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『ペルシアン・ブルー16』

20 スメニアの章

「くそ、広いなあ、砂漠は」

 日除けの布を張った絨毯に乗っての捜索でさえ疲れ果て、サリールとあたしは、小さな無人のオアシスに舞い降りていた。

 ナイルからまっすぐ西へ飛び、大陸の端近くまで出てから、やや南下して東へ引き返す。ナイルにぶつかったら、少し南下して再び西へ。

 そんなことを、もう三度も繰り返しているのだ。

 それなのに、まだ魔王の存在を感知できない。

 あたしの力が衰えているのか。それとも、奴の隠れ方がうまいのか。あるいは単に、見当違いの場所から探し始めてしまっただけなのか。

「少し休養しましょう。一日や二日遅くなっても、魔王は待っててくれるわよ」

 サリールを先に水浴びさせることにして、あたしは、ささやかな泉のほとりで、彼に背中を向けて座り込む。

 男のくせに、あたしが見ていると恥ずかしがって脱がないのよ、このお坊っちゃまは。

 最初の日には、あたしが手ずから裸にむいて、きれいにしてあげたのにね。可愛いアレだったわよ、なんて、からかったのが悪かったかしら?

「しかし、あなたも頑張るわねえ……欲と二人連れ、か」

 小石を拾い、手の中で玩びながらあたしは言った。泉の中で躰をこすりながら、坊やは悟ったようなことを言う。

「ぼくの国は小さいんだ。北の部族にでも攻め込まれたら、ひとたまりもない。大国の王女が手に入るなら、何でもするさ。それで国の平和が守れるなら、安いもんだ」

「ご立派な覚悟だけど、好きでもない王女と結婚しても、面白くないんじゃない?」

 けれど、『あの人』と結ばれないのなら、あとは誰でも同じだ、と彼は思うらしい。サリールが夜、夢を見て、切なそうにつぶやく言葉から、あたしはおおよその事情を察していた。母上、というのは彼の生母のことではなく、父王が再婚した女性のことなのだ。

「王族の結婚は、神聖な義務だ」

 とサリールはあくまでも建前論で言う。

「そんなに愛してるんなら、いっそ、さらってしまえばいいのにねえ」

 あたしがつい口を滑らせると、水音が止まった。振り向くと、サリールは裸のまま凍りついている。

 ちょっとまずかったかな? 彼が何も言わないのに、個人的な事情に踏み込んだりして。

 けれど、こわばった顔のまま、サリールはあたしに裸の背中を向けた。もしかして、ようやく気づいたかしら? あたしの力を借りれば、王妃を奪うことも、国を拡大することもできるということに。

 それができるなら、そもそも、サリールが魔王と戦う必要すらないのだ。

 ま、でも、一つ目の願い事はもうしてしまったんだから、手遅れだけど……

 『三つの願い』というのは、あたしたちの一族が、人間たちと共存していくための知恵のようなもの。

 本当は、数を限る必要もないのだけれど、無制限に人間たちの頼みを聞いていると、いずれは欲望が肥大し、途方もない災厄を引き起こすことになってしまうから。過去に幾度も、そういう大失敗があったのだ。

 けれど、たった三つの願い事さえ、うまくできない人間が多い。自分に本当に必要なものは何なのか、当人にも、おそらくわかっていないからだ。

 やがて、深刻な顔の青年が水から上がって衣装をつけ直すと、次はあたしの番。

「見たかったら、見てもいいわよ」

 このあたしが、艶然と微笑んで着ているものを脱いでいくのに、

「誰がっ!!」

 と耳まで赤くして、棗椰子の木々の向こうで、そっぽを向いて座り込むところが、やっぱり坊やだわ。

 自分が優位に立って口説くのは得意でも、逆の立場でからかわれることには慣れていないのだろう。こんな可愛い子、あたしが義母の王妃だったら、即、いただいちゃうのにな。

 でも、あたしが鼻歌を歌いながら髪を洗っているうちに、彼の方から話しかけてきた。

「スメニア、もし、もしもだよ……」

 向こうを向いたまま、子供のように足元の砂をすくってはこぼしている。

「もし、もしも父上が寿命で亡くなって、義母上がひとり残されたら、その時は……」

「天下晴れて、お妃はあなたのものじゃない?」

 それが何年後のことかわからないし、その時まで、サリールの気持ちがもっと若い子に移ってなければだけど。

「そう、そうだよな。乱暴なことをしなくても、父上の天命を待てば……」

 何を思ったか、サリールは、こわばった顔でいきなり振り向いた。

「スメニア、もしかして、義母上の本当の気持ちがわかる魔法って、あるんじゃ……」

 そして、泉に半身を浸している、あたしの魅惑的な姿をまともに眺めてしまう。

 サリールは数秒、目をむいて硬直したかと思うと、はっとしたように顔をそむけ、慌てて岩の向こうに駆け込んでいった。遊び人とはいえ、やはり久しぶりの女の肌、刺激が強すぎたかしらねえ?

