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『ペルシアン・ブルー5』

   7 パリュサティスの章

 王家の女たちが暮らす後宮で、久しぶりに会った母リタストゥナは、パリュサティスを見るなり泣き崩れた。

「ああ、こんなに日に灼けて。そばかすだらけになって。髪もばさばさで。年頃の娘が、何という姿なの」

 侍女たちが有無をいわせず、パリュサティスを湯浴みさせ、全身を洗い立てた。香油を塗りつけ、爪を磨き、髪を梳いて手入れする。

(旅の間だって、ちゃんと身綺麗にしてたのに)

 とパリュサティスは不服に思うが、自分の基準と母の基準が異なることはわかっている。

 王女というものは、嫁ぐ日まで、王宮の奥深くにいるのが当然なのだ。馬にまたがって走り回り、末端の兵たちにまで顔をさらすなど、母には心痛でしかあるまい。せめて都にいるうちは、母の言いなりになろうと決めていた。

(そのうち、家出するかもしれないけどね……兄さまが、あたしを次の旅に連れていってくれなかったら)

 ミラナもまた、別室で湯浴みと着替えを勧められた。旅の間は王女の唯一の侍女だったが、後宮へ戻れば、大勢の侍女の一人に過ぎない。采配を振るうのは、リタストゥナ妃の元にいる古株の侍女たちだ。

「あなたも大変だったわね」
「お疲れさま」

 と年上の侍女たちにねぎらわれるのはよいが、その実はじっと観察され、

(身籠っていないかしら)

 と確認されているのがわかった。アルタクシャスラ王子のお手付きと思われているのだから、仕方ない。

 実際には、少し痩せたかもしれない。いつもパリュサティスの心配をするのに忙しく、自分のことは後回しになっている。

 しかし、パリュサティスは旅の前よりぐんと背も伸び、肉付きもしっかりしてきていた。悩みがあってもよく食べ、よく眠ることには変わりない。このぶんなら、いずれ初潮を迎えるだろう。

(そうなってもまだ、旅に出ようとなさるでしょうね……あの方は)

 ただし、アルタクシャスラ王子は、次の旅については、女たちに何も確約しなかった。以前なら、次の予定はどの方面だと、説明してくれたものなのだが。

(兄さまったら、何を考えているのかしら)

 パリュサティスは不満を抱えていた。毒蛇事件から都までの帰路の間、兄王子はずっとよそよそしく、パリュサティスが話しかけようとしても、するりとかわしていた……追いかけようとすれば、小隊長たちに邪魔をされるだけ……しかし、この都にいる間なら、何とか捕まえられるはず。

「さあ、よろしゅうございますよ」

 侍女たちはパリュサティスを磨き上げると、新しい衣装を着せた。緑の目を引き立てるよう、緑の濃淡に染め分けられた毛織物の長衣だ。手首には金の腕輪をはめ、耳にも宝石の耳飾りをつけ、首には真珠の首飾りと金の首飾りを重ねてかける。水に落ちたら、宝飾品の重さで沈んでしまうだろう。

 赤い髪はきちんと結い上げられて、金の髪飾りで留められ、長く裾を曳く薄いヴェールで頭から覆われた。パリュサティスは、丈の長い正装の衣装や、あちこちにひっかかるヴェールが好きではないが、母の機嫌がよくなるようにと我慢した。一目で王女とわかる身支度をしていなければ、後宮の決まりに反するのだ。

(また、旅に出るまでの辛抱だわ。今度は、インダス川の本流を見たいわね。象って、どんな生き物かしら。象部隊の戦いぶりも、見てみたいし)

「どうです、この真珠、素晴らしいでしょう」

 母に言われて初めて、パリュサティスは、自分の首を飾った白い粒の連なりが貴重品であることに気がついた。虹のように複雑な光を帯びた、艶やかな大玉を連ねてある。

「綺麗ですね」

 山の宝石は幾らでも献納されてくるが、海の宝石は希少だ。母が日頃、首にかけている真珠より、良質かもしれない。

「ダラヤワウシュさまからの贈り物なのですよ。そなたの誕生日にと戴いたのです」

 予期していなかった名前に、パリュサティスは赤茶色の眉をひそめた。茶色い髪に水色の目をした、異母の兄。屈強な武人であり、何年も前から皇太子の冠を戴いている。率いる親衛隊の規模も、どの王子より大きい。

