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恋愛SF小説『レディランサー アグライア編』4

8章 ジュン

 あたしはセンタービル内の、特別階の客室にいた。部外者は立ち入りできない、警備厳重な上層階の一角である。

 書斎と居間と食堂と寝室が揃った、豪華な続き部屋だ。あちこちに新鮮な花が飾られ、制服を着たアンドロイド侍女が何体も控えていた。その食堂の大テーブルに料理を並べて、夕食にかかっているところ。

 ユージンとカティさんも同席していた。あたしの第二秘書になった黒髪の美女、メリッサもいる。本当は第一秘書の予定だったのだけれど、あたしが先に、カティさんを秘書に採用してしまったから、

『わたくしは、第二で結構です』

 ということになったわけ。もちろん、カティさんは違法組織の内部事情なんか何も知らないから、実質、メリュジーヌにあたしの補佐を命じられたメリッサが、首席秘書ということになる。

 つまり、あたしの監視役。もしかしたら、あたしを抹殺する役も務めるかもしれない。

 ユージンは自分の組織を運営する傍ら、あたしの相談役を務めてくれるそうだ。まったく、あれよあれよという間に、大変なことになってしまって。

 あたしは撮影用の真っ赤なドレススーツを脱ぎ、慣れない宝石類を外し、もっと落ち着く、白シャツとオリーブ色のスパッツに着替えていた。

 これからは、人前に出る時はばっちり着飾れと、メリュジーヌに言われている。あたしは都市の広告塔になるのだから、

『ほら、ジュン・ヤザキだぜ』

 と、すぐにわかる格好でいなければならないというのだ。

『素材がいいから、飾り甲斐があります』

 とメリッサは喜んでいる。

 メリュジーヌ自身、いつも華麗なドレス姿でいるのは、『職務の一つ』なのだそうだ。

『女の場合、見た目の華麗さで相手を圧倒するのも、勝負のうちなのよ』

 と言われた。あたしの場合、下手に着飾ると、ピエロになってしまう気がするんですけど。

 というより、それ以前に、中身が問題でしょう。人に畏怖されるような中身を持っていなければ、ただのお飾りで終わってしまう。

「明日から早速、勉強しなきゃ。都市経営って、何をすればいいのか、わからないもん」

 生ハムとハーブとラディッシュのサラダを食べながら、思いつくままにしゃべった。輸送船の業務なら、一通りわかるんだけど。

「まずは、現場の視察かな。メリッサ、手配してよね。ここに拠点を置いてる組織のことも、調べなきゃ。何かリストがあるんでしょ?」

 するとユージンは、第三者の冷淡さで言う。

「焦る必要はない。誰が総督になろうと、各部署は、いつも通りの日常業務を続けている。きみが焦ってあれこれ命じると、現場が混乱するだけだ。まずは三か月、勉強期間のつもりでいればいい」

 うーん、そんな悠長な態度でいいのかな。

 だって、こうしている今も、繁華街のビルでは、バイオロイドの女たちが娼婦として働かされているはず。もし、総督の権限でそういう商売をやめさせられるなら、一日でも早い方がいい。

 けれどユージンは、あたしを暴走させないために、傍にいるらしい。ビーフステーキの皿を前に、パンをちぎりながら、淡々と言う。

「辺境はもう何百年も、何でもありの無法地帯として続いてきたんだ。きみが青臭い理想主義で何とかしようとしても、巨大な慣性を持つ流れは、すぐには変えられない。焦ると、きみが潮流に流されて、消滅してしまうぞ。まずはどっしり構えて、岩になれ」

 そんなこと言われても。人の上に立つなんて、どうしていいかわからなくて、落ち着かない。

 ああもう、《エオス》が恋しい。あそこではジェイクやルークやエイジが、あたしを子供扱いしてくれた。何をするべきか、何をしたらいけないか、指図してくれた。まずいことをしたら、頭をごつんとやって叱ってくれた。

 それって、何て有り難いことだったんだろう。

 それにまた、親父やバシムが背景で、どっしり構えていてくれたから、あたしは好きに跳ね回ったり、文句をつけたり、愚痴を言ったりすることができた。

 まだまだ、そうして甘えていられると思っていたのに。まさか、いきなり、こんな地位に据えられてしまうなんて。

(エディ、助けて)

(ジェイク、傍に来て)

(バシム、どうしたらいいの)

と、つい思ってしまう自分を、自分で叱りつける。

(とんでもないよ。みんなを、違法都市に呼ぼうなんて)

 みんなは親父の側にいて、《エオス》を飛ばすのが仕事だ。親父が賞金首でなくなっても、辺境航路では何が起こるかわからないのだから。

 悩みながらも、出された料理は平らげた。一流のシェフがいるのだろう、前菜からデザートまで、たっぷり堪能できた。それでも、いずれは、エディの手料理が恋しくなるだろうけれど。

 デミタスのコーヒーを味わいながら、メリッサの説明に耳を傾ける。

「毎朝、わたくしがお迎えに上がります。ジュンさまは朝食の間に、一日の予定を確認なさって下さい。わからないことは何でも、わたくしにお尋ねを」

 カティさんも、メリッサからあれこれ、秘書の業務を学べるだろう。

「明日は、デザイナーとスタイリストを呼んであります。午前中、衣装のお仕立てをなさって下さい。基本的な衣類は揃えてありますが、人前に出る時のドレスやスーツ類については、ジュンさまも、ご自分のお好みをおっしゃって下さいな。午後の予定は、昼食時に決めて下さればよいでしょう」

 とりあえず、今夜のところは、ぐっすり眠るとするか。心配はまた明日、起きてからにしよう。

   ***

 ところが、みんなと別れて寝室で横になっても、なかなか眠れなかった。あたしはたくましい性格だと、自分で思っていたけれど、さすがに、神経が張り詰めているらしい。

 だって、五十万人が住む都市の最高責任者。

 おまけに、あたしが決めたことが、そのまま法になる。それが適切な法でなければ、みんな、この都市を見捨てて出ていく。改革どころではない。あたしは総督失格になり、最高幹部会に処分されてしまう。

 あたしの人生、あとどのくらい残っているの? 半年? 一年?

 暗い寝室に一人でいると、どんどん考えが暗くなっていく。

 もう二度と、親父にも、みんなにも会えないんだ。親父があたしを取り戻したくても、何もできない。軍と司法局が親父を囲い込んで、しばらくは、どこへも出さないはずだ。エディもジェイクも、ルークもエイジも、あたしを助けてはくれない。

 あたし一人で、何ができるの。ユージンだって、メリッサだって、上に命じられてやむなく、あたしに付き添っているだけだ。カティさんは、あたし以上に頼りない身の上だし。

 だめだ。眠れない。

 あたしはベッドから起き出し、薄手の部屋着の上に、丈の長いカーディガンをひっかけた。通路に出てみると、外にはアンドロイド兵士が二体、門番のように立っていて、あたしに敬礼した。あたしを部屋に押し戻そうとはしない。

「ちょっと、散歩するよ」

 と言ってみた。すると、

「どうぞ。お供します」

 という返事。特別階の中なら、一人で歩いても危険はないと、メリッサに言われているんだけど。兵たちは、黙って後ろから付いてくる。まあ、気にしなければいいのだろう。

 高い天井を持つ通路は、古城のように荘厳で、しんとしていた。あちこちに手頃なラウンジがあり、花や彫刻が飾ってある。カティさんの部屋も、ユージンの部屋も近くにあった。護衛兵が、そう教えてくれたのだ。その他にも、無人の部屋が幾つもある。

 噴水と女神像のあるエレベーターホールに出て、ビル全体の案内図を見てみた。地階は駐車場や倉庫。下層階には誰でも利用できるカフェテラス、レストラン、会議場。警備兵の詰所や事務エリアなどもある。

 モニターで見てみたら、夜中近い時刻でも、ビル内にはかなりの利用客がいた。駐車場から上がってくる人。食事に向かう人。会合を終えた人。制服を着たアンドロイドの警備兵が、ゆったりと巡回している。従業員用の出入り口では、帰宅する者、出勤する者がすれ違う。

 あたしは大抵、連邦標準時で暮らしているけれど、そうでない人たちもいるということだ。あらゆる施設は、無休で稼働している様子。

 中層には、センタービルを運営するスタッフのオフィス区画と、外来者のためのホテル区画。ホテルには会議室やパーティ会場やスポーツジムなどもある。警備部隊の本部もここだ。この中層階の施設を利用できるのは、〝連合〟の加盟組織の中でも、中規模以上の組織のメンバーのみと聞いた。

 そして、この上層階については、何の表示もない。きっと、市民社会のどこよりも安全だ。おかしな気分。違法都市の中にいて、最も厳重に守られているなんて。

「総督閣下」

 慣れない称号で呼ばれて、振り向いた。制服を着たアンドロイド侍女が、灰色の顔であたしを見ている。

「メリュジーヌさまが、よろしければどうぞと、おしゃっています」

 彼女も、このビルにいるのか。他にすることもないので、侍女に付いていったら、すぐ上の階にある豪華な客室に案内された。それでも、あたしの部屋と同ランクだ。あたしって、すごい待遇を受けている。まともに考えたら、足が震えてくるくらい。

 あたしに付いてきた護衛兵たちは、部屋の外で待つ態勢になった。あたしだけ、侍女に付いて室内に入る。白い壁、白い家具、大理石のような灰白色の床。飾られている花だけ、赤い。

「眠れないらしいわね」

 白いソファにもたれているメリュジーヌは、化粧こそ落としていたけれど、ふわふわの襟がついた銀白色の部屋着を着ていた。素足で、華奢なサンダルをひっかけている。やはり、足の爪まで完璧だ。画家が見たら、さっそく下絵を描き始めるに違いない。

「ここに泊まっていたとは、知らなかった。普段は、どこか他所にいるんでしょ」

 誰も知らない安全な場所に。

「あなたが落ち着くまで、何日かは、近くにいてあげようと思ってね」

 へえ。

「光栄です。お忙しい大幹部に、そんな気遣いをしていただくなんて」

 あたしは皮肉で言ったのに、向こうはまともに答える。

「世界が注目している、大抜擢ですからね。あなたには、成功してもらわないと」

 ふうん。あたしが失敗したら、メリュジーヌの失点になるらしい。そうしたら、他の大幹部が喜ぶのか。

「おかけなさい。何か飲むといいわ」

「じゃあ、ホットミルクもらっていい? お砂糖とバニラエッセンス入りで」

 メリュジーヌは灰色の瞳で、珍しい実験動物でも見るように、あたしを見た。

「お酒を注文するとは思わなかったけれど、そこまでわかりやすく、お子様だなんてね」

 ミルクが悪いとは、少しも思わなかったけどな。

「どうせ子供だし。お酒は十八になるまで飲まないって、親父と約束してるから」

そ の約束が効力を失うまで、あと一年足らず。それまでは、親父の元で守られているはずだった。ううん、あたしが親父を守るつもりで、《エオス》に乗ったんだけど。

 やっぱり、あたしは寂しかったんだ。どんな理屈をつけてでも、親父と一緒にいたかった。それが子供ということなら、まだしばらく、子供のままでよかったのに。

 十四か十五の頃は、早く十八歳になりたかった。そうしたら、世間でも大人として扱ってもらえると思って。でも、その年齢が迫ってきたら、自分にはまだ、そんな覚悟ができていないのだとわかる。大人になるってことは……自由になれて嬉しいなんてことじゃなく、責任の重さに震え上がるってことなんだ。

 白い肌の美女は、ふっと笑った。

「じゃあ、お酒はわたしだけね」

 向かい合ってソファに座ると、アンドロイド侍女があたしにホットミルクを、メリュジーヌには綺麗な色のカクテルを運んできた。

「乾杯しましょう」

 と言われたので、一応、湯気のたつマグカップを掲げてみせる。

「何に乾杯?」

「わたしは、この抜擢の成功を願うわ。あなたは、好きなものに乾杯なさい」

「じゃあ、カティさんが、望みのものを手に入れられるように願う」

 まだじっくり聞く暇がなかったけれど、どうやら彼女の望みは、妹と共に消えた男――アレン・ジェンセンに再会することらしい。妹から奪い返すつもりなのかどうかは、まだわからない。

 あの弱気な態度からすると、それは望みが薄いように思える。同級生の証言によれば、アンヌ・マリーはしたたかな女で、おとなしい優等生の姉から、強引に恋人を奪い取ったらしいから。

 まあ、そのくらいでなければ、辺境で生き延びることはできないよね。むしろ、カティさんが辺境に出てきたことの方が驚きだ。

「なぜ、彼女を秘書にしたの?」

 とメリュジーヌに尋ねられた。カクテルグラスを持ってソファにもたれる姿、地球時代の古典絵画のようだ。写真に撮っておかないと、勿体ないくらい。

「頼りなくて、放っておけないから。せめて、あたしの視野にいてもらおうと思って」

「ずいぶんお人好しね」

「そうでもない。これから辺境で会う人間よりも、カティさんの方がまともだろうと思うだけ」

 総督の仕事にしろ、改革にしろ、一人ではできない。あたしには、仲間が必要だ。

 お人好しという言葉で思い返すのは……エディのこと。頼むから、無理はしないで。おとなしく、中央にいてよ。エディに何かあったら、あたし、エディのお母さんやお姉さんに、言い訳のしようがない。

