと似通うものがある。中身はまだ、姫の方が年若い分、較べものにならないが。

 それでも、葵の上の喪でしばらく会えなかったうちに、紫のゆかりの姫は、ぐんと女らしくなってきた。おまけに、子供の頃から変わらず、わたしを慕ってくれている。今ではあの姫だけが、わたしの心の慰め。

 ――そうだ。

 重い暗雲が裂けて、光が差したような思いがした。もうそろそろ、姫を実質的な妻にしてもいいのではないだろうか。そうすれば、更に女として磨かれて、より一層、藤壺さまに近づくのでは。

 いや、しかし、まだ早いのか。何といっても、赤ん坊は臍から生まれると信じている無邪気さだ。いきなりは無理かもしれない。これまでずっと、兄と妹として過ごしてきたのだし。

 だが、少し慣らすくらいならどうだろう。手を握り、肩を抱く。腰を撫でる。軽い口づけをする。姫は元々、わたしの懐に潜って眠るのが好きなのだから。冬の夜はしばしば、わたしの足の間に、冷たい足を差し込んできたものだ。温めてくれないと眠れない、と甘えきって。

 きっと大丈夫だ。

 わたしは既に、愛されている。

 他に頼る先を持たない姫にとって、わたしは唯一の庇護者。父であり兄であったものが、夫に移り変わるだけのこと。

 これまで、衣の上から抱いて温めていたのを、じかに触れ合うようにするだけだ。最初は驚き、怖がるかもしれないが、それは押し切っても問題あるまい。

 過去にわたしが抱いたどの女人も、あらがったのは初めのうちだけで、すぐに溶け崩れ、わたしの首に熱い腕を回してきた。姫もそうなるはずだ。こんないいこと、どうしてもっと早くしてくれなかったの、と言われるかもしれない。

 試してみよう。今夜だ。

 この手の中に、姫の清らかな乳房を、じかに包み込む。

 そう決心すると、いくらか力が戻ってきた。いや、かなり心が浮き立ってきた。まだ、この世に見切りをつけるのは早い。姫を妻にしたら、もう、くだらない浮かれ歩きなどしなくていい。やむを得ない公務の他は、二人で寄り添って過ごすのだ。

 邸に戻ると、さっそく西の対を訪ねた。冬への衣更ころもがえが済んだばかりの室内は、空薫物そらだきものの香りもゆかしく、調度類も華やかだ。少納言の計らいで、女房たちの衣裳にも神経が行き届いている。喪に沈む左大臣邸とは違い、交わされる声も明るい。

「お帰りなさい、お兄さま」

 紫のゆかりの姫は、あでやかなくれない小袿こうちき姿で、長い黒髪を背に流し、花が開いたような美しさである。

 しみじみと、目に染みた。さすがに、藤壺さまの高雅にはまだ及ばないが、そこは、若さの華やぎが補ってくれる。照り輝くような肌の色合いといい、ふっさりした黒髪の艶やかさといい、天下に隠れもない美女ではないか。もう数年したら、当代随一と言っても過言ではなくなるだろう。

「お食事はもう、お済みですか。まだでしたら、すぐ支度させますわ。外は寒かったでしょうから、汁物を熱くさせましょうね。お酒も運ばせますわ」

 あれこれと気遣ってくれる微笑みの明るさ、立ち居振る舞いの女らしさ。これならもう、一人前の淑女といってよい。今日まで、いつくしんで育ててきた甲斐があったというもの。

