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『ペルシアン・ブルー9』

11 ミラナの章

 夢を見ているようだった。ミラナとパリュサティスを両腕に抱えた魔物は、冷たい夜気を切り裂く勢いで、はるか彼方の空を目指している。

 これまで、大神アフラマズダと悪神アンラ・マンユの戦いの物語や、人間を苦しめる魔物たちの話を聞いたことはあっても、実際にそれらしい怪異を見たことはなかったのに。

 自分たちを支えている腕には、長い爪もうろこもなく、普通の男性の腕と変わらないと思える……

 ミラナが妙に落ち着かないのは、これまで、こんな風に男性に抱かれたことがないからだ。

 王女の供をして馬で旅をする時、護衛兵たちに抱え降ろしてもらったり、たくましい背中にかばってもらったりしたことは幾度もあるが、それは大抵、ほんの数秒のことにすぎなかった。こんなに長い時間、堅い胸板や、強い腕力を肌身に感じていたことはない。

 新月を過ぎたばかりなので、月はとうに沈んでいた。ミラナは身をよじり、わずかな星明かりの中で、魔物の顔や表情を見分けようと試みる。

 その彫りの深い顔立ちは、比較的、若い男性のもののように見えた。若者ではないが、老いてもいない。ただ、苦痛の多い人生を過ごしてきたかのように、堅くこわばっている。普通の男性と違うのは、ただ躰の冷たさだけ……

「寒いっ!!」

 それまで耐えていたらしいパリュサティスが、ついに叫んだ。冷たいはずの夜風は、自分たちの手前で割れて左右に流れ去るようだが、魔物の躰そのものが冷たいのだ。

「ねえ、そこらでいったん下ろして、休ませてちょうだい。ここまで来れば、もう追っ手も心配いらないでしょう?」

 すると魔物は無言のまま、がくんと高度を下げた。二人の女は魔物の腕に抱えられたまま、互いにひしと手を握り合ってしまう。

 この高さから、もし間違って落とされでもしたら、いつか、狩りの途中で崖から落ちた兵士のように、見分けもつかない肉片に成り果ててしまうのではないだろうか。

 けれど、自分たちを包む夜風がぬるくなってきたようだ。高地から、低地に降りてきたためだろうか。あるいは、かなり南の土地まで来たのだろうか。空気が暖かければ、魔物の躰が冷たくても、耐えやすい。

「姫さま、ご気分は大丈夫ですか」

 ミラナはそっと尋ねた。さしもの王女も、今夜は、さぞや衝撃を受けたはずだ。婚約者たる皇太子から、まさか、あんな侮辱を受けようとは。

「上々よ。だってミラナ、あたしたち助かったのよ。悪役を全部、この魔物が引き受けてくれたんだもの。ねえ?」

 パリュサティスの口調が、伝法なまでに明るくなっている。ミラナは驚いた。魔物に世界の果てまで連れ去られるという、この状況が、皇太子暗殺よりも、どれほどましだというのだろうか。

 しかし、パリュサティスは野放図に言う。

「面白かったわ。兵たちには気の毒だったけど、兄さまにはいい気味だった。ダラヤワウシュ兄さまも、あれで少しは、謙虚ってものを学んだかもしれないわ。この世には、まだ人知を超えた出来事があるのよ!!」