 表面上、エディを勘当したお父さんだって、本当は誰よりエディのことを心配している。息子が《エオス》で居場所を築いたことを、喜んでくれているのだ。お父さんと交流があることは、エディに内緒のままだけれど。

「まあ、好きにすればいいわ。誰を部下にしようと、あなたの裁量ですからね。あなたがこの都市を繁栄させている限り、文句はないわ」

「その繁栄の意味は、人口が増えるという意味なの? それとも、金儲けすること?」

「それは、あなたが考えることよ。自分の判断でおやりなさい。どんな手腕を見せてくれるか、楽しみにしているわ」

 カクテルグラスの向こうから、からかう態度で言われ、猛然と反発心が湧いた。

 絶対、成功してやる。この女を驚かせるくらい。どんな成功かは、まだよくわからないけど。

「ああ、そうそう。中央から、人材を呼び寄せてもいいのよ。たとえば、《エオス》のお仲間とか」

 ぎくりとした。それは、あたしが自分で封印したつもりの願いだ。

「呼ばないよ」

 とだけ無愛想に答えた。あたしが呼べば、たぶんエディは来てくれる。だからこそ。

「そう? 別にいいけど。でも、あなたの本命って誰なの?」

「本命?」

 質問の意味がわからなかった。わからなかったことが、メリュジーヌに何かをわからせたかもしれない。

 白い妖女は、重ねて尋ねてくる。

「一番好きな男は誰なのか、ということよ」

 唖然としたのが先だ。なぜ、そんなことを訊く。あたしの弱みを握りたいのか。それにしたって、的外れだ。恋愛なんて――あたしの人生では、常に後回しになってきた。戦って親父を守る、あるいは自分が生き残ることが先決だった。ふわふわしているゆとりなんか、ない。

「そんなに暇な生活じゃなかった」

 それで通るはずだ。しかし、メリュジーヌは目を細め、何かを探ろうとしている。

「あら、そう。世間では、金髪の坊やと結婚するように思われているじゃない? それは誤解なの? 誤解なら、なぜ訂正しないの?」

 なぜ、そんなことを確かめたいのだ。暇な人とも思えないのに。

「そういうことにしておけば、あたしもエディも助かるんだ。余計な雑音が減るし、エディがあたしを護衛しやすくなる」

「それじゃ、彼の愛情を都合よく利用しているのね」

 それがそもそも、誤解なんだけど!!

 でも、あたしが反論しようとしているうち、メリュジーヌは続けて言う。

「じゃあ、ティエンはどうなのかしら? 彼はあなたのために、父親を裏切ったのよね。甘やかされてきた箱入り息子なのに、無一文になって、一から出直したのは、たいしたものだわ」

 驚いた。あたしに関わることは、全て把握しているらしい。まさか、アイリスのことは知られていないだろうな。

「ティエンは無事でいるの? あたしが彼と連絡を取ること、できる?」

「もちろん。いつでもどうぞ。今は苦労して、自分の組織を育てているわ。彼をここに呼んだっていいのよ」

 それなら、よかった。明日にでも組織名を調べ、通話してみよう。乱戦の中で別れてそれっきりだったから。気になってはいたんだけど、自分のことで手一杯で。

 しかしメリュジーヌは、勝手に何か納得している。

「そうなの。彼でもないのね。じゃあ、誰かしら」

 不安がふくらんできた。この女、あたしの弱点を知って、今のうちに押さえておきたいのか。

「そんなこと、都市経営に関係ないでしょう」

「そうでもないわ。あなたの私生活も、必ず世間に注目されるもの。あとは……それらしい男性というと……友達のリエラのお兄さん……空手道場の先輩……でも、彼らとはもう長いこと接触がない……」

 子供時代の軽い憧れまで、既に発掘されているのだ。メリュジーヌは、あたしが忘れていることまで、知っているのかもしれない。

「あたし、誰にも恋愛感情なんて持ってないから」

「それなら、これから持つかもしれないわね……肉体だけの関係もありうるでしょう?」

「まさか!!」

「あら、一生、処女でいるつもり?」

 面白そうに問われ、つい、屈辱で顔が熱くなる。あたし、痛烈に馬鹿にされているんじゃないだろうか。いや、退屈しのぎに、からかわれている?

「あたしが総督の役目を果たせる限り、個人的事情はどうでもいいでしょう」

 平静に言い返したつもりだけれど、向こうはそもそも、あたしの言うことなんか気にしていない。

「ナイジェルという男は? いい男じゃない? そそられなかった?」

 これには、苦笑してしまう。調査が行き届いているんだか、間違った情報で納得されているんだか。

「彼はずっと、エディに片思いしているからね。あたしはただ、ナイジェルにエディと触れ合う機会を作ってあげただけ」

 しかし、ナイジェルの側の事情は、メリュジーヌにはどうでもいいらしい。

「だからって、あなたが片思いする邪魔にはならないわ」

 何なんだ。そんなに、あたしに恋愛させたいのか。

「あのね、あなたは恋多き女なのかもしれないけど、世の中には、恋愛体質じゃない人間もいるんだよ」

「つまらない人生ね。戦うことしか考えないなんて」

 驚くというより、呆れた。これが、違法組織の大幹部の台詞か。

「自分こそ、戦い抜いて、今に至ってるんじゃないの?」

「いいえ。戦いに気を取られて、人との関わりを避けていたら、それこそ生き残れないわ。生きるためには、友情も愛情も必要なのよ」

 ずいぶん、意外なことを言うではないか。

「あなたには、友達や恋人がいるっていうの?」

 白い妖女は、甘い唇に笑みを浮かべる。

「いないと思うの? わたしが毎日、孤独な私生活を送っているとでも?」

 ええい、苛々してきたな。なんで、夜中にこんな話になっているんだ。

 あたしだって、考えたことはある。もしもエディと、本当の恋人同士になったらと。それはそれで、きっと楽しいことだろう。ナイジェルも言っていた。等分に愛し返せなくていい。きみはただ、エディに愛させてやればいいんだ、と。

 でも、もしエディを死なせることになったら、その時の後悔は、

(熱烈に愛しているわけじゃないのに、楽だからと甘えてしまった結果……)

 ということになる。あまりにも卑劣ではないか。そんなことになるくらいなら、エディが遠くであたしと無関係に、幸せに生きてくれている方が、ずっといい。

 ところが、メリュジーヌはさらりと言う。

「わかったわ。恋愛からは、逃げてきたのね。あるいは、感受性が未発達なのね。いつまでも、パパの懐でぬくぬくしていたかったんだわ」

 おい。

 喧嘩を売りたいのか。

「あたしだって……」

 言いかけて、言葉を飲み込んだ。これまで黙って我慢してきたことを、こんな場面でぶちまけたくはない。

 それに、あたしはささやかな片思いを、それほど苦労せず封印してきた。それはつまり、封印してしまえる程度の、淡い気持ちに過ぎなかったということだ。いつでも、他の心配事の方が大きかった。母の見舞い。勉強。修業。仕事。幾つもの事件。

 それにまた、エディが《エオス》に来てからは、毎日、気が紛れていた。エディに気にかけてもらうことは、とても嬉しいことだったから。あのまま《エオス》にいられたら、それで充分に幸せだったろう……いつかジェイクが、誰かと結婚する日が来ても。

「あたしだって、これから大恋愛するかもしれない」

 と言い直したら、メリュジーヌはもう、この話題には興味を失ったように言う。

「まあいいわ。世間の話題になることなら、大恋愛でも大喧嘩でも、何でもいいのよ。なるだけ、注目を集めることだわ」

 え。

 なんか、思いっきり肩透かしをくらった感じ。ただの話題作り、という意味だったのか。

「あなたは〝連合〟の新しい広告塔なんだから、間違っても、寝ぼけ眼のぼさぼさ髪で、人前に出たりしないようにね。そんな姿を撮影されたら、あなたが一生、恥ずかしい思いをすることになるのよ」

 妙な感じだ。何だか、親戚の伯母さんから、人生の知恵を授けられているみたい。

「あなたはお母さんを早くに亡くしているから、女の知恵を、十分に伝授されていないのよね。まあ、マリカも辺境生まれだから、市民社会の常識を学ぶには、苦労したでしょうけど」

 むっときた。知ったようなことを。ママを実験材料にしていたのは、誰だ。ママは好きで、戦闘用兵器に生まれたわけじゃない。

 あたしの反発を見てとり、メリュジーヌは面白そうに微笑んだ。

「あなたが辺境で地位を固めれば、可哀想な実験体や、バイオロイドたちを助けてやることも、できるかもしれないでしょう。まあ、頑張ってみることね」

 頑張りますとも!! やるからには、とことんやってやる!!

 その結果が、こいつらの意図に反していたとしても。

 いや、反していなければ、あたしの失敗なんだけど。

 メリュジーヌは、カクテルのお替わりを注文してから言った。

「ジュン、あなた、自分が初めて人を殺した時のこと、覚えてる?」

 あれ、何だろう、その話題の選び方。

「……覚えてるよ。別に、思い出したくないけど」

 あれは確か、十一歳の時。友達のキャサリンの祖父母が、あたしを誘拐しようとした。学校帰り、うちに遊びにいらっしゃいと誘って、あたしをキャサリンと一緒に車に乗せたのだ。

 もちろん、当時のあたしにも司法局の護衛は付いていた。彼らは、すぐ後ろから車で付いてきた。それで十分だと判断して。

 ところが、その祖父母の乗った車内には、あたしとキャサリンそっくりの有機体アンドロイドが隠してあった。あたしとキャサリンは麻酔を打たれ、服をはがされ、下着姿で、車内の隠し場所に押し込められたのだ。

 キャサリンの家に着くと、彼女の祖父母は、偽物の少女二人を連れて家に入った。護衛たちも、そちらに同行した。本物でないことが悟られるまで、数時間は稼げる。運が良ければ、お泊まりということにして、翌朝まで大丈夫だという計算。

 その間に、あたしたちを積んだ車は共犯者に回収され、キャサリンは別にされて(祖父母は、可愛い孫娘に危害を加えるつもりはなかった。ことが発覚する前に、自分たち二人だけ、別ルートでうまく脱出するつもりでいたらしい)、あたしだけ、貨物コンテナに積み替えられ、《キュテーラ》から出航する船に乗せられた。

 あたしを救ったのは、犯人たちの予定より少しだけ早く、目を覚ましたことだ。真っ暗な中で目覚めて、緩衝シートに巻かれていることに気付いた時は、パニックを起こしそうになった。

 狭い、暗い、出られない!!

 でも、すぐに事態を理解して、覚悟を決めた。母から教わっていたことが、役に立った。

『ジュン、もしも誘拐されたら、おとなしくして、犯人たちの隙を探すのよ。隙がなければ、助けが来るまで、じっと我慢するの。きっと誰かが、助けに行きますからね。誰も行かなくても、わたしが行きます』

 あたしは静かに耐えた。助けが来ることは、あまり期待していなかった。軍も司法局も、辺境では頼りにできないと知っていたから。

――いまに見てろ。ふざけやがって。

 怒りがあれば、恐怖は後回しになる。こういう時のために、空手の稽古を積んできたのではないか。あたしは目を閉じ、ただひたすら、犯人たちを倒すことを想像し続けた。大人でも、倒せるはずだ。隙さえ掴めれば。

 緩衝シートの中で、可能な限りもぞもぞと身動きして、肉体の回復を図った。そして、コンテナから出された時は、ぐったりと意識がないふりをして、耳を澄ませていた。話し声、足音、空間の広さ。ここにいるのは、大人二人だけらしい。

 あたしは船室に運ばれ、緩衝シートを外され、ベッドに寝かされた。あたしを運んできた男が、あたしに毛布をかぶせ、背中を向けて立ち去ろうとした時。

 素早く起き上がって(少しはよろけたとしても)、毛布をそいつの頭にかぶせた。そいつが視界を取り戻そうとした隙に、急所に蹴りを入れた。そいつがバランスを崩して倒れたところで、顔面に打撃を加えた。全力で。

 子供のあたしがどうして、大人に対する手加減など、考える必要がある!?

