源氏物語より~『紫の姫の物語』13
15 紫の姫の章
「先手を打ちましょう」
わたくしは几帳の陰から出て、惟光と良清の前に座った。
「姫さま。いえ、紫の上さま」
脇に控えていた少納言が、渋い顔でたしなめてきたけれど、あえて無視した。
貴婦人は、夫や家族以外の男性に顔を見せるものではないけれど、こんな大事な話をするのに、物陰から女房経由では、まだるっこくて仕方ない。それにどうせ、この二人には、娘時代にさんざん顔を見せているのだし。
「先手とは?」
と戸惑う二人。お兄さまも、けげんそうな顔。わたくしは断言した。
「宮中から正式に何か言われる前に、隠棲するのよ。どこかの田舎へ引っ込むの。そこで何年か、情勢が変わるのを待てばいいのよ。右大臣さまも、決してお若くはありません。弘徽殿さまだって、ご病気でもなされば、お気が弱くなるかもしれないし。そうしたら、主上さまは元々、お兄さま贔屓なのだから、殿上への復帰を許して下さいますよ」
男たちは、お互いに顔を見合わせた。
「自発的な退去、謹慎ですか」
「それはちと、早まりすぎるのでは……」
「何も、そこまで極端なことをせずとも」
三人とも都育ちだから、都の外に出る、ということが考えられないのだ。
「そうかしら。正式に流罪を言い渡されてごらんなさい。大変よ」
主に惟光と良清に向かって、言い聞かせた。
「あなた方、お兄さまと一緒に、お米も取れない島に流されたいですか? 自分で畑を耕したり、釣りに出たりしないと、食べるものもない暮らしですよ。野菜をどうやって育てるか、ご存じですか? 舟で沖に出て、魚が捕れますか? 着るものも、そのうちぼろぼろになって、継ぎ当てだらけ。日に焼けて、髪はざんばらになって、島の漁師と区別がつかなくなるでしょう。野分でも来たら、小屋の屋根なんか吹き飛ぶでしょうね。それを修理するのも、自分たちなのですよ。お二人とも、大工仕事をなさったことがおあり? たぶん、縫い物をなさったこともないでしょう。でも、お兄さまの衣類の継ぎ当ては、あなた方がするのですよ。島の女たちだって、手ぶらの流人なんかには、そうそう甘い顔はしてくれませんからね」
貴族社会に育った二人は、てきめん、情けない顔になった。悲惨な未来図が、ようやく胸に迫ってきたらしい。お兄さまは呆然としている。これまでの自分の暮らしからすれば、考えたこともないような転落だから。
「まさか、そんなことには……」
「ならないと言えますか? 今上さまはお優しいけれど、お母さまには逆らえない方ですよ。それに、弘徽殿の大后さまは、お兄さまの存在自体が憎らしいのでしょう。ご自分は、桐壺の更衣さまに勝てなかったから。そして、ご自分の息子は、逆立ちしてもお兄さまに敵わないから」
ひっ、という顔で、男たちは首をすくめた。それが事実とはわかっているものの、口に出すのは剣呑すぎる、と思うらしい。少納言はわたくしの毒舌に呆れて、そっぽを向いている。わたくしの意図を十分に理解しているので、邪魔はしてこないだけ。
本当のところ、今上さまが必ずしも、お兄さまより劣った男性、というわけではないのだけれど。
それどころか、他の男と密会した朧月夜の姫君を責めないところは、潔いし、お優しいわ。怖々ながら、お兄さまを庇って下さるのも、
『わたしの亡き後は、兄弟で助け合うように』
という桐壺院のご遺言を重んじていらっしゃるからでしょう。お母さまにはっきり逆らわないのも、夫に愛されなかったという、お母さまの悲しさを察していらっしゃるせいかもしれないし。
それでも人々からは、
(うすぼんやりした、頼りない主上さまよ)