「十二の誕生日は、もう過ぎましたけど」

「とにかく、お礼は申し上げるのですよ」

 ダラヤワウシュ王子も自分の兄には違いないが、アルタクシャスラ王子を襲った度々の暗殺未遂事件のため、その名はパリュサティスの脳裏で〝危険人物〟に分類されている。

 毒矢、毒蛇、毒蠍、毒草、毒きのこ。

 これまでアルタクシャスラ王子が生き延びてこられたのは、半分は用心深さのためだ。料理はまず、番犬に食べさせる。眠る時であっても、武器は傍に置く。

 そして残りの半分は、パリュサティスの活躍のためだ。旅の間は常に兄の近くにいて、兄が座る場所、口にするもの、献上されるもの、全てに目を光らせる。総督の屋敷でも、街道の宿舎でも、砂漠の野営地でも。

 だから親衛隊の兵たちは、パリュサティスのことを『我らの守護女神』と呼ぶ。あるいは『アナーヒター女神の申し子』と。

 数々の暗殺未遂は、誰が仕掛けたか定かではないが――下手人は捕まらなかったか、命を失ったかどちらかだった――アルタクシャスラ王子を目障りと考える者は、皇太子の周辺にも少なくないはずだ。もしかしたら、皇太子自身が、出来のよすぎる弟を疎んじているかもしれない。

 それなのに、目障りな弟の側に張りついている異母妹に、高価な贈り物とは。

「それでは、お礼の手紙を書いておきます」

 最低限の礼儀を守って、それ以上は近付かない方がよいと、パリュサティスは判断した。自分を懐柔して、皇太子陣営に引き込もうとしているのなら、なおのこと。

「そうなさい。それから、わたくしとそなたは、明日、アマーストリーさまの宴席に招かれています。そなたが無事に帰還したお祝いをして下さるそうです。余計なことはしゃべらず、お行儀よく振る舞うのですよ」

 母はそれを、名誉なことだと思うらしい。父王の第一妃アマーストリーは、後宮の支配者だ。実家は大貴族だし、本人も気性が激しい。第二妃以下の妃たちも、多くの側室や侍女たちも、奴隷や宦官たちも、アマーストリーを畏怖している。彼女に憎まれ、虐殺された妃もいるという。パリュサティスも、呼ばれれば、行かないわけにはいかない。

 だが、なぜ自分などのために、わざわざ宴席を設けるのだ。自分など、たくさんいる王女の一人に過ぎないではないか。

 もっとも、異母の姉たちはあらかた嫁いでいったから、後宮に残る王女としては、パリュサティスは年長の方だ。

 アマーストリーとしては、そろそろ、自分の威厳を示しておくべきだと思うのかもしれない。すぐにパリュサティスを捕まえないと、また次の旅に出てしまうだろうし。

「わかりました。いい子にしています」

 母と向き合っての食事が済むと、パリュサティスはようやく解放されて、自分の小部屋に引き取った。木々の茂る中庭を望む椅子にいると、涼しい風が通っていく。ミラナもやってきて、蜂蜜を入れたレモン水の杯を差し出すと、傍らの石段に座った。

「落ち着かれましたか?」

「うん、ようやくね。あなたも、ゆっくりするといいわ」

 王宮にいれば、ミラナも下級の侍女を使って、優雅に暮らせるのだ。

「はい、そうします。……その首飾り、本当に素晴らしいですね」

「うん。あたしには勿体ないわ。ミラナの方が似合いそう。明日の宴席が済んだら、ミラナにあげましょう」

 王宮には、衣装も装身具も溢れている。王妃や王女が自分の持ち物から、侍女に何か与えることは珍しくない。ミラナには、旅の間ずっと苦労をかけたのだから、そのくらいは報いたかった。

「とんでもないことです。王家の方でなければ、身に付けられる品ではありません」

 ミラナが慌てて言うと、パリュサティスはからかう態度になった。

「ミラナも、望めば、兄さまと結婚できるのよ?」

 ミラナの家は、リタストゥナ妃の遠縁だ。家柄からして、第一妃になるのは無理でも、第三か第四なら問題ないだろう。アルタクシャスラ王子はまだ正妃を迎えていないが、結婚は王子の義務だ。いずれ、どこかの大貴族の姫が輿入れすることはわかっている。

 それを思うとパリュサティスは胸が痛んだが、我慢できるはずだと思い直した。旅に同行し、統治の手助けをすることで、兄とのつながりを保てさえしたら、それで十分なはず。

「わたくしは、どなたとも結婚いたしません。ずっと、姫さまのお側にいますから」

 ミラナが澄まして言うと、パリュサティスはわざとらしく難しい顔になる。

「やれやれ、どうしてそう頑固なの?」

 ミラナは笑って答えた。

「姫さまの影響ですわ、もちろん」

 これもまた、何十回と繰り返してきた会話だった。幸せな結婚になるかどうかは、相手の男次第だ。そして女には、夫を選ぶ自由はあまりない。独身でいたければ、神殿の女祭司か、その侍女にでもなるしかあるまい。