 そんなに浮かれていいのだろうか、とミラナは不安になる。それとも、魔物に弱みを見せまいとする演技なのか。

「とりあえず、お礼を言うわね、魔物さん。どうもありがとう、聖都から連れ出してくれて」

 王女の切り替えの早さに、ミラナはついていけない。

「知っているかもしれないけど、あたしはパリュサティス、こちらはミラナよ。さあ、そちらも名乗りなさい。魔物だって、名前くらいはあるんでしょ」

 ミラナは恐怖で息を詰めていたが、魔物はむっつり答えただけである。

「名前はない。勝手に呼べ」

 王女はすぐに食いついた。

「名前がないなんて、そんなはずはないわ。あなただって、親から生まれたんでしょう。違うの? 魔物の仲間だって、いるんでしょう? 呼び名がなければ、困るはずだわ」

 魔物はそれには返事をせず、ただ、ぽつりと言った。

「海に出たぞ。これを越えたら、降りて休ませる」

 女たちは下を見た。眼下の真っ暗な広がりは、では海だったのか。パルサ本土から南に抜けて、エリュトラ海に出たのだろうか。

「見て。あれは船かしら」

 パリュサティスの言う方向を、ミラナも見た。確かにそうだ。船団を組んでいるらしい、ささやかな光の群れ。インダス下流に向かう商船か。それとも沿岸警備か、航行演習の軍船か。

 パルサ人は陸の民族だが、フェニキア人やイオニア人から学び、急速に海軍力をつけているという……いずれは本当に、海の彼方まで船団を送り出すかもしれない。

(姫さまとアルタクシャスラさまがご一緒なら、すぐにでも、世界周航の船団を建造なさるでしょうに)

 二人の運命が分かれてしまったことが、ミラナには残念でならない。

 その時、魔物がぐんと降下しはじめた。潮の匂いが強くなる。やがて、ザザッと砂利のこすれる音がして、魔物が暗い地上に舞い降りたらしい。それから、革靴をはいた女たちの足の裏が、土と小石の地面についた。空を飛んだあとでは、地上にいることが不思議に思えてしまう。

 支えの腕を外された途端、ミラナはくたくたと地面に崩れこんでしまった。打ち身の苦痛もあるが、やはり、心身共に疲労しているのだ。この魔物が現れなかったら、皇太子に斬り捨てられていただろう。

「ミラナ、大丈夫?」

「はい……何とか」

 二人の女は手を取り合い、全身に潮風を浴びた。すぐ近くで、波の音がしている。それほどの寒さではないが、二人とも屋内用の薄物しかまとっていないので、いささか心細い。

「アラビアの海岸だ。このあたりは隊商路からも外れているから、誰も来ない」

 魔物はそう言うと、ざくざくと砂利の上を歩いて遠ざかった。降るような星空を背景にして、暗い輪郭はわかったが、地上は真っ暗で何も見えない。

 けれど、闇の中にぽっと赤い火がともった。海岸の枯れ枝を集めて、魔物が火を熾してくれたのだ。パルサの高地よりはましだが、夜中の海岸もそれなりに冷え込んでいる。

「病気になられてはかなわんからな」

 魔物は自分がまとっていた厚手の黒布を肩から外し、ミラナに放り投げてくる。炎のおかげで、背の高い、屈強な骨格をした、黒髪の男性であるのがわかった。言葉はアラム語だし、肌は浅黒いようなので、パルサ人でないことはわかる。

「夜が明けたらまた飛ぶ。それまで休め」

 二人は貸してもらった布に一緒にくるまり、焚火の熱で躰を暖めた。その間に、魔物は歩いて火から遠く離れ、真っ暗な岩の丘のどこかに消えている。明かりが嫌いなのかもしれない。あるいは、女たちだけにして寛がせてやろう、という配慮なのかもしれない。

「そういえば、剣も弓矢もありません。何も持ち出す暇がなくて」

「いいわよ、別に。あの魔物がいてくれたら、獣も盗賊も寄ってこないでしょう」

 まさか、こんな風にパルサ本土から離れようとは。ただ、ミラナの下着類には、こっそり金貨や宝石が縫いつけてある。事態の急変に備えた準備だった。これから先、役に立つことがあるかもしれない。