 船の警備システムが警報を発して、もう一人が駆けてきた。でも、その時にはあたしは、倒した男の銃を奪っていた。そして、その銃は特にロックされていなかった。

 ――この事件は内密に処理されたから、関係者以外、誰も知らない。いたいけな少女が、大の男を二人も殺したなんてことは。

 あたしの行為は正当防衛とみなされ、咎められなかったが、軍も司法局も最高議会の司法委員会も、さすがに、この件を公表することは避けた。あたしの将来に、悪影響を及ぼさないようにと。

 あたし個人としては、事実を公表したところで、何も問題ないと思っていたのだが。

 いや、油断のならない子供だと知られたら、やはり問題だったな。子供のうちは、子供とみなされることが命を救う。

 学校でキャサリンと再会した時、彼女は曇り顔であたしに何か言おうとしたが、あたしは身振りで遮った。何も言わなくていい、という気持ちを込めて。キャサリンが悪いのではない。彼女は何も知らず、巻き込まれただけ。あたしたちは、友達のままでいい。

 彼女の祖父母は、実行に関与した違法組織を通じて、グリフィンから援助を得ていたと思うけれど。

 彼らは別の船で、辺境のどこかへ逃亡しおおせたらしいが、あたしの誘拐には失敗したのだから、何の利益も得られず、あまり愉快な目には遭わなかっただろうと思う。

 それから間もなく、キャサリンの一家は遠くへ引っ越していった。今後、一切のお気遣いは無用と、キャサリンの両親が、うちの両親に挨拶をしていった。以来、交流は途絶えたまま。

 それで、あたしはじきに、その事件を忘れた。他のことも全て、後回しになった。母の容体が、どんどん悪化していったからだ。

 メリュジーヌは、その件もちゃんと知っていた。そして、よくやった、と誉めてくれたのだ。

「あなたは母親から、戦う精神を受け継いでいるのよね。市民社会より、辺境で暮らす方が向いているわ」

 その評価を、素直に喜ぶべきかどうかは、わからない。とにかく、それ以来、最高幹部会は、あたしに期待していたそうだ。市民社会の枠を超えそうな人材として。

「グリフィンが、犯人たちの行動を追尾していたわ。あなたが二人を殺した後で、そのまま拉致することは可能だったのよ。船の制御は、グリフィンの手にあったのだから」

 いま思うと、そういうことだったのだろうな。

「でも彼は、あなたを解放して、もっと大きくなるまで、成長を見守るべきだと考えたの。だから、あなたが救援発信するのを止めなかった」

 では、グリフィンというのは男なのか。それとも、たまたま男が、その役職にいたということなのか。

「それじゃあ、グリフィンにお礼を言うべきなのかな。あたしが誘拐されることを知っていて、見守るだけにしてくれて」

 と皮肉で言った。

「もちろん、あなたの生命に危険が及ばないと、判断した上でのことよ」

 幼いあたしが感じた恐怖は、問題ではないんだろう、もちろん。それ以後、ますます攻撃的な性格になったとしても。

「それからグリフィンは、あなた個人に監視チームを付けたわ。ヤザキ船長の専従チームとは別にね」

「それじゃあ、まるであたしが重要人物みたい」

 笑いそうになって、笑えないと気づいた。少なくともあたしは、周到に準備された上で大きな役を与えられ、舞台に上げられたのだ。この役を、命がけで演じるしかないということが、ひとひしと感じられるようになってきた。期待イコール重圧だ。

「あなたの成長ぶりは、定期的に、最高幹部会で報告されていたのよ。単位を取りまくって、人より早く学校を卒業したとか。見習いとして乗った《エオス》で、どんな風に過ごしているとか。そうそう、お見合い騒動もあったわね。だから、あなたを迎えた時は、初めましてよりも、お帰りなさい、という感じだったわね」

 冗談みたいだ。辺境の大物たちが、あたしが空手の試合に出たとか、パイロットライセンスの試験を受けたとか、話題にしていたなんて。

 それではまるで……普通の人間の集まりのようではないか。

 辺境で暮らす何十億もの人間たちの頂点に立つからには、人間らしい情緒は、最小限まで切り捨てているのだろうと思っていた。都合の悪い人間は、洗脳したり、人工脳に取り替えて人形化したりする、と聞いている。

 でも、その中の一人が、こうしてのんびり、差し向かいであたしと話をしている。あたかも、普通の女性であるかのように。

 それとも、これは超越体の操る端末で、本体は、同時に無数の人形を操っているのだろうか。人間であるあたしを油断させるために、人間のふりをしてみせているだけ?

「そういうわけで、あなたが《タリス》でどんな経験をしたかも、おおよそわかっているわ」

 メリュジーヌの言葉に、ぎょっとして身を引いてしまった。

 まさか。エディとの間でだけしか、口に出さなかった秘密さえも!?

「中小組織の動向は、だいたい正確に、上の組織に掴まれているものよ。そのための〝系列〟だもの。シドはアイリスに乗っ取られ、彼の組織は、以来、密かに勢力を拡大している」

 うわ。本当に知っているんだ。どうしよう。ていうか、もう、慌てても意味がない。ある意味、気楽になったと言えるかも。

「アイリスに取り込まれた者たちには、それぞれ追跡が付いているわ。今はまだ数万人規模だから、追跡できる。必要があれば、抹殺もできる。あなたの相棒のエディにアイリスの細胞が入っていることも、知っているわ。いまのところ、大きな異変はないようだけれど」

 あたしはしばし、言葉を失っていた。最高幹部会、侮れない。さすが、数百年の間、辺境の宇宙を牛耳ってきただけのことはある。

「ドナ・カイテルの時も、ティエンの時も、アイリスが助けてくれたんでしょう?」

「知ってて、見ていたわけ……?」

「グリフィンが、あなたの成長を望んでいたのでね。いずれ、あなたが彼に会うこともあるでしょう」

 とりあえず、グリフィンというのは、特定の人物らしいな、と思った。そして最高幹部会は、巨大な群体であるアイリスのことさえ、脅威とは思っていないということだ。

 では、あたしが想像もできないような実験体が、もっとたくさん、あちこちで解き放たれているのかもしれない。それならば、いずれはそういう実験体の一つが、人類を滅ぼす可能性もある。

 この人たちは、それを防げるつもりでいるのか。それとも、自分たちも変貌して生き延びていくから、進化を拒絶する旧人類など、どうなっても構わないのか。

 市民社会は、呑気すぎる。こうして辺境から振り返って見たら、その呑気さに眩暈がするくらいだ。

 大洋の真ん中の小島。周囲の海には、怪物がうようよしている。島の奥にさえ、怪物の触手が伸びている。それなのに、自分たちこそ〝正当な人類〟だと自惚れて。

 メリュジーヌは、ゆったりカクテルを味わっている。

「辺境を支配するとは、そういうことよ。わたしたちは、小さな組織の内情まで調べているわ。油断はしていない。どこでどんな発明や発見があるか、把握しようとしている。有望な人材がいれば、成長を見守ったり、引き抜いたりする。それが、わたしたちの大きな仕事なのよ」

 そうか、そういうものなんだ。すると……あたしも……色々なことを、考え直す必要がある。

 たとえば……〝連合〟の支配は、当分の間、このまま続く可能性が高いということだ。数百年か、あるいは数千年か。

 連邦軍が違法組織を根絶させるなんて、まるっきり夢物語に過ぎない。それならば、〝連合〟の外にいて無駄にあがくよりも、中に入って出世した方がいい、という考え方もありうる。

 それが……一般市民からは、『悪の帝国に取り込まれた』と見えるだけであっても。

 かつて、母がたどった困難な道を、あたしは逆に動いているのだ。

「アイリスのことは、いまのところ、様子見をしているわ。貴重な実験の一つとしてね」

 少なくとも、見守る価値はある、と判断されているわけだ。それなら、それでいい。

「あれが、人類の進化の、有益な分岐であるのかもしれない。本当に脅威になると思えば、いつでも滅ぼせる……まだ、もうしばらくの間ならね」

 そこで、くすりと笑う。

「そう思っていて、実は、向こうに裏をかかれているだけ、なのかもしれない。その意味でも、あなたは、向こうとの橋渡し役になりうるわけよ。もしもの時は、交渉役をお願いするわ」

 なるほど、それもあるのか。でも、この様子だと、アイリスたちの方が不利な気はするけどな。

「そういう時に、アイリスがまだ、あたしなんかに価値を認めてくれるとは思えないけど」

 と謙虚に言ってみた。ほんと、あたしに何ができるだろう?

「向こうも、わかってはいるわ。もし人類を滅ぼそうとしたら、途方もない抵抗があるということは。だから、まだ慎重に動いている。そういう相手なら、交渉の余地はあるでしょう」

 そういうことなら……しばらくは猶予があるのだろう。その間に、あたしがもっと力をつけられれば。

 メリュジーヌは、静かに微笑んでいた。

「あなたとこういう話ができて、よかったこと。これからも、機会がある都度、色々なことを伝えていきたいわ。たとえば、大組織の内幕とかね。そうすれば、あなたもより良い判断が下せるようになるでしょう」

 この人は、以前のあたしが想像していたような、邪悪な魔女とは違う。自分自身の欲望はあるとしても、他人の欲望もまた、客観的に計算できる人物だ。

 つまり、会話が成立する相手。

 冷徹さはもちろんあるけれど、恐ろしいくらい聡明だ。こういう人物から見たら……中央の政治家や官僚、軍人たちは、あまりにも頭が固く、心が弱く、まともな交渉相手にならない、というところだろう。だから、彼らに対しては、脅迫や洗脳という手段を使うのだ。

 でも、あたしに対しては、こうして辺境まで招いた上で、じかに話をしてくれている。それならば、あたしはますます柔軟に、狡猾に、鋭くならなくては。このジュン・ヤザキならば、洗脳や脅迫よりも、自発的な協力の方が、はるかに大きな効果が得られる、と思ってもらうために。

「あたしも、よかった……あなたと話ができて。中央では……良識に反する話をするのは、かなり難しいから」

 その良識が、とうに時代遅れだとしても。メリュジーヌは、満足そうにグラスを置いた。

「相互理解ができて、よかったこと。わたしたちも、生き残るために、ありとあらゆる努力をしているわ。慢心した時に、どんな報いを受けるか、わからないと思っている」

 そういう認識を持つ者は、手強い。

「あなたにも、おいおい、辺境の様子が見えてくるでしょう。わたしたちは、あなたを、こちら側の大きな戦力に育てたいと思っているの。都市一つくらい、あなたの好きに変革して構わないわ。成功しても失敗しても、あなたなら、そこから何かを学ぶでしょうから」

 うん、わかった。

 かなり……視野が開けたような気がする。

 あたしは満足して、おやすみの挨拶をし、引き上げようとした。もう、深夜もいいところだ。そして、戸口に近づいてから、はっとして立ち止まった。くるりと振り向いて、ソファ席の美女を見る。

「あの……ついでに」

 聞くのは今だ。

「いや、ついでに聞くようなことじゃないけど……でも、せっかくの機会だから」

「何なの?」

 本当は、真っ先に確かめるべきだった。でも、忘れていたんだ。自分のことで頭が一杯で。エディなら、絶対に忘れたりしないのに。

「軍のパトロール艦……うちのエディが乗っていた《トリスタン》のこと。覚えてるよね? なぜ、《トリスタン》は爆破されたの!?」

 メリュジーヌは、すぐには答えなかった。その沈黙の間に、あたしは恐怖をこらえている。聞いてはいけないこと、だったのかもしれない。でも、答えを知りたい。

「もう、わかっているでしょう?」

 そう言われた。しごく平静に。

「軍の内部に……改革の動きがあったから?」

 エディから、打ち明け話を聞いていた。若手の将校たちが、密かに手を取り合い、軍を変えようとしていたこと。そして、辺境の違法組織を掃討しようと考えていたこと。でも、それは、〝連合〟には許せないことだった。エディはそう思っている。あたしもだ。

「そうよ。あれには、見せしめの効果があったわ。まだ生きて改革を狙っている者たちも、動きを止めている。こちらへ寝返る者も出た。だから当面、軍が危険因子になることはない」

 そうか、やはり。リナ・クレール艦長は、彼らの要だったから殺されたのだ。エディは絶対に、そのことを許すまい。

「これでまた何十年か、時間が稼げるでしょう。辺境の自由を守るための時間をね」

 メリュジーヌの顔は、もう笑っていない。

「自由というのは、過酷なものよ。毎日が戦いになる。負けた者は死ぬ。それでも、自由は必要なの。更なる進化のためにね。進化しなかったら、人類がここまで文明を高めたことが、無駄になるわ」

 その考えは、わかる。でも、負けて死ぬのが自分だったら、メリュジーヌだって、嬉しいとは思わないはずだ。

「不老不死とか、究極の生命とか、そういうのを目指すのは、別に構わないよ。好きに追及すればいい。でも、平穏に暮らしたい者は、放っておいてくれても、いいんじゃない?」

 けれど、メリュジーヌの顔は再び、冷ややかな笑みを浮かべている。

「市民の大多数は、今も平穏に暮らしているわ。その平穏は、なるべく保っていきたいと思っている。新たな世代を、生み育ててもらうためにね」

 市民社会は、家畜の飼育場。辺境の支配者たちの役に立つ、有益な家畜。

「わたしたちが必要としているのは、目的を遂げるための、ごくわずかな犠牲にすぎないわ。何の犠牲も生まずに実験を続けることなど、不可能よ」

「そうだね。あなたたちにとっては、そうなんだろうね」

 でも、ママは。リナ・クレール艦長は。使い捨てにされる、たくさんのバイオロイドたちは。

「あたしはその、わずかな犠牲を、もっと減らすための何かをするよ。それで構わないんでしょ?」

 メリュジーヌはソファにもたれたまま、あたしに白い手を振ってみせた。

「そうよ。あなたは、わたしたちの試みの一つ。何でもすればいいわ。いずれ、あなたの理想が、わたしたちの利益と衝突する時までね」

   ***

 朝、予定の時間に目覚めて、軽い運動をしてから、シャワーを浴びた。まだ眠気が残っているけれど、仕方ない。

 昨日は本当に、大変な一日だった。でも、おかげで、だいぶ視野が広まったと思う。〝連合〟というのは、ただの無慈悲な独裁帝国ではない。生き残りを懸けて戦う者たちの、実験場のようなもの。