と思われているのが、切ないところ。おまけに、わたくしまでがずけずけ悪口を言ってしまって、本当に申し訳ないと思う。でも、今はとにかくお兄さまのお尻を叩いて、行動を起こさせないと。
うーん、と三人とも考え込んだ。
「確かに、流刑を待つよりましか」
「しかし、隠棲するにしても、どこへ」
「筑紫とか、東国とか?」
と心細い顔。
「そこまで遠くなると、道中危ないでしょう。行った先でも、何が起こるかわかりません。精々、須磨か明石でよろしいんじゃありませんか」
と提案した。
それならば、そう極端な田舎ではない。都と文の遣り取りもできるし、届け物もできる。
宮中で育ったお兄さまには、都の外の暮らしは想像できないかもしれないけれど、北山の自然の中で遊んだ時期があるわたくしには、田舎暮らしの良さもわかる。身分や体裁など忘れてしまえば、川で魚を獲り、焚き火で焼いて食べるのも楽しいこと。
山には、たくさんの恵みがある。梅に桃、柑子に筍、山菜に茸、栗に銀杏。それらを集めて、売り暮らすことだってできる。その昔は貴族の女たちも、自ら山菜摘みや薬草集めをしていたのだから。
いえ、須磨ならまず、海ね。きっと、広々として気持ちがいいはず。できるなら、わたくしも一緒に行きたいくらい。
お兄さまと小舟に乗って網を投げたり、波打ち際で貝や海草を集めたりしたら、きっと楽しいわ。もしも、そうして二人で暮らせるのなら、貴族の暮らしなんか、捨てても構わない。
「須磨か」
と沈んだため息をつき、遠い目をするお兄さま。もっと遠くへ赴任する貴族たちもたくさんいるのだから、そう深刻にならなくていいでしょう。
「海辺の暮らしも、数年なら、面白いのではありません? こういうことは、お気の持ちようですわよ」
と、にっこりしてみせた。
「絵をお描きになったり、管弦の遊びをなさったりしているうちに過ぎますわ。お留守はわたくしが守りますから、心配いりません。なんでしたら、たまに男装して訪ねていきましょうか」
「とんでもない。人さらいに遭ったらどうする。ちゃんと邸にいてくれないと」
と、お兄さまは慌てた様子。わたくしはくすくす笑った。
「冗談ですわ。女連れでは、謹慎になりませんものね」
お兄さまはしみじみ、わたくしを眺めて言う。
「紫の上。あなたはいつの間に、そんなに大人になったのかな」
さあ、いつからかしら。悲しいことがある分、少しずつ鍛えられていくんだわ。
まさかこうして、お兄さまと別れて暮らすことになるとは、夢にも思わなかったけれど。
「きっと、誰かさんの教育がよかったんですわ」
と笑いに紛らせた。お兄さまも苦笑する。
「おかげでこうして、都一の貴婦人が出来上がったわけだ」
本当に、そう思って下さるならいいけれど。
「大丈夫、ほんの少しのことですわ。いずれ必ず、風向きが変わりますから」
と明るく保証した。隠れ家で急死した夕顔の君や、お産で亡くなった葵の上さま、思いを残して逝かれた方々からすれば、わたくしははるかに恵まれている。光君のただ一人の妻として、留守を守れるのだもの。
その晩、お兄さまはわたくしを抱いて、繰り返し約束した。
「あなたという妻がいるのに、他の女に迷ったりして、本当に愚かだった。二度と浮気はしないよ。遠く離れても、毎日ずっと、あなたのことを思っているからね。たくさん文を書くよ」
息が苦しくなるほど強く抱きしめられて、わたくしは、切ないけれど幸福だった。いま、この人は、真情からそう言っているとわかるから。
「ええ、わたくしも、文をお届けします。都の様子をお知らせしますわ」
浮気をしないという言葉だけは、信じていなかったけれど。
寂しがりの上、目新しい女性にはすぐ好奇心を持つ人だから、須磨で土地の女性と仲良くなってしまう可能性は少なくない。でも、それは仕方がないこと。いつか、無事に戻ってきてくれさえすれば、それでいい。この人は、わたくしの大きな坊やだから。