(あたしは逃げるわ……本当に、結婚させられそうになったら)

 パリュサティスは幼い頃から、脱走が得意技だった。最初は中庭で木登りして遊んでいたが、そのうち、張り出した木の枝から、建物の屋根に移れることがわかった。胴体に綱を巻いていけば、屋根から屋根を伝い、適当な場所で、目立たない回廊や、茂みの中に降りることができる。

 いったん後宮を出れば、王宮の雑踏に紛れることはわけもなかった。料理を運ぶ奴隷や、客人の荷物を持つ小姓、用を果たす侍女や警護の兵士など、常に大勢が動いている。

 躰が小さいので、柱の陰や家具の下に隠れることも容易い。大人たちの会話を盗み聞き、何がどうなっているのか、推理するのは面白かった。

 侍女と兵士が、素早い逢い引きをするのも見られた。宦官が宮殿の品物を服の下に隠して持ち去ったり、商人から何か秘密の品を受け取ったりする場面も見た。不穏な企み事を聞いてしまい、身の危険を感じた時は、息を潜めてじっとしていた。狩りに劣らぬ冒険だ。

 好きなだけあれこれ見聞きして、帰りたくなったら、堂々と後宮に戻ればよい。誰も、王女を厳しく処罰することはない。ただ、母に叱られるだけだ。何日かは見張りが厳しくなるが、いずれまた、抜け出す隙はできる。

 さすがに、二度と戻らないつもりの脱走となると、話は別だが……

 まずは、表の宮殿にいる兄の元へ行ってみよう。何日かして、母の警戒がゆるんだら。そして、次の旅はいつになるのか、聞き出すのだ。

(もし、あたしを置いていこうなんてしたら、ゾルタスの部隊に隠してもらって、ついて行くものね。都を遠く離れてしまえば、兄さまだって、あたしに帰れとは言わないでしょうよ)

 ***

 アマーストリー妃の部屋は、後宮で一番よい一画を占めていた。家具や壁掛けや道具類も豪華で、侍女や宦官も数多く、来客を威圧するかのように、壁際にずらりと並んでいる。

 まだ壮健なアマーストリー妃は、華やかな衣装に身を包み、格下の女たちを機嫌よく出迎えた。

「よく来てくれましたね。リタストゥナ。パリュサティスも、無事に帰ってきてよかったこと。今日はゆっくり、旅のお話を聞かせてもらいましょう。まったく、王家の娘で、あなたほど旅した者はいませんよ」

 パリュサティスとリタストゥナ妃の二人は、窓辺の豪華な寝椅子に案内され、山ほどの料理や菓子を勧められた。しかし、パリュサティスは食べるそぶりだけして、ほとんど口をつけなかった。

 自室ならば毒味役の犬を利用できるが、ここではそれも叶わない。自分が毒殺される危険はないと思うのだが、アマーストリー妃が、過去に目障りな相手を陥れた話は聞いている。

 求められるまま、旅の間の珍しい出来事、出会った人々について話していたが、内心では、早く退散できることを内心で祈っていた。そこへ先触れもなく、いきなり現れた人物がある。

「おや、母上、来客でしたか」

 大柄で屈強な男子――ダラヤワウシュ皇太子だった。丈の長い青い衣装を身につけ、首にも腕にも、宝石を散りばめた重い金の装身具をきらめかせている。頭にかぶった宝冠は、皇太子の印だ。背後には、武装した側近たちが控えている。
 
「ダラヤワウシュさま」

 パリュサティスと母は立ち上がって丁重に挨拶したが、どうやらこの面会が、この宴席の目的らしかった。成人した王子が後宮に出入りすることはあまり歓迎されないが、皇太子が生みの母に面会に来ることは邪魔されない。

「変わらずお美しい、リタストゥナさま。お目にかかれて嬉しく思います」

 ダラヤワウシュ王子は第五妃に機嫌よく挨拶した後、パリュサティスの手を取った。

「久しぶりだな、パリュサティス。だいぶ娘らしくなったではないか」

 と、からかうような笑みを見せる。

 滅多に会わない相手だが、パリュサティスには苦手だった。自分のことを、頭のおかしな小娘と思っているのが伝わってくるからだ。数学や天文学など、学者に任せておけばいいのに、なぜ自分で学ぼうとするのか、この兄には理解の埒外であるらしい。