 人類が、どこまでの高みに到達できるか。

 その権力ピラミッドの頂点に立つ者たちは、自己に厳しい。あたしがこれまで戦ってきたチンピラたちとは、人間の格が違う。

 彼らを好きになれるとは思わないけれど、理解はできる気がする。無限に挑戦し続ける者たちだ。

 こう思うこと自体、他人から見れば、あたしが『洗脳された』ことになるのかもしれないけれど。

 あたし自身は、こうして〝連合〟の内側に入れて、よかったと思う。入らなければわからないことが、色々とある。また、ああやって、メリュジーヌと話す機会があるといいな。

 とにかくあたしは、あまりにも準備不足だ。もっと大きく、賢くなって、彼女たちに教え導かれる立場から、対等に話ができる立場にならないと。

 下着姿のまま、何を着ようか迷っていたら(寝室の隣に、店のように広いクローゼットがある。その三分の二の空間は、まだ空いていた。これから埋まっていくのだろう)、アンドロイド侍女が花束を抱えてやってきた。一抱えもある、見事な深紅の薔薇だ。その赤を、白いかすみ草が引き立てている。

「総督閣下、贈り物です。保安検査はしてありますので、危険物は隠されていません」

「あたしに? 誰から?」

「《ラルサ》という組織の代表者からです」

 花束を受け取り、添えられたカードを見たら、ティエンだった。つい、にやりとしてしまう。なんて素早い反応。

『ニュースを聞いて、驚いた。でも、素晴らしい。近日中に、通話する。きみの崇拝者、ティエンより』

 彼は彼なりに、今日まで戦い抜いてきたのだろう。こうなると、いい相談相手になるかも。辺境では、あたしより先輩だもの。

 花を生けるのを侍女に任せ、シャツとスパッツ姿で居間に出ていったら、驚いたことに、昨夜はなかった花や品物が山積みになっている。既に、深緑の秘書風スーツを着たカティさんがいて、何やら目録を作っていた。

「おはよう、ジュン。これ、全部あなたへの贈り物よ。この都市に拠点を持っている、各組織から」

「へえ?」

「総督就任、お祝い申し上げます。今後もお引き立てのほどを、という感じのカードが添えてあるわ。ラブレターみたいなのも混じっているわよ。お花、宝石、ドレス、美術品、リゾート惑星のホテルへの招待状……リストを作っておくから、どう対処するか決めてくれる?」

 そうか。辺境では、権力者への賄賂は当然のことなのか。中央だったら、あたしが知らない人から贈り物をもらったら、親父に『返しなさい』と言われるところだ。でも、ここは辺境だから、どうすればいいんだろう。

「それにしても、カティさん、すっかり秘書スタイルだね」

 きりりとして、いかにも有能そう。すると、赤毛の美女は、ちょっと照れたような態度で言う。

「わたしだって、遊んでなんかいられないもの。あなたに必要とされる部下になるわ。でないと、第一秘書の座にいられないでしょ」

 初対面の時と同じ、プロの態度になっている。どうやら、メリッサに対抗意識を持っている様子。でも、元気が出たなら、よかったな。

 朝食の時、同席したユージンに尋ねたら、賄賂はもらっておけ、と言う。

「どこの組織にとっても、たいした出費じゃないし、送り返されたら、逆に不安がるだろう。贈り主を贔屓する必要はないから、好きなものを手元に残しておけばいい。あとは捨てるなり、誰かにやるなり、自由にして構わない」

 ふうん、そういうものか。こうやって少しずつ、辺境での常識を学んでいくわけだ。

「ねえ、ユージンて、ものすごく有能だから、あたしの教育係に選ばれたんだね」

 と言ったら、彼は不味いものでも食べたかのように、スープをすくっていたスプーンを止めた。

「何だ、いきなり」

 あ、照れてる。それを隠すための苦い顔。

「あたしのせいで、自分の組織の方が、部下任せになってしまってるんでしょ。ごめんね。でも、あたしはすごく助かってるから。これからも、どうぞよろしく」

 彼は不気味なものでも見るかのように、サングラスの奥からあたしを眺めた。

「頭でも打ったのか?」

 すると、これまでのあたしは、無駄に反抗的で懐疑的だったわけだ。

「ゆうべ、眠れなくてうろうろしてたら、メリュジーヌの部屋に招いてもらってね。色々話を聞かせてもらって、少し頭が整理された感じ。これから立派な総督になるように努力するから、協力よろしくね」

「……まさか、洗脳されたんじゃないだろうな」

 彼がいかにも嫌そうに言ったので、あたしは笑った。久しぶりの大笑いだった。

「洗脳されたら、洗脳されたとは認識できないよね。あたしは今、自分が洗脳されているとは思っていないから、実は洗脳されたのかも」

 ユージンとカティさんは戸惑う顔をしたが、メリッサが横から嬉しそうに言う。

「その調子ですわ、ジュンさま。それでこそ、最高幹部会がジュンさまを招いた甲斐があるというものです。わたくしも精一杯補佐しますから、何でもおっしゃって下さいね!!」

   ***

 午前中は、ドレスやスーツの仕立てに忙殺された。美人のデザイナーとスタイリストが、あれこれと助言してくれる。

 美人に見えるかどうかは、髪の印象が大きい。だから、まめにカットして、きちんと手入れすること。

 服は、色彩が大事。自分の肌や、顔立ちに合う色を選ぶこと。

 あたしの場合は、深みのある色や、黄色を含んだ色が似合うこと。赤、紺、紫、焦げ茶、ブルーグリーン、ダークグリーン、オレンジ、カナリア色、サーモンピンク、薔薇色、ワイン色。そして、それらを引き立てる白。

 若いから、ごてごてした飾りは必要ないが、真珠は万能であること。色石は、服の色に映えるよう使うこと。ゴールドは華麗に、プラチナは涼しげに見えること。

 助言を聞きながら、スーツやドレスの類を、少なくとも、五十着は注文したのではないか。最初は楽しかったけれど、さすがに疲れてくる。

「もう、そんなに要らないよ」

 と抵抗しても、メリッサは承知しない。

「ジュンさまは今、話題の中心ですわ。毎回、新しい服で人前に出ないといけません。百着あっても、すぐに足りなくなります」

「同じ服を二度着たらいけない、とでもいうわけ?」

「その通りですわ。それに、ジュンさまが一度着た服は、売り物になります」

「へっ?」

「中央では、ジュンさまのファンクラブの会員が、増殖していますのよ。競りにかければ、高値で売れます。非合法の品でも、欲しがる者はたくさんいるでしょう。靴もセットで売れば、もっといい値段になります」

 冗談じゃない。寒気がする。あたしの着た服を、どこかの変質者が抱いて寝たり、人形に着せて、うっとり眺めたりするなんて。

「それはやめ!! あたしの服は売らないよ!! 何度も着るから、これだけあれば十分!!」

 商魂たくましいメリッサは落胆したようだが、それでも、あたしが必要とする以上の服と靴を作らせた。季節が変わったら、また一揃え作るという。マリー・アントワネットか。

 宝飾品のデザイナーも来ていて、服に合わせたジュエリーをずらりと並べた。ルビー、サファイア、エメラルド、トパーズ、アクアマリン、翡翠、アメシスト、ペリドット。

「宝石に慣れるまでは、真珠とピンク珊瑚がいいでしょう。他の色石は、おいおい使ってみて下さい。慣れないと公式の場で違和感が出ますから、日頃からお使いになるのが一番です。朝、起きたら、まずイヤリングを付けることですね」

 既に、宝石屋が開けそうだ。

 服と小物の組み合わせは、専属スタイリストが考えるから、あたしは悩まなくていいという。

「あらかじめ、セットで並べておくようにします。とにかく、ジュンさまのイメージに合う完璧な身支度でないと、外に出てはいけません。いつ、誰に撮影されてもいいように、きちんとしていなければ」

 とメリッサは言う。

「あたしのイメージって、いったいどんな!?」

 これまでは、努めて男の子のような、地味で実用本位の格好をしてきたんですけど。するとメリッサは、うっとり夢見るように言う。

「それはもう、華麗なクールビューティですわ。知的で意志的で、なまじの男なんか、足元にも寄れないくらいの威厳があって」

 それ、全然、現実のあたしと違うんですけど。もしかしてメリッサって、有能で仕事大好き人間なのに、〝乙女ちっく〟な性格なの?

 クールビューティなんて聞いたら、ジェイクたち、腹を抱えて笑うぞ。今はもちろん、あたしを心配して、やきもきしているだろうけど。

 カティさんが、笑いながら言った。

「そういうイメージで売り出す、ということよね。素敵だわ」

 あたしはなんか、胃が宙返りしそうな感じ。いいんだろうか、こんな企みに乗ってしまって。ゆうべはメリュジーヌにうまく乗せられて、

(ようし、やったるか)

 みたいな気分になったのだけれど、気をつけないと。調子に乗ってしまったら、きっと何か失敗する。あたしが最高幹部会の期待を裏切ったら、いつでも捨てられてしまうのだから。

   ***

 昼食を済ませると、ユージンがやってきて、あちこちを案内してくれることになった。彼は午前中、自分の組織の仕事を片付けてきたらしい。

「男はいいね。いつも、似たようなスーツ着てればいいんだもん」

 と地味なスーツ姿の彼に言ったら、褐色のサングラスのまま、にこりともしないで言う。

「わたしは、もし女に生まれていたら、毎日着飾って、男を悩殺して歩いていたと思うぞ」

 あたしが思わずのけぞると、ユージンは、かすかににやりとする。

「せっかく女に生まれたんだ。毎日、綺麗な格好をすればいいじゃないか。どうせ、いつまで生きられるか、わからないんだから」

 この男も、なかなか底が見通せない。だからこそ、メリュジーヌに見込まれているのだろう。

 まずはセンタービルの中にある、総合司令室に案内された。ここでは、無数のセンサー類を通して、都市内の出来事が全てわかるようになっているそうだ。都市に付属する小惑星工場や、防衛艦隊などの情報も、ここで全て知ることができる。もちろん、各部署に指令を出すこともできる。

 というか、あたしの宿泊する部屋でも、同じことができるらしい。あたしのいる場所が、すなわち総督執務室ということだ。管理責任者のギデオンという男が、堅苦しい態度であたしに挨拶する。

「都市の警備・生産・流通・居住者管理などに関する詳細は、ご下命があれば、いつでも説明に上がります。外出時の警護をする部隊も、ここで管理いたします。いずれ総督閣下が、ご自分の警備隊長をお決めになれば、警備関係の指揮権は、そちらにお任せします」

 なんか、大の大人に閣下なんて呼ばれると、慇懃に馬鹿にされているみたい。この男、黒髪に浅黒い肌のハンサムだけど、いかにも、あたしを邪魔者と思っている様子だし。

 そりゃあまあ、いきなり小娘が(形だけでも)自分の上役になったんだから、業腹だよね。たぶん、あたしのことを、父親の七光で有名になった娘だと思っている。その七光効果は否定しないけれど、いずれ、あたし独自の中身があるってこと、見せてやるからな。

「これまでは、誰が一番上の命令権を持っていたの? 前の総督?」

「いえ、総督というものは、いませんでした。代表はわたしでしたが、統率者ではなく、まとめ役にすぎません。都市運営は、各部門の責任者の合議制でしたから。都市全体が《キュクロプス》の管理下にあったので、それで済んでいたのです。大きな指令は《キュクロプス》から来ます……いえ、来ていました」

 では、総督体制の方が異例なのか。あたしのために作られた役職、らしい。

「他の違法都市の管理体制って、どうなっているの?」

「それは、都市によります。大組織の所有する都市の一つなのか、それとも独立都市なのか。独立都市でも、一つだけで孤立している場合もあれば、幾つかの姉妹都市と提携している場合もあります。それぞれ、最適の方法で運営していると思います」

 なるほど。

「じゃあ、全都市の一覧表を出してくれる? どこがどういう状況なのか、ざっとわかるように」

 これまでも、噂程度には聞いていたけど、網羅はしていないから。

「承知いたしました。明日の朝食時には、お手元に届くようにします」

 とギデオンは当然のように言う。部下って、便利だなあ。

「いま何か、あたしがあなたに、指示すべきことがある?」

「特にはありません。何か変更なさりたい点があれば別ですが」

 昨日到着したばかりなのに、何をどうしたいかなんて、わかるはずがない。

「じゃあ、後でまた、詳しいことを教えてもらいにくる。とりあえず、街を回ってくるから。留守をよろしく」

 ギデオンは、お辞儀の手本のように頭を下げた。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 あたしたちはメリッサの用意してくれた車に乗り、センタービル周辺の繁華街から始まって、あちこちを見物して回った。当面、あたしの護衛には、ユージンとメリッサが責任を持ってくれるそうだ。

「新たな警備隊長は、系列組織から引き抜くか、募集をかけて選抜するかすればいいでしょう。信頼のおける人物が見つかったら、ジュンさまの警護だけでなく、都市警備全体に責任を持ってもらえばいいのです」