「せっかくの髪飾りが、無駄になりましたね」

 おそらくは、魔物の力で毒針が封じられたことを聞くと、ミラナはそう言ったが、パリュサティスはくすくす笑う。

「それももう、いいわ。世の中には、想像を超えたことが起こるのだとわかったから」

 王位争いなど、遠く離れてみれば、もう関係ない出来事だとパリュサティスは言う。

「世界はきっと、あたしたちが思うより、ずっと広いのよ。空から見下ろしただけで、わかったわ。人が住んでいる領域なんて、ほんのわずかなものだってこと」

 確かに、夜の世界はほとんど闇だったが。

「でも、追っ手が来たら……」

 皇太子は、面子にかけても、婚約者を取り戻そうとするのではないか。

「来ないわ」

 パリュサティスは断言した。

「誰が追ってこようが、あの魔物には勝てない。男たちは、勝てないとわかっている戦はしないのよ。だから、あたしたちのことは、もみ消されるでしょう。盗賊が押し入って殺したとか何とか、適当に誤魔化して終わりにするわ。それも不祥事には違いないけど、魔物が聖都に入り込んだという方が、よほどまずい話だもの」

 でも、アルタクシャスラさまは……そう言いかけて、ミラナは言葉を飲み込んだ。姫さまが、ずっと口にするまいと努力してきたことだ。こちらからは言うまい。

 とりあえず、パリュサティスが無事なら、ミラナはそれでいい。二人とも疲労していたので、じきに寄り添って眠ってしまった。

 ミラナがふと目覚めた時には、どのくらいの時間が過ぎていたのか。

 パリュサティスはまだ、布にくるまって眠っている。起こさないようにして、ミラナはそっと躰をずらした。焚火の炎には新しい木切れがくべられていて、向かい側に黒い人影が座っている。

(明かりが嫌い、というわけではなかったのかしら)

 ゆらめく炎に照らされて、整った、けれど、不機嫌そうな顔つきが判別できた。三十代半ばの年齢だろうか。この世の誰も信用しないというような、暗い目付きで炎を眺めている……

 ミラナの視線を受けて、魔物は低い声で言った。

「日が昇ったら、アラビアを越えてエジプトに渡る」

 その途端、ミラナは不思議な感覚にとらわれた。どこかで、これとそっくりな状況に出会ったことがある。

 いつか、ずっと前にもこうして寂しい場所で、この人と、小さな焚火を囲んでいたことがあるような……いつだろう。いつ、そんなことが?

「あの、もしかして、前に会ったことがありませんか?」

 もちろん、自分でもわかっている。会っているはずがない。たとえ彼が人間のふりをして雑踏に紛れていようとも、たぶん、一目見たら忘れられないはずだから……

 やはり、魔物は表情を変えなかった。ただ、わずかに不機嫌さを増したかもしれない。

「おまえなど知らん」

 突き放すように言う。

「姫の侍女でなければ、用はなかった。世話をする婢女がいなければ、この姫はうるさく文句を言うだろうからな」

 そして、焚火の横を示した。籠と壺が置いている。どこからか、食べ物を調達してきてくれたらしい。

「二人で分けろ」

 ミラナが視線を戻した時には、彼はまた、闇の中に消えていた。ミラナは茫然として、星空の中を見渡してしまう。それらしい姿は、どこにもない。

(あの人は、何なの……)

 人知を超えた魔物というよりは、かつてのゾルタスのような、世をすねた無法者に近い気がする。それならばもしかして、パリュサティスが説得して、味方につけることもできるのかもしれないが……

 彼が兵士たちや皇太子を、突風でなぎ倒したことは忘れられない。いったん機嫌を損ねたら、何をするかわからないと思えた。魔物から逃げることは、警備された王宮から逃げることより、はるかに難しいだろう。

 ***

 灼熱の砂漠の上空を飛ぶ旅は、思いのほか快適だった。空気が熱い時は、魔物の躰の冷たさが有り難かったからである。

「わあ、ほんとにナイル川の両岸だけ緑なのね!!」
         
 魔物に抱えられて空を飛びながら、パリュサティスは眼下を過ぎ去る景色に歓声を上げ、夢中になっていた。古い王都、神殿、ピラミッド、スフィンクス。これこそ姫さまの本来のお姿、とミラナも少し嬉しくなる。