「都のことなんか、どうでもいい。あなたが無事に過ごしているかどうか、それだけ知りたい。ああ、あなたを人形のように小さく縮めて、懐に隠して連れていきたいよ」
自分が留守の間、他の男がわたくしの元に忍び込んだりしないか、心配しているみたい。勝手なものだわ。自分はよその人妻の元に、何度も忍び入っているくせに。
「わたくしは、天下の光君の妻ですもの。あなたと張り合おうとする無謀な殿方なんて、いるわけないでしょ」
と微笑んで言ったら、
「それもそうか」
と、やや安心した様子。いまだに、自分は天下一の美男と信じているんだから、いい気なもの。世間には次々、新たな美少年や美青年が生い育っているというのに。
――ただ一つ、どうしても残念なことは、いまだに懐妊の兆しがないことだった。もしも子供と一緒にお兄さまの帰りを待てるのだったら、どんなにか心強かったでしょうに。
まだ若い、とは思っても、これからまた数年経てば、もっと妊娠しにくくなるのではないかしら。わたくしは健康なのに、お兄さまもこうして愛してくれるのに、どうして子宝を授からないのだろう。
『紫の上さまは、あまりにお幸せすぎるからですよ』
という慰めは、女房たちから幾度も聞いた。神仏が、幸福を独り占めしないようにと計らっておいでなのだと。
でも、それならば、愛しい人と引き裂かれるこの時になら、心の支えを与えてもらってもいいのではないの。
(どうか、子供をお授け下さい)
闇の中で、お兄さまの傍らに寄り添いながら、わたくしは祈った。
祈る相手は神か仏か、わたくしには決められない。あの世におられるお祖母さまか、お母さまかもしれない。女を罪深い生き物と決めつける御仏の教えには、わたくしは反感を覚えている。
この世で罪が深いのは、苦労の重い女たちよりも、無責任な男たちの方ではないのかしら。
その男たちを贔屓する神仏に祈るよりは、わたくしを愛して下さったお祖母さま、お母さまにすがりたい。
(男の子でも、女の子でも、どちらでもいいのです。ただ、元気な子であったら。子供がいれば、お兄さまのいない寂しさにも、きっと耐えられます。たとえ、このまま二度と会えないことになっても、子供のために生きていけます)
産後の葵の上の様子は、お兄さまから聞かされた。力を使い果たし、身も心も弱りきっていたという。回復するかと思ったのに、結局は助からなかったと。
わたくしだって、お産で死ぬのは怖い。想像すらしたくない。後にお兄さまと赤子を残していくのでは、どんなに辛いだろう。
それでもなお、我が身に赤子を授かりたい。
それは、いつしか、心を焦がすような願いになっている。
自分の胸に子供を抱いて、乳を含ませたい。紅葉のように小さな手で、顔を撫でてもらいたい。一緒に笑い、遊びたい。眠る時は、側に寄り添いたい。夜中でも明け方でも、ぐずりだしたら、すぐ抱き上げられるように。
誰かの赤子を見る度に、どれほどうらやましかったか。その気持ちを表に出すまいとして、あえて興味の薄いふりをしたこともある。本当は、抱き上げて、頬ずりして、そのまま返したくないほどだったのに。
(きっと大丈夫よ。今度こそ)
お兄さまに抱いてもらう度に、自分にそう言い聞かせてきた。でも、こうなっては、お兄さまが旅支度を整えて都を離れてしまうまでに、あと何回、機会があるか。
わたくしの隣で、お兄さまはもう深く寝入っている。この人がわたくしの大きな子供、そうは思っても、本物の子供が欲しいという夢は捨てられない。
それとも、それは欲張りすぎなのかしら。都中の女が憧れる光君を夫にしている、それ以上を望んだら、貪欲の罪で天罰が下るのかしら。