「お久しゅうございます、お兄さま」

「ずいぶんと長い旅をしてきたようだな。疲れただろう」

「いいえ、とても楽しく過ごしてきました。リュディアからナイルまで、ずっと回ってきましたから。帰り道では、北の大塩湖にも寄ってきたのですよ。海育ちの兵たちに習って、水泳も鍛錬しました。アルタクシャスラ兄さまの部隊の兵は、全員、泳げるようになりましたよ」

 パリュサティスは微笑んだが、堅い声になるのは止められなかった。親しくないのに、親し気な素振りをされるのは恐ろしい。

 同じ王家といっても、王子と王女では生活圏が異なる。異母の兄妹ならば、たまの行事や宴席で挨拶を交わすくらいのことだ。アルタクシャスラとパリュサティスのような緊密な間柄こそ、例外なのである。

「それはよかったな。せっかく会えたのだから、ゆっくりと旅の話でも聞こうではないか」

 大きな手に手を取られてしまい、それをほどけないまま、中庭の方向へ誘われた。パリュサティスは母に眼差しで(心配しないで)と合図してから、異母兄に従った。母はアマーストリー妃に話かけられ、席を離れられないでいる。

(この人が、あたしに何の用があるのだろう。あたしから何か、アルタクシャスラ兄さまことを探り出そうというのだろうか)

 階段を降りて中庭に出ると、宦官が大きな日除けの傘を差し掛けてきたが、皇太子はそれを断った。木陰を歩くからと言って、パリュサティスの手を取ったまま、川の水を引いた華麗な庭園を歩み出す。

 大きく育った木々には果物が実り、各地から取り寄せて育てた花が、競うように甘い香りを放っている。いつもは女たちの寛ぎの空間であり、流れに手足を浸しておしゃべりしたり、寝椅子で昼寝したりすることもあるのだが、皇太子が歩いている今は、みな遠慮して引き下がっている。

 そこら中の物陰で、女たちや宦官たちが、こっそりこちらを窺っているだろうとパリュサティスは思った。この珍しい組み合わせが何を話すのか、興味津々でいるはずだ。

「そう怖い顔をするな。兄が妹と話すだけだ」

 と笑われたが、互いに敵陣営だと承知しているからこそ、こういう形になるのだ。

 皇太子に万が一のことがあれば、次の候補者はアルタクシャスラ王子――有力な王子は他にもいるが、血筋、人格、後援する貴族など、さまざまな要素を考え合わせると、そういうことになる。それならば、兄が実の弟を警戒するのは当然のこと。

「真珠は気に入ったか」

 と問われ、パリュサティスは慌てて礼を言った。

「もちろんです。あたくしには勿体ないくらいの品。大切にします。でも、本当は、お兄さまのお妃さまにこそ相応しいのでは」

 今日、首にかけてこなかったら大変だったと、パリュサティスは思う。ミラナにあげるのは、やめておいた方がいいかも。

「そなたには、最上のものが相応しい。今日は、これを持ってきたのだ。気に入るとよいが」

 異母兄は立ち止まり、腰の飾り帯から小袋を外した。中から出てきたのは、大粒の緑の石を使った耳飾りだ。最高の職人に作らせたに違いない。確かに、自分の緑の目には、よく映えるだろう。

(そんなに、あたしを買収したいとは)

 どんな頼み事をされるのか、パリュサティスは恐ろしくなってきた。しかもダラヤワウシュ王子は、それを自ら妹の耳に付けようとする。パリュサティスとしては、元からしていた耳飾りを外して、贈り物を受けるしかない。

「ありがとうございます。これは、何のお祝いなのでしょうか」

「そうだな。そなたが無事に戻ったことかな。だが、理由がなくても別に構うまい。よく似合うぞ」

 皇太子は大きな手でパリュサティスの顔を仰向けさせ、くすぐるようにして、あごを撫でてくる。内心、寒気がした。兄が妹にとる態度ではないと、パリュサティスは思う。

(アルタクシャスラ兄さまだって、あたしにこんな真似、したことないわ)

 幼い頃、焚火の側で眠ってしまった自分を、抱き上げて天幕まで運んでくれたことは、懐かしい思い出だが。

 しかし、内心の不快を顔に出さない努力は、パリュサティスもしていた。高齢の父に何かあれば、明日にでも、この男が最高権力者になるのだ。わずかな無礼でも、処刑の理由になる。