 とメリッサは言う。

「新たな隊長って、必要なの? 今の隊長は?」

「今いるのは都市の警備部隊だけで、最低限のものです。隊長も、まあ、それほどの人物ではありません。《キュクロプス》の系列である限り、大きな問題が起きることは想定されていませんでしたから。ですがこれからは、色々と騒動が起きるでしょうから、実力のある隊長が欲しいところですね」

 はあ、そういうものか。

「総督個人の護衛は、また別問題です。たぶん、今の警備部隊の上に、ジュンさまの護衛部隊を置けばよろしいのでは。もちろん、ジュンさまのお考え次第です」

 カティさんも、生真面目に頷きながら記録をつけている。

「わたしは事業関係のことならわかりますが、戦闘方面には素養がありません。ユージンも、いずれ自分の組織に帰る身です」

 とメリッサは言う。

「軍人上がりとか、他組織で警備業務をしていた者とか、経験のあるプロが部隊を統率した方がいいでしょう。今の部隊から誰か昇格させてもよいですが、それにはジュンさまが、彼らのことを掌握する必要があります」

「うーん、わかった。考える」

 宿題その一だな。命令系統。部下の把握。あたしはこの都市機構で何人の人間が働いているか、それもまだ知らないのだ。

 走る車の中から、新たな目で市街を眺めていった。もう、逃げ隠れしながら、こそこそ覗き見ているのとは違う。

 あたしの都市。あたしの職場。必要なら、隅々までひっくり返して観察できる。

 大組織の持ちビルが並ぶ大通り、もっと格下の組織が持つ商業ビルや拠点ビル、そして裏通りに並ぶ娼館やクラブ、その類の店。豪華な店もあれば、最低限の設備で運営している店もある。

 大型車の隊列で動き、大勢の部下や護衛を引き連れた者もいれば、数体の護衛兵だけでひっそり動く者もいる。用事を果たすらしい兵士が単独で、エアバイクで身軽に動く姿もある。

 昼だというのに(人々の生活時間はまちまちだが)、派手なドレスで歩道に立って、客引きをしている女たちもいる。

 華やかな存在に見えるが、彼女たちは監視されていて、どこにも逃げられないのだ。私有財産もなければ、休日もない。ぼろぼろになるまで働かされて、処分される。

(待っていて。いずれ何とかしてあげる。自由にはできないとしても、待遇を改善するとか、五年以上生かすとか、何か)

 あたしはそのために、この総督という立場を引き受けた。できるかどうかわからないけれど、市民社会と辺境とを結ぶ存在になりたい。少しでもそうなれたら、母が命がけで脱走してきたこと、命を縮めてあたしを生んだことが、無駄にならなくて済む。

 あたしが車内から何を見ているか、わかったのだろう。カティさんがあたしの手に、そっと手を重ねてきた。あたしは嬉しくて、微笑み返した。

「ありがとう。頼りにしてるから」

 すると緑の目が、嬉しそうに光る。

「わたしこそ、ありがとう……おかげで、明日に希望が持てます」

 そうだ。欲望のために女を利用する男たちには、期待できない。辺境を変えるためには、女の力が必要だ。味方を増やそう。できるだけ、たくさん。

 繁華街を離れると、あとは広大な緑地だ。針葉樹と広葉樹の混合森。馬が放たれている草地。人工的に調整された季節は冬だけれど、凍える寒さというほどでもない。常春では刺激が足りないから、あえて季節を演出しているのだ。

 丘の麓を巡って川が流れ、遊覧用のクルーザーを浮かべた大きな湖が七つある。そのうちの一つは塩湖で、ここから流れ出す川はなく、淡水湖とは切り離されている。食用にするため、海の魚が放してあるそうだ。おかげで、新鮮な刺身が食べられるというわけ。

 七つの湖の周囲には、個人の邸宅やホテルやレストランが点在している。繁華街に飽きれば、水辺で気分転換できる。

「泳いでもいいの?」

「可能ですよ。普通はみんな、屋内のプールで泳ぎますけど」

 ああ、《キュテーラ》の湖でも泳いだ。ママがまだ元気だった頃。リエラの一家と一緒に、ピクニック用品を車に積んで。夏のお祭りでは、花火も打ち上げられた。今となっては、大昔のことのよう。

 緑地の所々に有力組織の所有地があって、そこには研究施設があったり、拠点ビルがあったりする。何人が暮らし、どんな活動が行われているのか、《アグライア》の管理組織にもわからないという。

「建物への出入りは監視できますが、内部にまでスパイを入れているわけではありませんので」

 とメリッサ。

 幹線道路には、常に車が流れている。都市の警備システムは、どの車がどこから来てどこへ行くのか、可能な限り追尾して、各組織の動向を把握しようとしている。それでも、突発的な事件は起こる。組織同士の戦闘とか、ビルの破壊とか。

「この都市は、《キュクロプス》の一部ではありますが、ほぼ独立した小組織のようなものです。子会社というべきでしょうか。わたしたちの知らないことが、頭越しに行われていることはあるでしょう。親会社からは子会社の内容が見えますが、逆はありません」

 改めて、わかった。

(あたしたちが違法都市で逃げ回っていた時、全部把握されていたんだ)

 ネピアさんが介入してくれたことも、アイリスが来てくれたことも。その上で、あたしは泳がされていた。きっと、練習問題を解かせるようなものだったのだ。いずれ、本番の試練を迎える時のために。

   ***

 夕方、およその見学を終えると、あたしは車を繁華街の一角で停めさせた。街の空気を知りたい。

「降りて歩こう。どこかで食事してから、帰ればいい」

 カティさんとメリッサが、あたしに従った。ユージンはあたしの護衛のような顔で、横に立つ。寒いけれど、少しの時間なら、コートはなくても大丈夫。

「で、どんな店に行きたいんだ?」

「なるべく、一般的な店」

「お忍びというやつをやりたいのか? それは、変装でもしないと無理だな」

「じゃ、変装は明日からということにしよう」

 正直、ユージンの存在が心強かった。違法都市を女だけで歩くなんて、やっぱり心細いもの。いくら周囲に《キュクロプス》の紋章を付けたアンドロイド兵がいても、彼らには判断力がない。

 ビルの足元の広い歩道を歩きだすと、周囲を行き交う男たちから注目を浴びるのがわかった。会話も聞こえてくる。

「おい、あれ、ジュン・ヤザキだろ」

「本物かな」

「そうだろうよ。兵に《キュクロプス》のマークが付いてる」

「最高幹部会も、ずいぶん思い切った抜擢をするもんだな」

「可愛い子ちゃんを看板にして、間抜けな市民たちを集めるってわけだ。集まった連中は、洗脳されて下働きさ」

 自分の顔がひきつるのがわかった。しかし、平然としていなければ。どの方向から、誰に撮影されているか、わからない。

 あたしは金色の縁取りが付いた白いジャケットとミニスカートのスーツを着ているから(これにして下さいと、スタイリストのナディーンに押し付けられたのだ)、遠目にも目立つのだろう。行く先々で、注目を集めてしまう。

「ほら、あれがジュン・ヤザキだ」

「最高幹部会も、話題作りがうまいな」

「子供を総督にだなんて、いつまで続くやら」

「どうせ、側近がうまく操ってるのさ」

 カティさんとメリッサの方が、背の高い美女だけど、彼女たちは控えめな秘書スタイルだから、兵の間に紛れてしまう。平気なふりを続けて、顔が強張ってきたけれど、じかに街を歩いて、空気を吸わなくては。センタービルの中にいてはわからないことが、きっとわかるはず。

 二十分ほど歩いて、《キュクロプス》系列のビルでレストランに入り、食事をした。他の客たちから離れた、奥のVIP席で。何も頼まなくても、最初から、そこへ通されてしまうのだ。

 それでも、店の雰囲気はわかる。あれがジュン・ヤザキ、というささやきはよく聞こえた。興味、敵意、それに嫉妬が混じった視線。見世物にされる辛さ、身に染みてきた。

 中央でも、親父は要人扱いだったけど、あたしはまだ、おまけだったから気楽だったのだ。これからずっと、こういう視線にさらされることになる。慣れるしかない。

「もしかしたら、各組織の幹部を招いて、お披露目パーティでもした方がいいんじゃないの」

 自棄交じりの冗談だったのに、メリッサがまともに反応した。

「それ、いいですわね。企画しましょう」

「まさか、本気!?」

「あら、もちろんですわ。まず、招待客リストを作りましょう。最初は小規模に、二百人くらいでいいかしら。その様子で、次回の招待客を考えることにして。ユージンさま、アドバイスをお願いしますね。カティ、各組織の情報は、あなたにも見てもらいますから、リスト作りを一緒にしましょう」

 仕方ない、らしい。あたしがこの《アグライア》に人を集めるつもりなら、社交の中心になる覚悟がいるのだ。

「そうだわ、ダンス権を売りましょう。一曲いくらで」

 とメリッサが言う。彼女には、何でも商売に見えるらしい。

「ジュンさまと踊りたい男性が、大勢いるはずです。事前に、オークションで落札してもらおうかしら」

 思わず、顔が刺した。

「やめよう、それは」

 いくら何でも、図々しい。絶世の美女というのならともかく、あたしみたいな小娘が、そんなことを。

「それじゃあ、ダンスの予約リストだけでも作らないと。当日、希望者が多いと、現場が混乱しますから」

 本当かなあ。あたしと踊るために来る客なんて、いるんだろうか。

「ジュンさまの予定に、ダンスのレッスンも入れておきますわ。ダンスは空手ほど、お得意ではないそうですから。でも、これからは、社交の時間が増えますよ」

「違法都市で、社交って普通なの?」

「もちろんです。人間関係があってこそ、組織間の取引もうまくいくんですよ。それは、市民社会と変わりません。どこの都市でも、センタービルやホテルなどでパーティを開いていますよ。この《アグライア》では、ジュンさまの開くパーティが最も格が高いことになりますね。最高幹部会のどなたかが開く場合は別として」

 そんなこんなで、センタービルに引き上げてきた時には、眠くて倒れそうだった。おかげで、ベッドに入るとすぐ、寝入ってしまった。

 こうしてあたしは、違法都市に馴染んでいったのである。

   ***

 翌日は、買い物からスタートした。ギデオンからの資料を見るのは、後にしよう。

「カティさん、あなたの服を買いに行こう。街歩きも兼ねて、一石二鳥になる」

 あたしの服はしこたま揃ったけれど、カティさんは、ユージンの船に用意されていた最低限の着替えしか持っていないはずだ。精々、ビジネススーツを注文したくらいだろう。

「そんな、いいのよ、わたしの服なんて」

 と遠慮するけれど、

「そうはいかない。アレンが来るんでしょ」

 と言ったら、ぴしっと固まってしまった。いいんだろうか、こんなに初心で。

 実は、ユージンにこっそり確認を取っている。カティさんが、誘拐に手を貸す代わりに望んだ報酬とは、アレンの精子だとわかった。それで、彼の子供を作りたいというのだ。何とも、いじらしい願いではないか。

「アレンとアンヌ・マリーは、明後日、ここへ来るって聞いたよ。あたしが付いてるから、しっかり交渉して。できたら、彼を奪い返せるといいんだけど」

 するとカティさんは、激しく首を振る。

「無理よ、そんなこと。わたしは捨てられたのよ。アンヌ・マリーが絶対、彼を離さないわ」

 どうやら、妹をひどく恐れているらしい。

「きつい妹らしいね」

 カティさんはうつむき、唇を噛む。

「あの子は悪魔だったわ。子供の頃から。同じ顔をしたわたしのことを、憎んでいたのよ」

 憎む!?