(でも、お兄さまは須磨へ行ってしまう。何年後に戻ってこられるか、わからないのよ。もしかしたら、それきりかもしれないのよ)
暖かい夜具の中で、苦い涙が流れた。
(どうか、無事で戻ってきて。わたくしの元へ、きっと戻ってきて)
この都の中、他にもきっと、お兄さまのために祈っている女たちがいる。お兄さまが密会してきたあちらの姫君、こちらの北の方。女主人の脇から、そっと憧れてきた女房たち。わたくしはきっと、彼女たちから見れば、この上なく幸運な女。
だから、泣くのは今だけ。
朝になったら、明るい顔で旅支度を指図するわ。
そうよ。いざとなったら、本当に男装して、追いかけていくもの。二人して都から逃げてしまえば、弘徽殿さまにだって追いきれないわ。二人で筑紫へでも東国へでも行って、畑でも耕して静かに暮らすの。何人も子供を産んでね。子供たちが大きくなったら、昔は都にいて、たいした羽振りだったのだと、笑い話にして聞かせるわ。
そこまで空想して、やっと少し安堵した。
この世の誰にも、わたくしとお兄さまを引き裂くことはできない。ほんの少しの、かりそめの別居に過ぎないのよ。それが長引くようなら、わたくし、絶対に追いかけていくんだから。
***
お兄さまが惟光や良清、わずかな供人たちを連れ、須磨の地所に隠棲してから、わたくしはずっと、二条院で少納言たちとひっそり暮らしていた。
お兄さまがいないと、陳情のお客さまも来ないし、宴会を開くこともないし、夜毎の外出もないから、邸内は平和なもの。地味に暮らしていれば、生活に困ることもないから、女房たちと双六をしたり、碁を打ったり、流行りの曲を合奏してみたり。
時には、どこかの女房のふりで市をひやかしに行くことも、牛車を連ねて、お花見がてらのお参りに出掛けることもある。もちろん、油断はせずに、機敏な女房たちを連れ、前後を屈強な舎人たちに守らせて。
一応は『留守宅の者も謹慎中』というふりをしているけれど、邸内を調べられるわけではないから、内実は、かなり呑気なものだった。
庭で好きな花を咲かせているし、季節にふさわしい香を燻らせている。池に小舟で漕ぎ出すこともできるし、蛍を愛でながらお酒を飲むこともある。
寂しいことは寂しいけれど、くよくよしても、お兄さまが戻ってこられるわけではないから、なるべく女房たちと笑い合うようにしていた。
「わたくし、いっぺん、よその殿方からお文をいただいてみたいんだけれど、それも来ないわねえ」
という冗談に、少納言は軽く笑う。
「下手にこの邸に関わって、弘徽殿さまに睨まれたら大変、というわけでしょう」
少納言が老いてきて、目が悪くなり、腰が重くなった分、彼女が仕込んだ若い女房たちがしっかりしてきたので、毎日の生活には何の不自由もない。
邸に忍び込んでくる物好きな殿方もなく、夜盗に襲われることもなく、わたくしは、季節の花や月の光、新しい物語、女房たちとの合奏、たまに届くお兄さまからの手紙、惟光からの報告書を楽しみに過ごしていた。
こちらからは、お兄さまの衣装や夜具を整えて送ったり。供人たちの家族からの文や荷物に、わたくしの心尽くしの品々を添えて届けさせたり。
そうして、一年と半分ほどが過ぎた頃。
とうとう、予期していたものが来た。
お兄さまが、嵐をきっかけにして須磨から明石に移ったことは既に聞いていたけれど、お兄さまの世話をしてくれた明石の入道という地元の財産家には、大事に育ててきた姫君がいるという。お兄さまがいよいよ、その姫君に通い始めたという、惟光からの詳しい知らせが届いたのだ。