「ところでそなた、婚儀の話が進んでいること、承知しているのか」

 パリュサティスは、しばし、話についていけなかった。

「婚儀……ですか? どなたの?」

「おや、やはり知らないのだな。アルタクシャスラだ」

 その途端、氷でできた剣を打ち込まれたように胸が痛み、苦しくなった。息ができず、視野が暗くなる。立っているのも辛い。頭から血が引いていくようだ。波立ちを顔に出すまいとしたが、無理だったろう。

「……そうなのですか」

 いつ。いつ結婚するの。相手は誰。

 アルタクシャスラ兄さま、ひどい。あたしに何も言わないで。

 いえ、わかっている。自分には、止める権利はない。ただ、考えたくなかっただけ。兄さまがあたしより、他の誰かを特別に大事にするなんて。ああ、だから帰り道、あんなによそよそしくなったのね……

「まあ、奴も妻を持てば、少しは腰が落ち着くだろう」

 旅自体は王に命じられたものだが、アルタクシャスラはそれを口実に、なるべく長く王宮から離れるようにしていた。その方が安全だと思っていたことを、パリュサティスは知っている。それをまた、皇太子もわかっているはずなのだ。

「そなたも、もう旅に連れ出してはもらえまいな。妻を差し置いて、妹を連れ回すなど、外聞が悪かろう」

 楽しげに言われたが、今のパリュサティスには、どうしたら失礼にならず、この場から逃げられるかしか考えられない。どこかで一人になって、冷静になる時間がほしい。

「仕方……ありません」

 そう? そうなの? 結婚しても、あたしのことは、また別ではないの? 外聞て、何なのよ? そんなにみんな、人の目ばかり気にしているの?

「そうだな。しかし、わたしなら、そなたを連れ歩いてやれるぞ」

 しばらく、言われたことが理解できなかった。異母兄の楽しげな水色の目を見上げて、パリュサティスはようやく気がついた。何か企んでいるのだ。だが、自分などを罠にはめて、何の得があるのか。

 次の言葉は、落雷のような衝撃だった。

「わたしの妻になればよい。そうすれば、そなたの願いは何でも叶えてやれる」

 何、何ですって。

 パリュサティスには、驚愕と疑惑しかない。もう既に、何人も妃がいる人が、どういうつもり。

「そなたは王女だ。わたしの第一妃になる資格がある。わたしが即位すれば、そなたが帝国第一の女性になるのだぞ」

 あたしが……王の妃になる?

 この男の妻になって……後宮に君臨する?

 それでこの男に、何の得があるというのだ。冷静に分析しようとしたが、パリュサティスはうまく頭が働かなかった。衝撃が強くて、しびれたようだ。

「からかわないで下さい。兄さまには、素晴らしいお妃さまが何人もおられるのに……」

 声が震えたのが、自分でいまいましい。

「可愛い女たちだが、ただの貴族の娘だ。〝女神の申し子〟などではないからな……そなたは誰の隣に立つより、このわたしの隣に立つのが似つかわしい」

 そこでようやく、理解が芽生えた。もちろん、政略の一つなのだ。それにしても、自分の評判など、皇太子が気にかけるほどのものではないだろうに。

 そうか、この人は、わずかでも利益になるものなら、何でも手に入れようというのだろう。近親婚にも、何の抵抗も持っていないのだ。アルタクシャスラ兄さまは、近親婚を続ければ、王家は閉じていき、衰退すると考えているのに。

「あたくしは、皇太子の妃になどなれません。そんな資格はありません。外を出歩いて、大勢に顔をさらしてしまいましたから……」

 しおらしく謙遜してみせた。他に、何を言えばよいだろうか。

 市場で供を撒き、こっそり酒場や売春宿に忍び込み、男と女が何をするか、屋根裏から覗き見てしまったとか。

 遠乗りの時、羊飼いの娘を襲ったならず者を咎め、矢で射殺したとか。

 盗賊の後を尾行して、隠れ家を突き止め、兄の部隊を案内して壊滅させたとか。

 母が聞いたら卒倒するだろう〝はしたない〟真似を、散々してきた身だ。でも、この兄なら笑い飛ばすかもしれない。

「そんなことは、少しも構わん。わたしの妻になっても、好きに出歩くがよい。護衛は付けてやる。そなたの望むように、庶民の子供のための学校を作るのも自由だ」

 パリュサティスははっとして、大柄な男をまともに見上げた。武勇自慢の皇太子だが、馬鹿ではない。それどころか、わかっているのだ。自分が何を望み、アルタクシャスラ王子に何を託しているか。