 まあ、魔王を片付けた後ならば、混血の子供を妊娠したっていいんだけど。ヤスミンが気にしなければ。

 そのヤスミンは、きっとあたしのように、どこかに封じられているはずだ。奴は、あれほど激烈に戦ったあたしを殺さなかったのだから、ヤスミンも殺していないはず。

 ただ、ヤスミンの気配はまだ、どこにも感じられない。魔王に出くわす前に、ヤスミンの居所を突き止められるといいのだけれど。

 ***

 翌日まで休んで、再び空に舞い上がってからすぐのことである。砂丘の続く地平線の彼方に、何かが蟻の行列のように見えてきた。盗賊や隊商にしては、大規模だ。

 向こうから発見されないよう、いったんあたしたちは地上に降りた。それから、あたしの水晶玉で拡大した映像を眺め、サリールが確認する。

「アフラ・マズダの紋章だ」

 ま、翼の紋章自体は、ペルシア人の発明じゃないけどね。どうやら、妹姫を探しにきた兄王子の一行らしい。以前にも一度、あたしは夜中に彼らの上を飛び越えている。それが、ようやくここまで来たのか。ご苦労さま。

 広大な砂漠に挑んで、かなり消耗しているようだけれど、それでも二千に近い立派な軍勢である。日中の日差しと夜の冷え込みを防ぐため、みな厚手の布を巻いたり、かぶったりしているけれど、その下の衣装や武具は、揃いの豪奢なペルシア様式だった。

 王子は都から精鋭をよりすぐって来たらしく、駱駝に乗った髭面の兵たちは、不平らしいも不平も言わず、整然と列をなしている。水や食料を運ぶ駱駝の行列も、かなりの長さに達している。

「自力でここまで来るなんて、なかなかやるじゃない」

 しかも、先頭の一団の中にいる王子らしき人物は、長い黒髪をゆるやかに後ろで束ねた、気品ある優雅な美形だった。それぞれ出身地の異なる部下たちに、彼らの言葉で話すことのできる教養もある。部下たちの態度からも、王子への信頼が厚いのがわかる。

「もうちょっとたくましいのがあたしの好みだけど、こういう理知的な男も悪くないわね」

 あたしがうっとり眺めているのに嫉妬したのか、サリールはぐいぐい、あたしの飾り帯を引っ張った。

「感心してないで、ぼくらも先を急ごう。兄王子に姫を助けられたんじゃ、こっちの計画がパアだ」

 よしよし、純情なんだか、計算高いんだかわからないけど、こいつも可愛い奴。

「大丈夫よ、この絨毯の方が早いに決まってるでしょ」

 あたしたちは再び空に舞い上がり、更に西を目指して旅を続けていった。

 ただし、いくら日除けを張った絨毯の上とはいえ、まったく、うんざりするような捜索活動である。天頂近くを通る太陽は残忍なまでに強烈で、大地は平らな礫砂漠だったり、赤みがかった褐色に波打つ砂砂漠だったりする。

 たまには黒っぽい岩山があって、干上がった涸れ谷や、氷原のように白く塩を積もらせた塩湖の跡も見られるけれど、あとはあくまで単調な砂と礫の荒れ地の繰り返しである。

 その茫漠とした光景に感動したのは最初のうちだけで、あとはもう、あたしの探知範囲におかしな気配が入ってこないかを、寝そべって待ち受けるのみ。

「嘘だろう、ここが昔、草原や森林だったなんて……それがどうして、こんなに干上がったんだ?」

「人間の仕業も一部にはあるけれど、この土地に限っては、もっと大きな気候の変動のせいよ」

 サリールは信じられない様子だったけど、おそらくこの世界は、大昔からそういう変動を繰り返してきたに違いない。土に埋まった巨大な竜の骨や、今の世にはいない奇怪な生物の化石を見れば、その変遷が納得できる。

 悲しいことだけれど、絶滅した太古の種族の痕跡を見ると、あたしたちの一族の滅びも、大きな運命の一部のような気がするのだ。

 昔、あたしが子供だった頃は、まだ多くの精霊がいた。森にも山にも豊かな〝気〟が満ちて、あたしたちの力は強かった。出会った人間たちはあたしたちを畏れ、敬って仲間に語り伝えたものだ。