覚悟はしていたつもりだったけれど、やはり、具体的な事実は痛かった。何でも、明石の入道という人は、自分の娘に高貴な婿君を取ることを願い、都の姫君にも負けないように、美しく誇り高く育てたらしい。そのへんの下級貴族や田舎豪族などからの縁組の申し込みは、全てきっぱりはねつけていたという(どうやら良清も、小物扱いされて、ふられた一人らしい)。
『もしも良縁がないままならば、いっそ、海へ入って死ね』
とまで娘に言い聞かせていたとか。土地の人々も、
『海龍王の妃にでもなれというのか』
『高望みが過ぎるんじゃないのか』
『いったいどんな婿君ならば、満足するというのだ』
と半ば呆れ、半ば感心して、成り行きを見守っていたらしい。
その明石の入道は、お兄さまの流謫の噂を聞くや、千載一遇の機会とばかり、
『是非是非、帝の御子であられる源氏の君に、わが娘を差し上げたい』
と熱望し、嵐と落雷でお兄さまの庵が壊れたのを幸い、強引に、明石の浜辺にある自分の屋敷へ招いたという。そして、背中を押すようにして、高台の別邸に住む娘の元へ通わせることに成功したとか。
そうなの。
一徹な老人にそれほど望まれては、仕方なかったかもしれないわね。
どのみち、血の熱いお兄さまが、いつまでも一人寝をしていられるわけがないのよ。
『わたしにはもう、都に妻がいますから』
と、きっぱり断ってくれればよかった、とも思うけれど、
(つまらない男に添うくらいなら、いっそ死ね、とまで言われて育てられたとは、どんな姫だろう。お顔を拝んでみたいなあ)
という好き心が動いたに違いないわ。
わたくしだって、気になる。どんな方なのだろう。噂通りに美しく、教養高い方なのかしら。
もちろん、惟光がじかにお目にかかることはできない方だから、彼が書いて寄越したのは周辺の噂や、婿入りの経緯、お兄さまから聞いた印象の断片ばかり。それでも、お兄さまを引き付けられるだけの姫君、ということはわかる。
お兄さま、婿になってよかったと思っていらっしゃる?
明石で一番の長者に、天下一の婿君よと大事にされて、ご満足?
もう、都へなど戻らなくてもいいくらい?
さすがに心が波立ち、馬を飛ばして駆け付けたいような気にもなったけれど、今のわたくしは、この二条院の女主人。そうそう気軽に、何日もかかる旅には出られない。そんな行動を、もしも弘徽殿さまに知られたら、謹慎はふりだけか、とお怒りを招くだろうし。
それに、たとえ明石まで出掛けて泣き騒いだところで、もう関係ができてしまったものが、元に戻るわけではない。
いいわよ、好きになさい。
財力のある親元にいる姫君が、蟄居の身のお兄さまのことなんか、心底頼りにするはずがないんだもの。
しばらく付き合ったら、お兄さまの幼稚さがわかるはずだし。いつかふられて帰ってきたら、ネチネチ皮肉を言っていびってやるわ。その時が楽しみよ。
***
でも、これはまだ、本当のどん底ではなかった。わたくしは自分を慰め、励まし、気持ちを明るく保つことができた。
奈落に突き落とされたのは、蟄居生活の三年目。明石の姫君が懐妊のご様子、という惟光からの報告が来た時。
季節は夏で、庭にはまぶしい日差しが注いでいたのだけれど、しばらく、何も見えず、何も聞こえなくなった。目が文面を見ていても、文字が上滑りする。
明石の方に、子供。
お兄さまの、子供。
心が痛いというよりは、しびれた、という感じだった。思いがけない怪我をした時、痛みよりも、まず、驚きが先にくるように。
それでも、堅い岩に長雨の水が染み入るように、何かがじわじわ、心の奥に沈み込んでいく。
――明石の姫君というのは、何という運の強い方だろう。
わたくしは一度も懐妊の兆候がないまま、お兄さまと別居することになってしまったのに。あなたは、お兄さまと一緒に暮らせるばかりか、そんな宝物まで授かって。