「院のご様子は、いかがでしたか」

 と尋ねてくれる声も優しい。

「ああ、父上はお元気だったよ」

 そういえば、今日の訪問の名目は、父上のお見舞いなのだった。わたしの方が、逆にいたわられて帰ってきたが。

 思い返してみれば、母上が亡くなった時も、お祖母さまが亡くなった時も、わたしには父上がいた。いつでも父上の、大きな慈愛に包まれてきた。

 父上が、わたしの後見役に定めて下さった左大臣さまも、立派な方だ。夕霧がいる限り、左大臣家との絆も残っている。頭の中将という友もいる。

 失われたつながりを嘆いてばかりいて、今ある繋がりを忘れてはいけない。残されたものこそ、大事にしなければ。

「そうですか。よろしゅうございました。ご病気がち、という噂だったので、心配だったのですけれど。それなら、無事に春を迎えられますわね」

 と紫の姫はにっこりする。ものの言い方も品よく落ち着いて、しとやかになってきた。少納言の躾が、ようやく実を結んできたのだろう。

「そうだ。いつか、あなたを父上に引き合わせよう。なに、大袈裟にしないで、わたしの女房のふりで連れていけばいい」

 そうしたら、藤壺さまと紫の姫、よく似た美女二人を見比べて、父上は何とおっしゃるだろう。まるで姉妹のようだ、花が咲き揃ったようだ、と喜ばれるのではないか。

 そして、わたしにこんな素晴らしい妻がいることに、安堵して下さるだろう。葵の上に優しくできなかった分、これからは、紫の姫を大切にしていきますと申し上げるのだ。

「まあ、院にお目通りできるのですか。すてき。それでは、わたくし、藤壺の叔母さまにお目にかかれるのね。嬉しいわ。これまで、お噂ばかりで、お会いできる機会がなかったのだもの」

 と、はしゃぐ姿も愛らしい。外は寒々とした冬景色だが、ここだけは、早々と春が来たかのようだ。この姫の喜ぶことなら、何でもしてやりたい。

「桜が咲いたら、花見に行こう。馬を並べて行ってもいい。その方が、広く見て回れるからね」

「ほんと? 男装で外を歩いていいの?」

 黒い瞳が、期待できらきら輝く。

「少納言には内緒だよ。途中まで牛車で行って、そこから馬にしよう」
 御簾や几帳の向こうで控えている女房たちに聞こえないよう、顔を寄せてささやくのも楽しい。姫はくすくす笑う。

「それじゃあ、桜まで待てないわ。梅が咲いたら、すぐよ。ね、約束して、お兄さま」

 興奮すると、言葉遣いが子供の頃に戻ってしまうのは、まだ仕方のないことか。

「ああ、二人で梅を見に行こう。あなたが行きたい所なら、どこへでも連れていくよ」

「まあ、お兄さまったら、前は渋々だったのに、どうして急に、そんなにものわかりがよくなったの」

「何が一番大事か、わかってきたからだろうね」

 人はいつか、必ず死に別れる。だから、一緒にいられる間は、精一杯、優しくし合わなくては。

 わたしは姫に付ききりで過ごし、今日初めて見るもののように、白い肌や、赤い唇や、豊かな黒髪を目で楽しんだ。夜が更けると、女房たちを下がらせ、いつものように二人で御帳台に入る。

 暖かい真綿まわたふすまにくるまり、足をからませ、互いの体温で温め合った。細い肩を抱いて、ぐいと胸に引き寄せると、姫は嬉しそうに頭をすりつけてきながら、くすくす笑う。

「お兄さま、前より寂しがり屋さんになったのではなくて?」

「そうかもしれない」

 単の下に、弾力のある、温かい乳房が隠れているのがわかった。もう子供ではない。肩を抱くだけではおさまらない、という自分を感じた。
 この甘い肌を、じかに味わいたい。

 かぐわしくほころびかけたつぼみを、強引にでも開花させてしまいたい。

 何も知らない姫は驚くだろうが、許してくれるはずだ。これまで、互いの愛情を疑ったことはないのだから。

「もっと、くっついてくれるかい」

 と髪を撫でてささやいた。すると、無邪気なくすくす笑い。

「これ以上、どうやって?」

「邪魔な隔てを取ってしまえばいい。これからはもう、わたしたちをさえぎるものは、何もいらないのだから」

 『紫の姫の物語』8に続く

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