「学校を……あたくしが、作ってよいのですか?」

 期待してはならない。そんな都合のいい話、あるはずがない。きっと今だけの口約束だろう。

 だが、もしも、本当にそれが実現したら。

 大勢の娘たちが読み書きを覚え、自分で商売ができるようになれば、望まない結婚をしなくてもよくなるはずだ。

 そういう世界を創るのが、自分の夢。

「そなたの望みなら、総督たちにも布告を出して、帝国全土に学校を作らせることもできる」

 それこそ、自分がアルタクシャスラ王子に望んでいたことではないか。

(兄さまが王になれば、そういう改革が実現できると思っていた。でもまさか……この人が、あたしにそんな約束をするなんて)

「それに、奴隷を解放したいと願っているそうだな。それも協力してやれるぞ」

 ぞくりとした。まさか。奴隷制度は、もう何千年も続いてきたものだ。そう簡単に、廃止できるはずがない。自分で夢見ていてさえ、半ばは無謀すぎると思ってしまうほど。

「もちろん、奴隷制度そのものをなくすのは無理だが、たとえば、一定の年月で解放するという法律を作ることはできるだろう」

 ああ、もし、そんなことが実現できたら。

 できるものなら、宦官制度も廃止したいとパリュサティスは願っていた。健康な少年を傷つけ、歪ませてしまうなんて、恐ろしい。後宮の警備なら、女兵士で足りるのだもの。

 しかし、男たちの残酷な性分は、弱い者を簡単に切り捨てる。勝った者は、負けた者をどう扱っても自由だと言い捨てる。

「わたしが王になり、そなたが妃となれば、大抵のことは可能になる。神々の庇護を受け、この地上に、理想の国を建設することができるだろう」

 あまりにも堂々と言われるので、パリュサティスは困惑した。パルサ人は正直を美徳としている。仮にも皇太子が、妃にしようという相手に向かって、真正面から嘘をつくだろうか。

 この場面は後宮中に見られているのだし、自分が母に報告すれば、噂はすぐ広まるのだ。後から、あれは方便だったと言い訳できるものだろうか……

 もし、本当に奴隷解放が可能になるのなら……夢みていたことがあれもこれも、現実となるのなら……この話を受けるのが、王女としての義務ではないだろうか。自分が王家に生まれたのは、世界をより良い場所にするためなのだと信じて、今日まで努力を重ねてきたのではないか。

 頭が破裂しそうになり、心臓の鼓動も強まったが、パリュサティスは胸に手を当てて落ち着こうとした。

(飛びついてはだめ。どんな罠かもしれない。返事は引き延ばすのよ。頭を冷やして考えるの。まだ、アルタクシャスラ兄さまに結婚話を確かめてないわ)

 自分の密かな夢は、もう一つあった。兄の妻になり、共同で帝国を統治すること。

 ただ、兄が近親婚を嫌っているのは知っているから、妹として傍にいられれば、それでいいと思ってきた。

 だが、今の自分の気持ちは。

 もし、アルタクシャスラ兄さまがあたしを妻にしてくれるなら、何番目の妻でもいい。皇太子の第一妃になるより、その方がずっといい。いつまでも、兄さまと一緒にいたい。

 そう強く自覚しながら、口先では、しおらしく言う自分がいる。

「ダラヤワウシュ兄さま、突然のことで、眩暈がしそうです。とてもすぐ、お返事ができるようなことではありません」

 大柄な男は、余裕ありげな笑みだった。

「そうだろうとも。わたしは返事を待てる。そなたはまだ、十二になったばかりだしな」

 ***

 その晩、パリュサティスは深夜を待って、寝台から滑り出た。ミラナは控室で眠っている。革のサンダルを履き、薄物の上に、ヴェールだけひっかけた。これなら、夜目にはどこかの侍女と思われるだろう。重い宝剣は、邪魔になるので置いていく。

 中庭に忍び出ると、放たれている警備犬たちが寄ってきたが、以前から餌をやったり、一緒に遊んだりして手懐けているので、吠えかかることはない。ただ、巡回している女兵士に見つかるのは困る。

「しーっ、おとなしくしててよ」

 パリュサティスは犬たちが見上げる中で大木によじ登り、そこから後宮の周囲を囲む柱廊の屋根に降りた。慣れた逃走経路である。離れた場所から、用意した綱で地上に降り立つと、篝火を避けて闇の中を進む。

(アルタクシャスラ兄さまに、話をしなきゃ)

 皇太子の申し込みを断るには、理由がいる。自分は既に、もう一人の兄の〝お手付き〟だということにするしかない。

 母が嘆こうと、父が不快に思おうと、自分の運命がかかっているのだ、仕方がない。

 たとえ王妃の地位を差し出されても、アルタクシャスラ以外の誰かと自分の人生を結びつけるのは……無理だ。どう想像してみても、ダラヤワウシュ王子の腕に抱かれることが、おぞましいとしか思えない。改革の夢も、その恐怖と嫌悪感の前には薄れてしまう。