「だって、実の姉妹なのに!?」

「姉妹だから、よ」

 そういうもの? きょうだいって、無条件に互いを大事にするものかと……いや、そうとは限らないのか。ナイジェルと妹のような例もある。

「たぶん、わたしを目障りだと思っていたんでしょう。自分が得られるはずのものを、半分盗っていく邪魔者だって。わたしのものなら、何でも取り上げようとしたわ。品物は譲ってきたけれど、まさか、アレンまで取られるなんて」

 兄弟姉妹のいないあたしには、よくわからない。あたしなら、双子の姉妹がいたら、どんなに嬉しいかと思うのに。

 ……いやいや、待て。あたしと同じ顔で、あたしのように不器用で、攻撃的だったら……うわあ。見たくない。想像しただけで、痛い。

 そうか。きょうだいというのは、難しいんだな。

 とにかく、繁華街のビルに入り、あちこちの店を回って、遠慮するカティさんに服を買わせた。カティさんの白い肌と、赤い髪に映えるドレスをたくさん。身長があるから、深いグリーンや、黒いドレスがよく映える。金色や白もいい。首が綺麗だから、垂れる形のイヤリングも、よく似合う。

 同行したメリッサも、喜んで見立ててくれた。中央と辺境では、流行も異なるらしい。中央では派手だと思われるようなドレスでも、辺境ではごく普通らしいのだ。もちろん、仕事中ではなくて、プライベートな時間でのことだけど。

「だめよ、無難を基準にしちゃ。あなたはスタイルいいんだから、もっと肌とボディラインを見せて。これなら、どんな男だって悩殺よ」

 とメリッサは見本のドレスを抱えて、カティさんに言う。あたしも、横であおった。他人のことなら、何とでも言える。

「そうそう、せっかくの美女なんだから、着飾らないと」

 それでアレンが陥落するかどうかは、別にして。

 あたしから秘書の給与を出しているので、代金はカティさんの口座から引き落とせるのだけれど、自分では買おうとしないから、あたしが買って現物支給する形にした。

 ちなみに、あたしには、この都市の財産が全て自由に使える。《アグライア》という都市自体は《キュクロプス》の財産だけれど、今はあたしの管理下にあるということだから。

 持ちビルや公共用地を売り払おうと、道路の通行料を取り立てようと、あたしの判断で好きに行えるそうだ。あたし個人の報酬も、都市の決済用の口座にあるお金から、好きなだけ取っていいという。

 さすがは辺境、なんて大雑把な会計。

 といって別に、自分のために贅沢しようとは思わない。あのセンタービルの部屋と、積まれた贈り物だけで、既に相当な贅沢だ。

 使える資金は、いいことのために使おう。たとえば、バイオロイドの再教育とか、待遇改善とか。

 もちろんそのためには、まず他組織の代表者たちと話をしなくては。

   ***

 その頃、中央星域では、〝円卓会議〟のお偉方が、緊急の会議を開いていたらしい。

 この会議は、連邦最高議会のように、法律で設置が決められたものではない。惑星連邦の法体系は、いまだ、辺境が一大文明圏であることを認めていないのだ。人類文明は市民社会だけで完結している、というのが公的認識なのである。

 けれど実際には、市民社会は違法組織に取り囲まれている。それを、単なるはぐれ者の集まりであるかのように、無視することはできない。

 そこで、市民社会の防衛という現実問題に対処するため、各界の実力者たちが随時、非公式な話し合いをするようになった。それがいわゆる〝円卓会議〟である。

 現在の顔触れは、軍と司法局から二人ずつ、最高議会から二人、財界と学界から数人ずつだという。外部には非公開の集まりなので、本当のメンバーはよくわからない。

 とにかく、その重鎮たちが、あたしの事件について話し合ったそうだ。といっても、彼らにできることはほとんどない。軍も司法局も、辺境ではたいした行動はできないのだ。最高幹部会が決定したことを邪魔する力など、誰にもない。

 彼らがもめたのは、あたしの元へ行きたいという、エディの願いを認めるかどうか、だったらしい。それを認めたら、市民社会が〝連合〟に屈したことになる、という意見が半分。ジュン・ヤザキを応援することで、辺境が少しでも変わることに期待しようという意見が半分。

結局、参考人として呼ばれた〝リリス〟が言ったことが、決め手になったそうだ。

『若者が何かしようとしている時に、老人が邪魔するもんじゃない。若者を信じられない社会なんて、滅びるしかないんだよ』

 長身のリリーの台詞だそうだ。

 うーん、かっこいい。ますます尊敬。

 じかに会って、サインをもらうか、握手してもらうか、できたらよかったのに。こうなってしまっては、もはや敵陣営だから、その機会ははなさそうだ。残念。

 それでも、ずっと憧れだった〝リリス〟が、あたしのことを考え、あたしを援護するために発言してくれたというのは、じんとくる。いつか、これで良かったと思ってもらえるように、頑張ろう。

 とにかく、その結果、《ルシタニア》の軍基地に軟禁されていた親父の元へ、決定が通達された。

『惑星連邦政府は、それが重大な犯罪行為でない限り、市民の自発的な行動を束縛することはない。安全対策上、《エオス》のクルーに対する行動制限は続行するが、《エオス》を辞めた者については、その限りではない』

 つまり、エディが《エオス》の乗員でなくなれば、好きな所へ行って構わない、ということ。それでエディは、親父に願い出た。

『ぼくを退職させて下さい。ジュンの元へ行きます。親父さんの分まで、ジュンのことを守りますから』

 親父は悩んだらしいが、結局はエディの意志を認めた。

『それでは、ジュンを頼む』

 もちろん、エディが《エオス》を去るというのは形式上のことで、あたしがいつまでも親父の娘であるのと同じく、エディだってどこまでも《エオス》の仲間。

 以上は、メリュジーヌから聞いた話である。どうして〝円卓会議〟の中身や、親父たちの会話内容まで知っているのか知らないけれど(それが〝連合〟の情報部門の実力らしい)、後からエディに聞いたことと一致していた。

 そういうわけで、自由になったエディは早速、《アグライア》のあたしに連絡してきたのである。

「ジュン、これから、きみの元へ行くからねっ!! きみの秘書でも護衛でも何でもするから、雇ってくれるだろう?」

 あたしは、雇わない、と言うべきだった。来ても相手にしないから、来ないように、と。でも、エディの輝くような笑顔を見た途端、へなへなと心がくじけ、つい、甘えが出てしまったのだ。

「辺境だよ? 違法組織だよ? それでもいいの?」

 と、すがるように尋ねてしまった。エディは当然、満面の笑顔。

「きみと一緒にいられるなら、どこだっていいんだよ!!」

 ああ、あたし、本当にエディに甘えている。これでもし、エディを死なせたりしたら、どれだけ後悔するだろう。

 それがわかっていて、拒絶できない弱さ。

「あ、それから、先輩たちも一緒だから」

 と言われた時には、仰天した。

「何それ、どういうこと。だって、みんなは親父の側にいてくれなきゃ」

「それはバシムが残っていれば、大丈夫だよ。親父さんはもう、懸賞金リストから外されたし。新しいクルーだって、募集できるし。きみを敵に回してまで、親父さんを狙おうなんて不届き者は、まずいないよ。ジェイクとルークとエイジとぼくと、四人できみを守るから」

 そんな、そんなこと。あたし、そこまでは期待していなかった。

 でも、どう言っても、エディはにこにこして言う。

「みんな大人だし、自分の意志で決めたことだから」

 軍が、老朽艦を廃棄するという名目で、そこそこの小艦隊を回してくれたそうだ。それで、《アグライア》まで来ると。

 通話を終えてから、しばらく、涙が止まらなかった。こんなざま、人には見せられない。メリッサたちのいない所で通話を受けて、よかった。

 あたし、恵まれすぎている。こんなに過保護だと、ユージンやメリュジーヌに笑われてしまう。

 でも、嬉しい。おかげで、自分がどれほど張り詰めていたか、わかってしまった。みんなが来てくれると思うと、心がゆるんで、全身が溶けてしまいそう。ああ、また、

『このガキ、こんなこともわからんのか』

 とか叱られて、大きな手で、頭をぐりぐりやってもらえるんだ。それって、なんて幸せなこと。

 それから気を取り直して、中央の外れまで、迎えの艦隊を派遣する手筈を整えた。この《アグライア》から船を出さなくても、もっと近くにある《キュクロプス》の拠点から船を出してもらえるので、十分間に合う。

(ああ、神さま)

 これならきっと、何かできる。辺境の常識を変える、何かが。

   ***

 アレンたちが到着する当日は、カティさんが朝からそわそわして、落ち着かなかった。何度もティーカップやクリーム入れを倒したり、ドアに顔をぶつけそうになったり、アンドロイド侍女に衝突したり、手帳を取り落としたり。

 あたしやメリッサ、ナディーンが選んだボルドー色のドレスを着て、長い首に真珠のネックレスを巻き、とても綺麗なんだけど、初めてデートに行く女の子みたい。

 午後にアレンとアンヌ・マリーとの面会が設定されているものだから、何をしていても上の空。

 別に、いいけどね。秘書の業務は、メリッサが完璧に果たしてくれるから。

 あたしは午前中を各部署の見学に費やし、知識を増やした。午後になると、アレンの船が桟橋に着いたという知らせ。こちらからの迎えの車に乗って、二人がセンタービルまで案内されてくる。カティさんはがくがく震えてしまい、あたしがどう励ましても、悪い予測しかできないようだった。

「わたし、アンヌ・マリーに殺されるかもしれない」

 とまで言い出す。

「まさか、いくら何でも。それに、こっちの警備兵がいるんだから」

 アレンがいかにアンヌ・マリーに惚れていても、《キュクロプス》を背景にしているあたし相手の喧嘩などできないと、よくわかっているはずだ。

「カティさんは、あたしの後ろにいてもいいよ。あたしがアレンに、細胞をくれって頼むからさ」

 さすがにあたしも、初対面の男性に向かって、精子をくれとは言いにくい。婉曲話法でいこう。

「向こうも、嫌とは言わないよ。だって、いざとなったら、とっ捕まえて絞り取れるもん。そんなことをされるより、自発的に提供した方がいいと思うでしょ」

 すると、横にいたユージンにたしなめられた。

「年頃の娘が、そう露骨な言い方をするものじゃない」

 学校の先生みたい。

「これ以上、どう婉曲に言えばいいのさ」

「生殖細胞でなくていいんだ。体細胞でも」

「精子の方が早いじゃない。どこかの部屋で放出してもらえば」

「とにかく、大きな声はやめてくれ」

 違法組織のボスのくせに、結局、教師向きの性格なのだ。だから、あたしのお守り役として、メリュジーヌに選ばれたのだろう。

「総督閣下、お客様がご到着です」

 地上階の玄関ホールまで出迎えに行っていたメリッサが、二人を連れて、あたしたちのいる階まで戻ってきた。彼らは、このセンタービル内では護衛兵の同行が許されないので、二人きり。周囲を固めているのは、都市の警備部隊の護衛兵だ。

 カティさんは緊張が嵩じて、真っ青になっている。どんな男だろう。ここまで、カティさんの心を捕らえているなんて。

「カティ」

 真っ先に扉から入ってきたのは、濃紺のスーツを着た、中肉中背の黒髪の男性だった。どちらかというと、スマートというより、ずんぐりという体型。眠そうな黒い目と丸い鼻をしていて、ハンサムと表現するよりは、味のある顔、と形容するべき。姉妹に取り合いされる男としては、冴えない外見だった。でも、きっと中身が詰まっているのだろう。

 彼はカティさんがあたしの横で真っ青になっているのを見ると、すぐあたしに向かって言った。

「きみがジュン・ヤザキ嬢だね。お願いする。どうか、カティを引き渡してほしい」

 あれっ。そう来るのか。

「きみにとっては憎むべき誘拐犯かもしれないが、カティはただ、大きな力に利用されただけだ。きみに対する害意は、これっぽっちもなかったと思う。どうか、見逃してやってほしい」

 へえ。へええ。

 むずむずと嬉しくなった。カティさん、もしかして、愛されてない?

 アレンはそれから、カティさんに手を差し伸べる。

「カティ、迎えに来た。ぼくと一緒に行こう」

 なんだ、いい感じじゃないか。まさか、連れていってから危害を加えるつもりではないだろう。そんなことをしたら、あたしが怒る。

「こんなことまでさせて、本当にすまなかった。アンヌ・マリーだって本当は、きみのことを心配してるんだ」

 あたしがすっかりアレンに好意を持ったところで、鋭い声が割って入った。

「甘ったれないでよ。アレンが優しいからって、よくも図々しい条件を出したわね!!」

 おお、これがアンヌ・マリーか。カティさんと同じ顔立ち、同じ骨格なのに、印象はまるで違う。赤い髪はウェーブをつけた華やかなボブスタイルにして、襟ぐりの深い暗緑色のミニドレスを着ている。これでもか、と曲線美を見せつけるいでたちだ。

 何より、態度と発声が堂々としている。カティさんが清楚な白百合なら、こちらは深紅の薔薇という感じ。常に自分が主役、と思っている態度だ。ある意味、清々しい。

「ジュン・ヤザキ、この馬鹿女があなたに迷惑をかけたようだけど、迷惑を被っているのは、こちらも同じなの。わざわざ呼び出されて、中央の報道番組でも、あれこれ詮索されて。鬱陶しいったらないわ。後はこちらで処分するから、引き渡してちょうだい」

 アンヌ・マリーは堂々として言う。

 へええ、ふうん。

「何か、誤解があるようですけど」

 あたしはにこやかに言った。自分のことでなければ、いくらでも冷静な調停者になれるものだ。

「あたしは、カティさんのことを怒ったりしていませんよ。むしろ、保護者のつもりです。カティさんに悪意がなかったことは、理解していますから」

 アレンは意外そうな顔をした。アンヌ・マリーは、一段と警戒した様子。

「あなた方と会うことにしたのは、あたしからお願いするためです。アレン・ジェンセン、あなたから、生殖細胞をもらいたいんです。カティさんはそれで、あなたの子供を作ります。そして、あたしの元で子供を育てます。あたしの秘書の仕事をしながらね」

 二人とも、驚いたようだった。

「きみの元に残る? そういう話になっていたのか?」

「なんて意気地のない女なの。自分が誘拐した子供にすがって、保護してもらうなんて!!」

 悪かったね、子供で。子供なりに精一杯考えて、努力してるんだよ。なるだけ多くの人が、幸せになりますようにと。

 それが、世界平和の基本でしょ。まず、身近な問題から処理すること。カティさん一人守れないで、他の大勢のバイオロイドを守ろうなんて、無理に決まっているもの。

「で、問題は、あなたが素直に細胞をくれるかどうか、なんだけど。どうですか?」

 けれどアレンは、あたしの言葉など聞こえないようで、カティさんに向いてしまっている。

「本気なのか。辺境で子育てするなんて。無理だ。きみは、こんな場所で暮らせる人じゃない。きみの欲しいものは渡すから、中央へ帰るんだ。連邦政府に保護してもらうのが、一番いい。犯罪に荷担したといっても、情状酌量はしてもらえるはずだ」