「前に来た時は、総督の屋敷に滞在したのよ。ナイルを船で遡ったけど、空から見るとまた違うわね」

 ただ、ナイルには大小の船も浮かんでいる。両岸の道路には、駱駝の隊列も通る。河の水を引いた畑で、耕作している者もいる。空を飛ぶ影を見上げて驚く者も、きっといるに違いない。

「あのう、昼間に空を飛んでは、目立ちすぎるのでは?」

 ミラナが恐々尋ねると、魔物は冷笑した。

「少しは手掛かりがないと、追ってくる者が困るだろう」

 ミラナはてっきり、パリュサティスに名所見学をさせるためかと思っていた。魔物は時々、神殿や町の近くなどに降りて、二人を散歩させてくれたからである。地元の民と接触することはできなかったが、地面を歩くことで、こわばった躰をほぐすことができた。

(姫さまはほとんど、物見遊山のおつもりよね……)

 昼過ぎにはナイル河を見下ろす崖の上に降り、大岩が作る日影に座って休憩した。魔物がどこからか、焼いた羊肉や駝鳥の肉、棗椰子なつめやしの実、葡萄やメロンやアーモンド、水や葡萄酒の壺を持ってきてくれる。

「ありがとう」

 女たちはゆっくりと食事を楽しんだが、魔物は何も食べない。何も飲まない。

「ねえ、あなたは何を食べて生きてるの」

 パリュサティスが不思議そうに尋ねると、彼は口許をわずかにゆがめた。

「死人の脳みそだ」

 ミラナが思わず口を押さえると、パリュサティスが怒る。

「こらっ、ミラナが本気にするじゃないの!! 大きな図体をして、いじめっ子みたいな真似をするんじゃないの!!」

 すると、魔物は閉口したらしい。憮然として白状した。

「俺は何も食わないんだ。食う必要がない」

 それが、正直な答えであるらしい。

「ふーん、それはつまらないわね。せっかく生きているのに」

 パリュサティスが同情の口ぶりで言うと、魔物は唖然とした後、ますます居心地の悪そうな顔をする。

(この人、可愛げがある……)

 ミラナが微笑ましく思っていると、王女は魔物に問いかけた。

「ねえ、魔物って、お父さんやお母さんはいるの? それとも、石の卵から孵るの? 一人で育つの? それとも、年上の魔物に育てられるの?」

 ミラナが制止するより早く、パリュサティスは質問を繰り出していく。

「こんなに早く飛べるんなら、世界の果てまで飛んだことある? 世界の果てでは、本当に海の水が滝になって落ちてるの? だとしたら、落ちた水はどこまでいくの? それとも、学者たちの言う球体説が正しいの? 空高くにまで飛んだら、地面が球体になっているのがわかる? 月もやっぱり球体なのよね? 太陽に照らされる角度で、形が決まるんだもの。それじゃ、太陽はどう? 太陽も球体かしら。太陽の近くまで、飛んだことはある?」

 こういう質問の連続に耐えられるのは、おそらく、この世でアルタクシャスラ王子、ただ一人であろう。魔物はどうやら、王女を無視することに決めたらしい。

「そろそろ行くぞ」

 問答無用で女二人を両腕に抱え、また空に舞い上がる。

 今度はナイルから離れて、砂漠の奥地へ向かうようだ。魔物は不機嫌に口を結んだまま、黄色や褐色の砂漠の上を延々と飛び続ける。駱駝で進んだら、いったいどれほどの時間がかかるのだろう。

 幾度か休憩をはさんで、途中のオアシスで夜を過ごした。ミラナとパリュサティスが眠っている間、魔物はどこかに消えている。翌朝になると、食料の他に、女物の衣類をどさりと二人の前に投げ出した。

「肌を隠さないと、火脹れになるぞ」

 二人は有難く厚地の衣類をまとい、頭から日除け布をかぶり、強烈な日差しから身を守った。魔物から借りた一枚の肩布だけでは、どうにも不自由だったのだ。高価な衣類ではないが、真新しいのは有難いとミラナは思った。