(兄さまなら、あたしの考えをわかってくれる。あたしの話を聞いてくれる。兄さまがあたしを女と思わなくても、一緒にいさせてくれるだけでいい)

 そしてもしも、皇太子に何かが起こり、アルタクシャスラが新しい皇太子に指名されたら。

(兄さまが〝諸王の王〟になったら、きっと奴隷のいない世界、女子供が安心できる世界を創ってくれる……)

 それはあまりにも大胆な夢で、さすがのパリュサティスも、ごくわずかな相手にしか語ったことはない。アルシャーマは苦笑して首を振ったし、ミラナは悲しそうな顔をした。

『姫さま、お気持ちはわかりますわ。でも、奴隷がいなくては、誰が辛い仕事をするのでしょう……』

 尊敬する兄もまた、難しい顔をした。

『この世界では昔から、殺し合いをしてきた。勝った者が負けた者を支配して、土地を奪い、奴隷にしてきたのだ。それを変えるとしたら、おそらく、数千年はかかるだろう。男たちは、戦い合い、競い合うようにできているのだよ』

 そうだろうか。殺し合いや奪い合いは、やめられないものなのだろうか。どちらが強いか、賢いか、競争せずにはいられないのだろうか。

 確かに、何人もいる異母の王子たちは、小さい頃は自分と遊んでくれても、やがて、男たちの世界へ去ってしまった。自分が父王の許可を得て、王子や貴族の子弟が通う学問所に通うようになると、

『女のくせに』

 と露骨に厭な顔をした。パリュサティスの方が賢いとわかると、彼らはますます冷たくなり、時には、くだらない意地悪をしてきたものだ。大事な書物を隠すとか、学者の講義について、間違った日時を教えるとか。

(意地悪でなかったのは、アルタクシャスラ兄さまだけ)

 偉大な人物は、いるものだ。帝国の始祖、クルシュ大王は、戦いの済んだ後は、慈悲をもって諸民族を敬服させたというではないか。

 既に帝国が形作られた現在なら、新たな戦いはもはや必要ない。辺境の蛮族との小競り合いはあっても、帝国内では法で秩序を保てるはず。

 それでも王家に生まれた以上、もし、自分が男なら、王を目指しただろう。そして、理想の帝国を目指したはずだ。

 しかし、実際にはこんな細い小娘なのだから、兄に夢を託すしかない。せっかく、自分の理想を理解してくれる王子が存在するのだから。

 見張りの兵たちの目をかいくぐり、建物から建物へ移動して、ようやく、アルタクシャスラ王子の居室の近くまで来た。ここの警護をしている兵たちなら顔見知りだから、姿を見せて構わない。

「姫、後宮を抜け出してこられたのですか!!」

「王宮内とはいえ、どんな輩がいるかわかりませんのに!!」

 兵たちは呆れたが、王子の部屋まで付き添ってくれた。月のない夜だが、回廊や室内には幾つも篝火があるので、深い闇ではない。兄は既に寝台に入っていたが、兵士の声を聞いて、大儀そうに起き出してきた。

「パリュサティス、そなたは、また危ないことを……」

 お小言が始まる前にと、パリュサティスは勢い込んで訴えた。

「兄さま、あたしと結婚して下さい!!」

 王子が唖然とすると、赤毛の少女は一気にまくしたてる。皇太子に求婚されたこと、改革を餌にされたが信用できないこと。自分はこれまでのように、アルタクシャスラの元にいたいこと。

「兄さまがあたしを妻にして下されば、そういう約束があると言って下されば……形だけでもいいの。ほら、ミラナをお手付きのように扱ってくれているでしょ。あたしのことも、そうやって扱ってくれれば、それで十分ですから」

 だが、篝火に半分照らされた兄の顔を見て、パリュサティスは言葉を途切れさせた。迷う姿が見られるかと思ったのに、そうではない。端麗な顔には、既に冷たい決意が浮かんでいる。