 へえ、そういうつもりだったのか。それなら、平穏にすみそう。精子さえもらえれば、こちらはそれで充分だし。あたしに力のあるうちに、カティさんと子供を中央に送り届けてやればいいのだ。

 アレンとは対照的に、アンヌ・マリーは棘だらけだった。

「ちゃっかりしてるじゃないの。ジュン・ヤザキに取り入るなんて。確かにあなたよりは、ずっとしっかりしてるわ。あなたの半分の年齢でもね」

 彼女の刺は、あたしの肌をも、ちくちく刺した。あたしが親父の名声のために引き立てられた、と思っている。あたし自身を評価していたら、こういう態度にはならない。まあ、今の時点で評価してもらうのは、無理だと思うけど。

「そもそも、アレンさんは、カティさんの恋人だったんでしょ。それをあなたが横取りしたと聞いてるけど、どうやって誘惑したのかなあ。後学のために、ぜひ聞いておきたいんだけど」

 あたしが微笑みながら尋ねると、アンヌ・マリーは緑の目であたしを睨んだ。このガキ、口を出すなという無言のビーム。

「あなたも、たいしたやり手じゃない? 《エオス》のクルーが、こちらへ来るんですってね。大の男を何人も従えていられるんだから、さすがだわ」

 この態度、別の意味で評価できる。この人は、あたしが最高幹部会に抜擢されたからといって、あたしに媚びようとは思わないんだ。

「あなたなら、カティさんをどうするつもり?」

「基地に連れて帰って、冷凍保存にするわ。これ以上、わたしたちに迷惑をかけられないように」

 うひゃあ。本気で言っているように聞こえる。可哀想に、カティさんが怯えるわけだ。

「それじゃあ、あなたたちには渡せないな。カティさんは、あたしの元にいてもらうよ。あたしなら、秘書として正当に扱うもの。それに、もう友達になったし」

 二人とも、呆れたような顔をした。あたしは付け加える。

「もちろん、カティさんが中央で子育てしたいと思うのなら、喜んで送るし」

 それは、本人が否定した。

「いいえ、子供を隔離施設で育てたくはないわ。かといって、養育施設に預けたり、養子に出したりするのもいやよ。わたしがここで、自分の手で育てるの」

 カティさんは、中央で『母親が犯罪者』と言われるような育ち方をしたら、子供が傷ついて不幸になると思っている。それよりは、たとえ違法都市でも、自分の手で愛情込めて育てる方が、はるかにいいと。

 そこでようやく、メリッサが割って入った。

「とにかく、お座りになって、お茶をどうぞ。結論を急がず、ゆっくり話し合われたらいかがですか?」

   ***

 三時間かけた話し合いの結果は、決裂だった。アレンはカティさんを中央に送り返すと言うし、アンヌ・マリーは冷凍説だし、カティさんはあたしの元に残るというし、ユージンは知らん顔して、離れた席にいるだけだし。

「アレンのクローンを作って、二組のカップルに分かれたら」

 というあたしの案も(市民社会では許されないが、辺境なら可能なはずだ)、アレン自身に却下された。

「ぼくの記憶を複製したクローンを作っても、目覚めた瞬間から別の空間を占め、別の人生を歩きだす。そのクローンに何か強制することはできないし、ぼくが彼の人生に、幸福の保証を与えられるわけでもない。むしろ、不幸を増やすだけのことだ」

 まあ、それはそうかも。

 とうとう、あたしは宣言した。

「明日、もう一度話そう。今夜は二人とも、《キュクロプス》の直営ホテルに部屋を取ってあるから、そこで休んで下さい」

 むろん、こちらの監視下から出さないための手配だ。アンヌ・マリーを放置すると、カティさんに害を及ぼす危険がある。

 すると、アレンが言った。

「ミス・ヤザキ、すまないが、ちょっと別室で話せないか」

 アンヌ・マリーは疑う顔をした。

「わたしも行くわ」

 話の流れによっては、自分に不利な取り決めがなされるかもしれない、と心配している。

「いや、きみはここにいてくれ。五分で戻るから」

 いいですよ、何でも。この事態を打開する提案なら。少し離れた別室で、あたしとアレンは立ったまま向かい合った。こちらのアンドロイド兵士は付いているが、人間はあたしたちだけだ。

 とはいえ、アレンがあたしに危害を加える可能性は、ほとんどない。隠されているが、あちこちに警備システムのレーザー砲や電磁ネットが配置されている。都市そのものがあたしの庇護者だ。

「それで?」

「頼みがある。このビル内なら、きみは何でもできるはず。アンヌ・マリーに麻酔をかけて、眠らせてくれ」

 おっと。

 あたしはまじまじ、アレンを見返した。かなり思い詰めた顔だ。

「それから、どうするの?」

「アンヌ・マリーを、冷凍睡眠カプセルに入れる。そして、カティを連れて拠点に帰る。これまでアンヌ・マリーのために使った時間と同じだけ、カティに捧げてもいいはずだ。もし……カティがそれを望んでくれれば、だが」

 あたしはしばらく、立ち尽くした。そういう解決法か。時間稼ぎにすぎないが、アレンは双子を二人とも、同じくらい愛している、ということになる。

「それは、カティさんにとっては、嬉しいことだと思うよ。でも、アンヌ・マリーを、永遠に眠らせておくわけにはいかないでしょ? それはさすがに、卑怯だよ。それに、何年かの冷凍だとしても、彼女が目覚めた時、事態が余計にこじれてしまうでしょ。あなたに裏切られた、と思って手に負えなくなるんじゃない?」

 と一応、忠告した。

「わかっている。だが、アンヌ・マリーを目覚めさせた時点で、永遠の裏切りではない証明になるだろう。少なくとも数年、ぼくに時間をくれないか。カティとじっくり向き合う時間を」

 どうしたものだろう。あたしがその企みに協力したら、それは結局、アンヌ・マリーを永眠させる結果になってしまうかも。

 ものすごくきつくて怖い人だけど、アンヌ・マリーがアレンを必要としていることは伝わってくる。だから、なりふり構わず、姉から奪ったのだ。

 アレンもそれがわかっているから、アンヌ・マリーを拒絶できなかったのだろう。それから十年以上、共に暮らしてきたからには、深い情が育っているはず。

「あなたが二人ともいっぺんに面倒見る……というのは、無理なんだよね」

「それは、アンヌ・マリーが認めない」

「まあ、そうだろうね……」

「ぼくが怖いのは、アンヌ・マリーが思い詰めたら、何をやらかすか、わからないという点だ」

「それは、わかります」

 アレンはそこで、首をひねった。

「いや、それは、カティも同じだな。彼女がまさか、誘拐犯になって辺境に出てくるとは、思ってもみなかった。そんなことができる性格じゃないはずなのに」

「うーん、表れ方が違うだけで、気質は同じなのかも。思い込んだら命がけ、みたいなところ。別れて十五年もあなたを思い続けていただけで、カティさんも相当なものだよ」

 アレンは苦笑した。

「そうだね。似ているのかもしれない。やはり姉妹だ」

 それから、視線を落として言う。

「ぼくが悪いんだ。最初に、アンヌ・マリーを拒絶しきれなかった。目の前で、手首を切られてしまってね」

 うわあ。

「カティのことは、とうにあきらめたつもりだったのに。こうして彼女に会ったら、もう……再び失うということには、ぼくが耐えられそうにない。カティを離したくないんだ」

 つい、胸が痛んだ。あまりにも、うらやましくて。あたしも誰かに、そんな台詞を言ってもらいたい。

 でも、誰が言ってくれるだろう。親父だってもう、あたしより、ドナ・カイテルの方に比重を移しているし。

 だって親父は、あたしがエディと恋人同士になったと思い込んで、安心していた気配がある。孫の顔を見られるのは、いつ頃かな、なんて楽しそうに言ったこともある。

 それは、違うのに。エディはあたしを、亡くなったリナ・クレール艦長の形代にしているだけ。罪滅ぼしという気持ちがあって、あたしに尽くしてくれるのだ。

 ナイジェルの言うように、それはきっかけに過ぎず、今はあたし自身を愛してくれるのだとしても、あたしはたぶん……エディに恋愛感情を持っていない。

 大好きだけど。

 もしかしたら、恋愛になりかけた瞬間があったかもしれないけど。

 エディが死んだと思った時……正確には、蘇った姿を見た時に、もっと大きな〝友愛〟に変化してしまった気がする。だから、エディに対しては、申し訳なさが先に立つのだ。尽くしてもらっても、お返しができない。

 アレンは改めて、あたしに訴えてきた。

「カティを泣かせておけない。ぼくが守りたいんだ。助けてくれないだろうか」

 あたしは迷った。これは本来、彼ら三人の問題だ。でも、あたしは既に、首を突っ込んでしまった。どうするのが、一番正しいことなんだろう。

 というか、恋愛に『正しい解決策』なんてあるのか。そもそも、恋愛自体が、狂気に近い思い込みだろう。進化が作り上げた、強力な欲望。それがあるから、人類は熱心に繁殖活動してきたわけだ。

「……わかった。帰るふりで、二人で一階に向かって。手段は、あたしに任せて」

 とりあえず、一番の障害物を静かにさせて、時間を稼ごう。あたしには、他にもするべきことが山ほどあるのだから。

   ***

 カティさんは、アレンとアンヌ・マリーが兵に送られて出て行った後も、じっとソファに座っていた。あたしも横に座り、どう慰めたものか迷いながら、言ってみる。

「カティさんがアレンを忘れられなかったの、わかる気がするよ。いい男だね。本当に、あなたのことを心配してる」

 カティさんはようやく、口を開いた。

「ごめんなさい。わたしたちの争いに、あなたを巻き込んで。あなたは本当は、こんなことで煩わされる必要ないのに」

 その通りなんだけど、仕方ない。もう、友達だから。友達を大事にしなかったら、この世で何も成し遂げられないだろう。

「それはまあ、あなたもあたしの誘拐計画に巻き込まれたわけだから、お互いさまだよね?」

 カティさんは、疲れた様子ではあるものの、くすりと笑った。

「あなたって、本当に偉いわ。そんなに若いのに。わたしはだめね。アンヌ・マリーの言う通り、甘ったれの弱虫だわ」

 そう言われると、こちらが恥ずかしい。あたしはジェイクたちに守ってもらうために、彼らを辺境に呼び寄せてしまっている。来ないで、とは言えなかったのだ。

「でも、会えてよかった。アレンの子供が持てるなら、それでわたし、生きていけると思うの」

 それもまた、ちょっと危ういかも。カティさんが今度は、子供にべったりしがみつくようになったら、子供が不幸だ。

 でも、人が何かにすがるのは、仕方ないのかな。母を失った後のあたしは、親父にしがみついた。親父を守りたいとか思っても、それは表面的な理由で、結局は、親父に甘えたかっただけ。

 あたしも弱い。たぶん、自分一人で生きられる人間なんて、きっといない。

 それに、それでいいのではないか。もし、他人を必要としなくなったら、それはもう、人間ではないだろう。

 いったん席を外していたユージンが、戻ってきた。

「ジュン、アンヌ・マリーを途中で眠らせた。麻痺ガスだ。五階の医療室に運んである」

 あたしが頼んだ通り、うまくやってくれた。

「ありがとう」

 血相を変えたのは、カティさんだ。

「何ですって!? どういうこと!?」

 あたしは落ち着いて、という身振りをした。

「アレンに頼まれたんだ。あなたを連れて帰りたいから、アンヌ・マリーには、しばらく眠ってもらうって」

 連れ立って医療室へ行くと、メリッサが報告してくれた。

「一時的に眠らせてあるだけです。冷凍睡眠装置に入れるなら、そのように準備します。三時間以内に決めていただけると、追加の麻酔を入れなくて済むので、助かりますが」

 アレンが医療ベッドの横に立ち、透明なカプセルの中で眠っている赤毛の美女を見下ろしていた。アンヌ・マリーも、眠っていれば静かなものだ。あたしに気づくと、アレンは疲れたように微笑む。

「もう引き返せない。目覚めたら、怒り狂うに決まっているからね。それは、数年先まで保留にするよ」

「保留にしたって、解決じゃないけど」

「わかっている。その時までに、結論を出す。たとえば……半年ずつ、交互に一緒に暮らすとか」

 それくらいなら、アンヌ・マリーも仕方なく認めるかも。拒絶したら、アレンを永遠に失ってしまうと思えば。

「さもなければ……双方に、子供を作ればいいのかもしれない。これまで、そんなことを考える余裕はなかったが。アンヌ・マリーはきっと、いい母親になる。子供ができれば、ぼくに割く時間も減るだろうからね」

 カティさんは、がたがた震えていた。部屋の入口で固まったまま。アレンは振り向いて、カティさんの方に歩いていく。そして、有無を言わせず、がばっとカティさんを抱きしめた。