人を憎みたくはない。恨みたくもない。でも、こればかりは、刃で腹をえぐられるような苦しみだった。それも、鋭い刃物ではなく、なまくらな小刀で、繰り返し、腸をかき回され続けるよう。いっそ、一思いに突き殺してくれた方が、親切というもの。
どうして。
どうして。
このわたくしではなく、よその女性に和子が。
思えば、葵の上さまの懐妊の時は、わたくしがまだ子供だったから、本当の嫉妬はしないで済んだのだ。お産で亡くなられた方に、恨みを持つことなどできないし。また、藤壺さまの御子のことも、そうと知ったのは後になってから。わたくしが妻になってから、よその女性に子供ができるのは、これが初めて。
和子が若君にせよ、姫君にせよ、お兄さまは、自分の子を生んだ女性を、決して粗略には扱わないだろう。もしかしたら、単なる愛人ではなく、わたくしと同格の妻、という扱いにするかもしれない。高貴な身分の男性ならば、複数の妻は当たり前。
いいえ、わたくしの方こそ愛人に格下げされ、そのうち忘れ去られるのかもしれない。子供のできない女なんて。女の、一番大事な務めを果たせない女なんて。
炎が燃え上がるように、脳天まで何かが熱く突き上げた。
思いきり悲鳴をあげて、柱に頭をぶつけたい。
そこらのものを引き裂き、のたうち、荒れ狂いたい。
自分の皮膚をかきむしり、髪を引きむしりたい。
でも、それはできない。何人もの女房たちが控えている前で。
そんなことをしたら、物の怪が憑いたと言われるだけだわ。せっかく築いたわたくしの威厳が、地に落ちる。少納言も悲しむだろう。わたくしにできるのはただ、静かに文を読み続けるふりをすることだけ。
それでも、胸の内では、押さえようのない嵐が吹き荒れていた。お兄さまの庵を壊した嵐よりも、わたくしの嵐の方がきっと激しいわ。
明石の姫が憎いのではない。
娘の幸せを願った、明石の入道が悪いのでもない。
ただ、こんな巡り合わせになった運命が憎いだけ。
わたくしだって、子供が欲しい。この膝の上に、お兄さまの子供がいたら。できる限りのことをして、健やかに、幸せにと祈って守り育てるわ。
いいえ、今からだって遅くはないはず。お兄さまが、この邸に戻ってくれさえしたら。前のように、情熱を込めて、わたくしを愛してくれたら。
でも、それにはあと何年かかるの。そんな日は二度と来ないまま、お兄さまは明石の入道の婿君として過ごし、わたくしのことを忘れてしまうのではないかしら。
いいえ、都に戻ってこられて、前にも増して栄華を極めることになったとしても、わたくしが石女のままだったら。
石女。
この残酷な言葉。
こんな言葉を考え出すのは、きっと男だわ。そう呼ばれた女がどれほど傷つくか、のたうって苦しむか、思いやることもない。
わたくしの躰は熱いのに。
熱い血で溢れているのに。
子供を授からなかったら、男にとっては、冷たい石と同じことなのね。何の価値もない、邪魔な石ころなのね。
お兄さまが遠い場所で、美しい妻と可愛い赤子を前に、手放しで笑み崩れているさまが心に浮かんだ。それはやがて、現実の風景になるのだ。
『あばば、よしよし、いい子だなあ。こんな可愛い子は、宮中にだっていやしない』
なんて、桁外れの子煩悩になるのではないかしら。
『本当に、光君さまそっくりの、美しい和子さまですこと』
『我が家の宝じゃ。どんなことでもして差し上げよう』
明石のお祖父さまもお祖母さまも揃って、和やかな団欒が続くだろう。
『あまり甘やかしては困りますわ、あなた』
と明石の上がおっとり微笑むさまが、目に見えるよう。そこにもう、わたくしの入り込む余地はない。わたくしのことなど、いずれ、