 けれど今ではもう、あたしが仲間に会うことは珍しい。瓶に閉じ込められる前ですら、年とった仲間は次々と衰えて死に、新しい子供はなかなか生まれずにいた。

 このぶんでは、あたしは一族の最後の一人になるのかもしれない……ヤスミンを助けられない限り。

 ヤスミン、あの子がいてくれなくては、あたしは……

 生きる〝気〟がふと、体内から抜けていきそうになり、あたしはぶるっと震えた。

 いけない、いけない、不吉なことを考えだしてはいけない。あの子はきっと生きている。あたしが迎えに行くのを待っている。今度こそ魔王を倒して、あの子を取り戻す。

 その時、前方の砂の海から、覚えのあるいやな気配が伝わってきた。あたしは飛び起きて、砂の彼方に目をこらす。地平近くに、黒い稜線が見え始めていた。砂漠の中の山地だが、ただそれだけではない。

「感じるわ。あいつの結界よ」

「ええっ」

 絨毯に寝そべって冷えた麦酒を飲み、無花果をかじっていたサリールも、慌ててはね起きた。ようやく敵の根城を発見したようだけど、ここからが大変よ。

「このまま進むと、魔王に感知されるわ。あいつはたくさんの悪霊を集めて、手足のように使っているの。悪霊にはまともな思考はできないけれど、強い者の意志に従うことはできるのよ」

 あたしは赤茶色の砂丘群の間に絨毯を降下させ、徒歩で小山のような砂丘に登った。稜線手前で腹這いになり、山地の様子を水晶玉に拡大して映す。

 山々の数か所で、上空の空気がゆらめいていた。どうやら、かなり大きな炎が燃え上がっているらしい。

「火の山なのか」

 と隣でサリールが訊く。

「地脈の熱を感じないから、火山とは違うわ。でも、地下深くから、燃える油を導き上げているようね」

 やはり、この山地に魔王の住処があるのだ。火の帯に取り巻かれていては、中から逃げることも、外から侵入することも難しい。

 でも、そんな大袈裟な警戒をするなんて、逆に言うと、馬鹿なんじゃないかしら。どうせ周囲は大砂漠。魔王自身にも、怖いものなんかないはずなのに。

 それともこれは、自己満足のための砦ごっこなのかしら。

 そもそも、ナイルの西まで来い、と人間たちに宣言すること自体、自信過剰なのか、それとも自滅願望なのか。あいつがヤスミンをさらったのも、あたしを怒らせ、戦わせるためだったのなら……

 横から、サリールがあたしをせっついた。

「結界とやらは、迂回できないのか? 上空を飛び越えるとか、地面に潜って通り抜けるとか」

「たぶん、結界は地上部分を包む半球よ。地中を潜って進むのは厄介だし……いったん結界の内部に入ってしまえば、あとは静かに動く限り、大丈夫だと思うんだけど……」

 あ、いいこと考えた。

「兄王子の軍勢よ。彼らは三日も待てば、ここまで来るわ」

「なるほど、軍隊を隠れ蓑にするわけか」

 魔王は当然、軍隊の接近を知り、どこかで妨害をかけてくるだろうけれど、あたしの存在さえ感知されなければいいのだ。魔王が人間たちを相手にしている隙に、あたしはヤスミンを探せばいい。

 ***

 砂山の地下に穴を掘り、涼しい地下室をこしらえて、静かに待つこと三日。ようやく、ペルシアの軍勢が近づいてきた。

 アルタクシャスラ王子は、かなりの妹思いとみえる。賞金で釣った猛者どもに任せきりにせず、自らここまで進軍してくるんだから、上出来よ。

 もしも、彼らが途中で方向を変えたり、あきらめて引き返したりするような時は、あたしが鳥でも飛ばして『天のお告げ』を演出してやろうと思っていたけれど。王子と側近たちの会話を密かに聞いて、あたしは驚いた。

「ようやく着いたようだな。今日のうちに、麓まで行ければいいが」

「近くに見えても、意外と距離があるものです。どうか、お焦りになりませんように。姫はきっと、ご無事ですから」

「うむ、わかっている。だが、今日まで、魔物が姿を見せないのも不気味だな」

 それじゃ、彼らは最初からまっすぐ、この山地を目指していたの? 何か手掛かりがあったわけ?