 あ、いいな。

 見ているあたしも、つい胸が高鳴り、顔が熱くなってしまう。

 それはメリッサも同じだったようで、うっとりした様子で、両手を握りしめている。もしかして、あたしの二倍か三倍の年齢でも、恋に恋する乙女のままだったりして。

「辛い思いをさせて、すまなかった。苦労させると思うが、一緒に来てくれないか?」

 カティさんはまだ、声も出ない。それでも、ためらいながら、アレンにしがみついた。しばらく経ってから、ようやく尋ねる。

「本当に、いいの?」

「ああ。今度は、きみのために自分を使いたい」

 アレンたちの組織は、アンヌ・マリーを頂点としてまとまっている。そこにカティさんを連れ帰るのでは、やはり、混乱が起きるだろう。

 アンヌ・マリーを慕っていたバイオロイドたちが、反逆とまではいかなくても、不服従の動きを見せるかもしれない。そこを他組織に付け込まれる、という可能性もある。

 でも、アレンはそれを乗り越えるつもりでいる。彼に任せてみよう。カティさんも、彼にしがみついたまま、嬉しそうにすすり泣いていることだし。

   ***

 翌日、アレンはお茶の席で、あたしたちに話してくれた。双子の姉妹との出会いから、現在まで。

「最初はカティと付き合っていて、大学を卒業したら、結婚しようと思っていた。それが、大学生活の途中で、アンヌ・マリーの方から近づいてきたんだ。最初、カティのふりをして、ぼくの前に現れたんだよ。カティと同じ髪型にして、似たような服装で」

 うわあ、それはホラーだ。

「それまで、カティに妹がいることは知っていたけど、別の学部だったから偶然に会うこともなかったし、双子とは知らないままだった。カティも、妹のことには触れたくないようだったし。とにかく、アンヌ・マリーとの最初のデートの途中で、カティじゃないと気がついた。でも、その時は既に……何というか……手遅れで」

 つまり、肉体関係に陥ってしまってから、カティさんじゃないと気づいたわけか。アレンの驚愕と後悔が、まざまざ見えるような気がする。

「ぼくが弱かったんだが、それからやむなく……何度か、カティに内緒で、アンヌ・マリーと会うことになってしまって……さすがに、これはまずいと思って、一か月目くらいで、もう会わないと宣言したんだが……アンヌ・マリーに脅迫されたんだ。ぼくがカティと別れないなら、死ぬと言って」

 ますます怖い。

「まさかと思ったが、目の前で、すぱっと手首を切られた。小さな果物ナイフだったけど。恐ろしかったよ。二人とも、血まみれになってしまって。ぼくは止血しようとするし、アンヌ・マリーはそれに逆らうし」

 そういうのを、修羅場というのだろうな。うーむ、あたしは経験したことがない。経験したくもない。

「カティと別れると誓って、ようやく手当てすることができた。幸い、病院には行かずに済んだので、他人に知られることはなかったが」

 あたしは呆れた。アレンのお人よしに。

「そんなの狂言自殺だよ! アンヌ・マリーは、自分で死ぬような性格じゃないでしょう!」

 アレンは苦い顔で頷く。

「それは、ぼくにもわかった。でも、彼女は何度でも、こうやって自分を傷つけるだろうと思った。ぼくがカティと別れるまでね」

 う、そうか。

「そこまで必死になる娘を、とても見捨てられなかった。だから、カティと別れたんだ」

 すごい、アンヌ・マリー。まさしく体当たりで、姉からアレンを奪ったわけだ。

 あたしなら……できない。そこまでは、とても。

 だって、恋愛なんて、人生のごく一部にすぎないもの。人によっては、ものすごく大きな一部なのだろうとは思うけど。

 恋愛は……なくても生きられる。たぶん。他に、夢中になれるものがあれば。

 そういうところ、あたしは冷たいのか。だから、最高幹部会に見込まれたりするわけか。

 そうだな……今は、どんな改革をするかで頭が一杯だ。ジェイクたちが来てくれたら、ああしてこうして、と計画を立て始めている。まずは、本物の総督にならなくては。

「カティは誰にでも好かれる優等生だったから、ぼくが去っても、他の男と幸せになれると思った。だから自分は、アンヌ・マリーを幸せにしようと決心したんだ。他の男では、アンヌ・マリーのわがままを受け止められない。いや、彼女はわがままというより、意志が強くて、自分の考えを持っているだけなんだが。それは市民社会では、身勝手と言われてしまう資質だからね」

 困ったものだ。アレンには包容力がありすぎる。だから、アンヌ・マリーに見込まれてしまったのだろう。

「しかし辺境では、それはプラスに働いた。アンヌ・マリーは優秀な統率者だったよ。ぼくは自分たちの組織を育てることに必死だったので、市民社会を振り返る余裕がなかった。カティがあれからずっと苦しんでいたなんて、ユージンから連絡を受けるまで、知らなかったんだ」

 カティさんは白いドレスを着て、アレンの横にぴったり張りついている。頬は薔薇色に照り輝いて、緑の瞳も濡れたような輝き。雨の後に開いた花のようで、瑞々しく、美しい。たった一晩で、見違えるほど艶麗になった。この姿を見てしまったら、もう、

「おめでとう。アレンと幸せにね」

 と祝福するしか、ない。今回は、カティさんの粘り勝ちだ。ずっとあきらめずに思い続けたことで、こういう結果になったのだ。

 その代り、アンヌ・マリーを目覚めさせた時が怖いけど。

「ありがとう。ごめんなさい、ジュン。せっかく秘書にしてもらったのに、何もしないうちに離れることになって」

「そんなこと、いいから、気にしないで。それより、アンヌ・マリーの代りに組織に入る方が大変だよ」

「それは、何とかやってみるわ。あの子にできたことなら……いえ、わたしは、わたしのやり方でやってみる」

 まあ、アレンが一緒なら、何とかなるだろう。助けが必要な時は、相談してくれればいい。

 彼らが《アグライア》を去った後で、あたしはメリッサに聞いてみた。

「ねえ、ああいう大恋愛、したことある?」

 メリッサはため息をつく。

「残念ながら、ありませんわ。小恋愛さえ、ありません。そんなことがあったら、中央で平凡な母親になっていたかも」

 やはり、夢見る乙女だ。それでいて、違法組織内で出世できるのだから、不思議なもの。いや、恋愛に気を散らさない方が、仕事向きなのか?

「ユージンは?」

 とサングラス男に話を振ったら、冷淡な態度。

「人に聞くなら、まず自分が打ち明けたらどうだ?」

 ふん。

「あたしだって、そんな経験、ないよ。あったら、こんなところに来ていないよ」

 子供の頃、空手道場の先輩に憧れたり、友達のリエラのお兄さんに憧れたりはしたけれど、それはみんな、淡い片思い。会わなくなったら、自然に忘れてしまった。

 まだ忘れていない片思いもあるけれど……仕方ない。あたしは、戦う人生を選んだのだ。仲間として傍にいてもらうだけで、十分だと思わなくては。

「あら、ジュンさまには、エディ・フレイザーという恋人がいるはずでは? 報道では、いつも一緒に映っていましたわ」

 メリッサまで、それを言うか。

「違うよ。エディは船の仲間。付き合ってるふりをしていれば、防壁になるから、そうしてきただけ」

「あら、本当にそれだけなんですか?」

「それだけだよ」

 納得されていない気はしたけれど、どうでもいい。とにかく、この件は落着した。数年後にまたもめるようなら、その時のこと。

 カティさんがうらやましくて、切ない気分もあったけれど、それは忘れよう。あたしはまず、仕事に集中しなければ。

アグライア編4 9章 ダグラス

「みんな、行ってしまったよ。何だか、すっかり気が抜けてしまって。急に、二十歳くらい老け込んだような気がする」

 わたしは通話画面の相手に向かって、愚痴をこぼした。

「まさか、こんなことになるとはなあ」

 ドナ・カイテルは相変わらず冷ややかで、毅然としている。それが、彼女のいいところだ。

「娘が父親離れするのは、当然でしょ。これまで、べったりしすぎだったのよ。あなたもいい加減、子離れなさい」

 その通りだ。しかし、ジュンばかりでなく、ジェイクもルークもエイジもエディも、みんないなくなってしまって。

 親友のバシムだけは残ってくれているが、彼には妻も息子たちもいる。離れている時間が長くとも、孤独ではない。

「仕事も取り上げられてしまって、することがなくてね」

 と苦笑した。安全対策だと言われ、わたしとバシムはまだ、軍基地に軟禁されたままだ。仕事の再開が許されるのは、いつになることか。

「どうせ軟禁されているのだったら、どこかの島にでも行かせてもらったらどう? 他に人のいない離れ小島なら、司法局も警備しやすいでしょう。南の海で釣りでもダイビングでもして、気晴らしすれば。そのうちまた、気力が戻ってくるわよ。娘が巣立ってしまった、空の巣症候群なんだから」

 なるほど、そうか。

「軟禁場所は、ここでなくてもいいんだな」

 さすが、ドナは、わたしと違う視点を持っている。

「一週間ごとに、場所を変えてもらってもいいんじゃなくて?」

「そうだな。交渉してみよう」

 ドナは別の惑星で、重犯罪者用の隔離施設にいるが、快適な個室をもらっているし、そこで好きな勉強をしているようだ。本格的な研究はできないにしても、アイディアを温めるくらいはできるだろう。

 わたしを誘拐し、記憶を操作した罪で逮捕されたが(ジュンが彼女を捕え、軍経由で司法局に引き渡したのだ!!)、くじけてはいない。胸にまだ闘志を秘めて、何か計画している。たくましい。

 わたしはドナと話すと、何か励まされる。新鮮な刺激を受ける。

 わたし本来の記憶を封じられていた間、何か月も彼女と暮らしていたのだ。その時は、自分たちは夫婦なのだと信じていた。今もまだ、その時の感覚が残っている。

 もしかしたら、彼女と結婚するという人生も有り得たのだ。同じ大学にいたのだから。

「あの子はマリカの娘だから、普通の人生では納まらなくて、当然なんだろうな。バシムにも言われたよ。くよくよ心配せず、応援だけしてやれと」

 そういう内輪の話も、ドナは聞いてくれるし、冷淡な顔ながら、わたしの背中を押してくれる。

「辛気くさいわね。そんな年寄りみたいな言い方、しないでちょうだい。あなたもわたしも、まだ若いのよ」

 そうだ。人生の残り時間は十分ある。わたしもドナも、まだ五十歳前。

「あなたはこれから、若い女の子と付き合うことだってできるんだし」

 それには、苦笑するしかない。

「いやいや、それはやめておくよ。ジュンと重なってしまって、保護者の気分になってしまう。それより、きみの方がいい。きみが出てきたら、温泉にでも行こうか」

「ほら、辛気くさい。わたしは賑やかな場所で遊びたいわ」

「それじゃあ、近くに温泉のある都市でどうだ?」

「いいわ、観光ガイドで探しておいてちょうだい。一流ホテルでないといやよ」

「わかってる。きみは何であっても、最高水準を目指す人だ」

 ドナの顔にからかう笑みが浮いたので、慌てて手を振った。

「いや、わたしが最高の男かどうかは別で……」

「そうね、それはわたしが決めることだわ」

「いや、参ったな。きみに合格点を出してもらうのは難しい」

「あなたも、わたしを採点して構わないのよ」

「とんでもない……きみには勝てない」

「そうやって、女をいい気にさせるのね?」

 こういう他愛ない話をするのが、わたしの救いだった。ジュンは遠い戦場にいる。わたしにはもう、何もしてやれない。だが、それでも心配することは止められない。親というのは、一生、親だ。

 それは、わたしの両親も同じなのだろうが。マリカが死んだ時、それまで絶縁していた両親が、はるばる会いにきた。そして、ジュンを引き取りたいと言った。これまで可愛がってやれなかった分、これから償いたいと。

 だが、自分の悲しみで手一杯だったわたしは、それを手ひどく撥ねつけた。ジュンと会うことすら認めず、追い返した。いま思うと、間違っていたかもしれない。ジュンを祖父母に預け、穏やかに暮らさせるという道もあっただろう。

 両親と弟妹がマリカとの結婚に反対したのは、わたしの幸福を願ってのことだ。だが、わたしは親の心配を振り捨てた。若かったのだ。

 今ならもしかして、和解できるだろうか。

 ジュンが巣立った空虚のおかげで、ようやく、両親の痛みも想像できるようになった。手紙を書いてみるくらいは、いいかもしれない。うまくいけば、それが面会に通じるかもしれないし。

 ドナならおそらく、何でもやってみろと言うだろう。

彼女がいずれ刑期を終えて、自由の身になったら、そうしたら……残る人生、一緒に暮らそうと言ったら、彼女は何と答えるだろう?

   『アグライア編5』に続く

姉妹編に『ミッドナイト・ブルー』と『ブルー・ギャラクシー』のシリーズがあります。#恋愛SFで検索してみて下さい。
#古典リメイクでは『レッド・レンズマン』と『紫の姫の物語』があります。短編は吸血鬼ものの『ミカエラの日記』、SFの『天使の眠る星』をどうぞ。

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