『ああ、そういう女もいたっけ』
という程度に霞んでしまうのではないかしら。
考えると、うすら寒くなる。妻としてこの二条院を預かってはいても、わたくし個人の財産というものは、ほとんどないのだ。
わたくし名義に書き換えた権利書類もあるけれど、それは、弘徽殿さまに没収されることを防ぐため。実質的には、お兄さまのもの。いつか、お兄さまが戻ってきて、
『ここには明石の上を住まわせるから、出ていってくれないか』
と言われれば、それまでのこと。
そうなったら、頼る親族もないわたくしはどうなるの。どうせ期待はしていなかったけれど、実家のお父さまは、弘徽殿さまに睨まれては困るとばかり、この二条院には寄り付きもしない。お兄さまが時めいていた頃は、あれこれと援助や贈り物を受け取り、よき婿君よと自慢していらしたくせに。
わたくしが暮らせるだけの財産を、もし分けてもらえなかったら、と本気で考えざるを得なかった。
お兄さまに悪気はないにしても、誰か新しい人に夢中になったら、古い女のことなど、どうでもよくなるかもしれない。自分が本当に困窮したことがないから、貧乏の惨めさ、恐ろしさを知らないし。
でも、わたくしは覚えている。お祖母さまの邸の、質素な暮らしのことを。先祖代々の財産のおかげで、飢えることはなかったけれど、決して余裕のある暮らしではなかった。この先数年の見通しはついても、十年、二十年となると、はたしてどうだったか。
持ち主が女や年寄りとなると、荘園の管理人も、てきめんに態度が悪くなる。毎年の収穫を、どれだけ横取りされたかわからない、と少納言が悔しがっていた。親族の支えと、たまさかのお父さまの訪れがなければ、わたくしたちのささやかな財産は、誰かにかすめ取られていたかもしれないのだ。
親の死後、頼りになる兄弟がなく、泣く泣く身分の低い男に嫁いだ姫君の話は、それこそ幾らでもある。きちんと結婚できればまだしも、ただの愛人扱いで、そのうち飽きられて見捨てられ、あるいはどこぞの成り上がり者に売り飛ばされ、姫君はそのまま行方不明、という話もある。
あれから二条院に引き取られ、さまざまな贅沢に慣らされてしまい、長らく、お祖母さまの元での女世帯の心細さを忘れていたけれど。
もう一度、あの頃の気持ちになれるだろうか。
十四の頃、髪を切ってここを出ていこうとした時の、あの気の張り、無謀な意地は、まだわたくしの内にあるだろうか。
もちろん、男装だの出家だのでは、本当の解決にならない。女の身で、自分の力で、どれだけ生き延びていけるかの戦いになる。この冷酷な実力社会では、皇族の身分など気休めにもならない。財力のある受領階級、兵力のある武人階級の方がよほど有利。
(いよいよとなったら、どこかの邸に、女房勤めに出ることだわ)
これまでずっと、かしずかれる側だったわたくしが、仕える側に回って、うまくやれるかどうか、自信はないけれど。
(少納言に、女房の心得を教わらなくちゃ)
と思い、文机に向かったまま、一人で笑ってしまった。
不確かな男性の好意に頼るより、最初から自分で働いて、少しでも蓄えを作っておいた方が、どれほど安心か。気の利いた女房たちは、働き盛りのうちに、ちゃんと宿下がり用の家や、老後のための商売の道を確保しているというものね。
よくわかったわ。お兄さまが、怒って口を利かないわたくしを、せっせとなだめてくれた時期、わたくしは本当に幸せだったのだということが。
今のこの不安、この苦しみに比べたら、あの頃は、何て恵まれていたのだろう。
きっとこれが、わたくしの生涯のどん底なのね。
それとも、この先もっと、これ以上に辛いことがあるのかしら。あの頃はまだよかったと、後から回想することになるのかしら?