 うーん、だとしたら、力任せの無駄な捜索をしてきたあたしは、ただの馬鹿なのかしら。

 まんざら、自覚がないわけでもない。ヤスミンにも、よく言われてきた。体当たりしてから後悔するのではなく、動く前に考えなさいって……三百年前も、魔王の弱点を研究してから戦えばよかったのだ。元が人間なら、魔力の使い方には習熟していないはずなのだから。

 とにかく、あたしはサリール共々、汚れた布を頭から巻いて、ペルシア兵と似たような格好をした。それから、昼の休憩を終えて動き出した隊列の真ん中あたりに、うまく入り込む。周辺の兵たちには軽い目くらましをかけ、予備の駱駝を拝借したので、誰もあたしとサリールを疑わない。

 ところが、いくらも進まないうち、山地を囲む結界のあたりで、危険な〝気〟の凝集を感じた。

「まずい」

 周囲の砂漠に、不自然な力の流れが生じ始めている。空は青く晴れて何の変化もないけれど、砂丘の表層を低く風が撫で、細かな砂粒がパラパラと躰にぶつかってくる――山地を囲む結界がほどけ、こちらに向かって動きだしているではないか!!

「どうした、スメニア」

 サリールは不思議そうにあたしを振り向いたけれど、じきに、人間たちも異変を感じるだろう。魔王の力だ。照りつける太陽の熱や自然の地形をうまく利用して、一定の空気の流れを作り出している!!

「王子、砂嵐が来ます!!」

 最初の突風と共に駱駝が脅えて隊列を乱し、砂漠慣れしている兵が警告の叫びをあげた。並みの砂嵐ではないと悟ったアルタクシャスラ王子も、素早い命令を下す。

「綱を出して、駱駝を二重につなげ!! 足りなければ布を裂け!! 駱駝だけでなく、互いの躰もしっかりつなぐんだ!! 急げ、本隊からはぐれたら砂に埋まって死ぬぞ!!」

 訓練された兵たちは機敏に動いたけれど、その作業が終りきらないうち、周囲に黒々とした砂の壁が立ち上がった。思わず恐怖のどよめきが上がるのを、王子が叱咤する。

「布で顔を隠せ!! 目を開けるな、伏せて駱駝にしがみつけ!!」

 あたしとサリールも、互いの胴を綱で結んだ。

「魔王の砂嵐の中ではあたしの力は使えないから、何かあってもあなたを助けてあげられない。いいこと、自分の力で耐えるのよ!!」

 けれど、その語尾を言い切らないうち、滝のような砂に襲われて、会話は不可能になった。

 サリールは慌てて駱駝の間に身を伏せ、あたしもすぐ傍にしゃがみこんだけれど、風の渦に巻き込まれた瞬間、息が止まり、全ての感覚が遮断されてしまう。目も耳も鼻も砂にふさがれ、窒息しそうな恐怖に襲われながら、頭から布をかぶって耐えるしかない。

 ――ええい、あたし一人のことなら、香水瓶に飛び込んで、内側から蓋をすればしのげるのにっ!! 

 とはいえ、そこをもし奴にみつかったらと思うと、恐ろしくて瓶に籠もる気はしないのだけれど。

 太陽の光は砂の壁に遮られてもはや届かず、暗闇の底にすさまじい風が荒れ狂った。砂と風圧で呼吸ができず、みるまに腰まで埋まっていく。時々身動きしないと、砂の重みでそのまま埋葬されてしまう。

 砂漠生まれの兵や駱駝にとってさえ、こんな砂嵐は初めてだろう。人も動物も互いに寄り添い、じっと身を低めてただ耐えるしかない。

 けれど、耐えきれればこちらの勝ちだ、とあたしは思っていた。いくら魔王でも、無限にこの嵐を維持できるはずはない。兵たちの何十人かは砂に埋められ、窒息して死ぬかもしれないが、部隊そのものが壊滅することはないだろう。

 ところが、あたしの考えはまだ甘かった。不規則に巻いていた風が一つの方向に集まり始めたと思ったら、そこに巨大な竜巻が出現したのである。

 ただでさえ凄まじい風だから、伏せている兵たちはまだ気がつかないけれど、竜巻は激しく砂を巻き上げながら、間違いなくこちらに近づいてくる。あれに吸い上げられたら、(あたし以外は)誰も助からない!!

 あたしは砂の下に細く素早い〝気〟を這わせ、数十個所で駱駝や兵たちをつなぐ縄に切れ目を入れ、あるいは結び目をほどいた。

 こうなったら、固まっているより、ばらばらに逃げた方がいい。一人でも多く、竜巻の進路から逃してやらなくては。


   『ペルシアン・ブルー17』に続く

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