「それは、できない。今夜は、わたしも見合いだった。ウィダルナ家の姫を、妻に迎えることが決まった……もう、そなたを連れ歩くことはしない」

 いつもなら流れるように出てくる言葉が、喉につかえてしまった。気がついた時には、パリュサティスは、なぜか床の上に座り込んでしまっている。

 立ち上がれない。手足がいうことをきかない。いま、兄さまにすがらなければ、手遅れになってしまうのに。

 いえ、もう遅かったのだ。こんなはずではなかった。こんな風に、兄さまから見捨てられるなんて……

「後宮まで送ってやれ」

 そう命じて背中を向けた兄を、呼び止められない。こんなことになるために、自分は今まで何年も、兄についてきたのか。

「――姫!!」

 部下から知らせを受けて駆け込んできたのは、ゾルタスだった。口もきけないパリュサティスを、毛布でくるんでそっと抱き上げる。

「王子、せめて朝まで、姫をこちらで休ませてはいかがです」

「そんなことはできない。兄上の婚約者だぞ」

「しかし」

 アルタクシャスラは振り向き、ゾルタスを冷たい目で見下ろした。

「前から尋ねたいと思っていたのだ。そなたはわたしの家臣か。それともパリュサティスの家臣か」

 ゾルタスの本音はわかっていたが、アルタクシャスラはあえて尋ねずにきた。しかし、今ははっきりさせる機会だろう。

「王子の家臣です……」

 それで正解だ。そう答えなければ、ゾルタスも処分しなければならなかっただろう。こちらがそう覚悟していたことを、ゾルタスもわかっていただろうとアルタクシャスラは思う。

「では、わたしの命令だ。パリュサティスを、リタストゥナ妃の元へ送り届けよ」

 王子の暮らす宮殿から、奥まった後宮への通路をたどる間、ゾルタスは腕の中の少女に低くささやきかけていた。

「姫、気をしっかり持って。そんなに泣くものではありません。貴女は、アナーヒター女神の息吹を受けた方ではありませんか。そのことは、このわたしが誰よりよく知っています。打つ手は、いくらでもありますよ。この先、姫がどこにいても、連絡は取れるようにしますから」

 周囲を固めているのはゾルタスの子飼いの部下ばかりだから、聞かれても問題はない。パリュサティスはずっと泣き続け、返事もできないありさまだ。それも、大泣きではなく、黙って涙だけを溢れさせている。

「姫が気力さえ保って下されば、やりようはあるのです。いいですか、早まったりせずに、機会を待つのですよ。いつも我々が近くにいることを、お忘れなきように」

 いつものパリュサティスなら、こちらが励ましたり、指図したりするまでもない。自分の望む方向へ、最短の距離を選んで進む。だが、今夜ばかりはさすがの王女も、普通の乙女のように打ちしおれていた。兄王子への思慕は、姫の唯一最大の弱点だ。

(まったく、あの意気地なしめ)

 ゾルタスは、心底から王子に腹を立てている。これほどの愛情を注がれながら、パリュサティス姫を兄に譲り渡すだと。それでも男か。

 アルタクシャスラ王子は、本当ならもっと早く、皇太子暗殺に動いているべきだったのだ。それをせず、時間を無駄にしたからこそ、こういうことになったのではないか。

 学識はどうであれ、皇太子の方がはるかに賢明だったと、ゾルタスは苦々しく思う。パリュサティスの価値を理解し、手に入れようとしたのだ。たとえ、玉座を手に入れるまでの人気取りの手段だろうと、恥じることなく行動した。

 そういう図太さ、泥臭さが、アルタクシャスラ王子にはない。時には、蛮勇も必要だというのに。だから、大多数の貴族は、ダラヤワウシュ王子を高く評価しているのだ。

 とにかく今夜は、パリュサティスを後宮に戻すしかなかった。ゾルタスが勝手にどこかへ連れ出せば、それこそ反逆罪だ。

 無念でならない。明日になれば、おそらく皇太子がパリュサティスの周囲を固めてしまうだろう。ゾルタスが連絡を取るのにも、苦労するはずだ。

 しかし、パリュサティスが冷静になりさえすれば。

 彼女はいまだに、祖母の形見の髪飾りを愛用しているのだ。蛇毒を塗った針が、そこには隠されている。効果は、ゾルタスが山羊で実験済みだった。皇太子が油断した時に、パリュサティスがそれを刺せばよい。かすり傷でよいのだ。

 皇太子が急死すれば、その混乱をついて、アルタクシャスラ王子を押し出すことは可能だ。そうなれば王子も、自分が皇太子になることを受け入れるだろう……まさか、王女のそこまでの献身を無にするほど、愚か者ではあるまい。

(臆病者ではあるがな)

 なまじ賢いために、兄と戦う苦労や、国を統治する苦労を予測してしまい、ためらってしまうのだ。いったん戦いを始めてしまえば、もう思い煩う暇はなくなるというのに。


   ペルシアン・ブルー6へ続く


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