だとしたら、わたくしもいつか藤壺さまのように、出家したくなるのかもしれない。その方がきっと、楽になれるのかもしれないわ。殿方にも、この世の仕組みにも、一切の期待を持たなくなる方が。
「紫の上さま。どのようなお文で?」
気が付くと、少納言が心配そうな顔でこちらを窺っている。わたくしは惟光からの気遣いに溢れた手紙と、お兄さまからの言い訳の手紙をそれぞれ畳み、微笑んだ。
「あとで話すわ。それより、お腹が空いたわね」
わたくしが暗くなっては、留守宅を守る女房たち、家司たち、舎人たち、みんなが心細い思いをする。それに、わたくしがここを追い出されても、彼らはそっくり残って、次の女主人に仕えればいいだけのこと。
少納言はわたくしに随いてくると言うかもしれないけれど、髪に白いものが増え、目の弱ってきた彼女を、わざわざ困窮の中へ連れ出すことはない。女房たちの束ね役として、ここで大きな顔をしていた方がいい。お兄さまは、老いた使用人には優しいから。
「みんなを呼んで、釣殿で甘いものでも食べましょう」
と言い、褥から立った。
午後の庭には強い日差しが照りつけ、敷きつめられた白砂が、その光をまばゆく跳ね返している。でも、緑の下影は濃いし、遣り水や、池のほとりはいくらかましなはず。夕方になれば、涼しい風も吹くし。
若い女房たちや、女の童たちは、遣り水で冷やした果物と聞いて、喜んで集まってくる。
寝殿や東の対の方は人少なで寂しいけれど、わたくしのいる西の対は、まだ賑やか。
すぐさま絶望することはないわ、と自分に言い聞かせた。今はまだ、こうしてお兄さまから文が来る。わたくしが恋しいと書いてきてくれる。たまたま子供ができることになってしまったが、あなたへの愛情は少しも変わらない、信じて待っていておくれと。
それを信じたい。
愛は消えないと思いたい。
でも、それでも、わたくしは覚悟しておこう。いつか、お兄さまに捨てられる時が来るかもしれないと。
わたくしが、子供を生めないままだったら。お兄さまが、他の女性との家庭の方を、より大切に思ったら。
それはもう、わたくしの努力では、どうしようもないことだもの。そういう巡り合わせだったと思って、あきらめるより仕方ない。少女の頃から今まで、この二条院という楽園にいられただけで、十分に幸せなのだと。
でも、その時はまた、わたくしがお兄さまを捨てる時でもある。お兄さまがわたくしを要らないと言うのなら、それはつまり、お兄さまのお守りという、わたくしの役目は終わったということ。気が済むまでわあわあ泣いて、のたうって、恨みつらみを数え上げて、それから顔を洗えばいい。
空は広いわ。
都の外にも、ずっと広がっている。
わたくしが生きていける場所も、この青い空の下のどこかに、きっとある。
大丈夫、いざとなったら、籠を頭に載せて野菜売りだって、干物売りだってしてみせるもの。
簀子から仰いだ空は紺碧で、湧き上がる雲はまぶしいほどに白い。めそめそして過ごすには、あまりに惜しい日。
そうだ、と思い付いた。川原はきっと、風が涼しくて気持ちがいいはずよ。腹ごしらえをしたら、久しぶりに狩衣を着て、髪をくくって、馬で外を一走りしてこよう。
そうしたら、いつかのお姉さんたちに会えるかもしれない。今なら、笑って言えるわ。人生の真実を教えてくれて、ありがとう。わたくしも何とか、負けずに生きていますって。
『紫の姫の物語』 了
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