(姫さまに、汚れた衣類など着せられないもの)

 しかし、パリュサティスがふと疑問を持った。

「あなた、これをどこで手に入れたの。対価は支払った?」

 魔物は戸惑った。近くのオアシス村の屋台から、適当に引ったくってきたのだとは、言えない気がする。しかし、それ以外、どうしろというのだ。人間のふりをする時を除けば、自分はとうに、人間世界の約束事の外にいる。

 女二人をさらったのも、計画してのことではなかった。本当は、どのように介入するか、決めかねていた。ただ、侍女が殺されると思った時に、つい動いてしまっただけのこと。

 だが、小うるさい王女一人より、制止してくれる侍女がいた方が、結果的にはよかったと思う。王女一人だったら、自分は耐えきれず、彼女を砂漠に置き去りにしていただろう。

「盗んではだめよ。今度から、これを使いなさい」

 パリュサティスは自分の耳たぶから、宝石を嵌めた金の飾りの片方を外し、魔物に差し出した。

「これなら、あたしたちに必要なものと交換できるでしょう」

 魔物は唖然として、それから怒りだした。

「俺を、使い走りにするつもりか!! 俺はただの魔物ではなく、魔王なんだぞ!!」

 子分などいない孤独な魔王だとは、さすがに言えない彼だったが、ミラナは身を堅くしている。しかし、パリュサティスは平然と受けた。

「あら、そうなの。魔王と呼んでほしければ、そうしてあげるわ。買い物係がいやなら、あたしたちを市場に連れていってくれればいいのよ、魔王さん。そうしたら、あなたが待っているうちに、買い物してくるから。あなたの根城には、どうせ、所帯道具はないんでしょう? ここまではまだ、王都の事件なんか、伝わっていないはずだし」

 結局、魔王は、女二人を大きな町まで連れていき、そこで好きなだけ買い物をさせることになった。魔王さん、という畏怖に欠けた呼び方には傷ついたが、王女のしたいようにさせた方が、面倒が少ないことは理解し始めている。

「塩、豆、小麦、干し肉、木の実、果物、オリーブ油……それから鍋。短刀も要るわね。ミラナ、あなたは寝具を探してくれる?」

 町外れで待っていた魔王は、女二人が、商人に荷馬車で運ばせてきた荷物を見て、また怒った。

「これを俺に、運べというのか!! おまえたちだけで、俺の腕は塞がっているんだぞ!!」

 またしてもパリュサティスは、平然と言う。

「大丈夫、運べるわ。ミラナ、そこに毛布を敷いてちょうだい」

 初老の商人が、不思議そうに幾度も振り返りながら馬車で立ち去った後、パリュサティスは厚地の毛布の上に、買ってきた品物を上手く並べた。自分とミラナは、両側から荷物を支える位置に座る。

「さあ、これで全体を浮き上がらせて」

 なるほど、とミラナは感心した。魔王は兵士たちを軽々と浮かせられたのだから、毛布ごと、荷物と女二人を浮かせることもできるだろう。

 苦り切った魔王だが、毛布をぴんと張らせて、その上に座って移動することには利点があるのを認めた。これならば女二人と、彼女たちが必要とする食料や雑貨を、一度に運ぶことができるのだ。

 砂漠の上空を飛んでいる間、魔王が先頭に座り、こちらにずっと背中を向けているのは、その方が姫さまの質問を避けられるからだろう、とミラナは思う。

(うまくしたら、姫さまが、この魔王を飼い馴らせるかもしれない……)

 そこに、一筋の希望を懸けてはいけないだろうか。

 ***

 黄褐色の砂の砂漠、黒い礫の砂漠、赤茶けた岩山、また砂の砂漠。もう一度、オアシスで夜を過ごし、翌朝はまた、朝から日暮れ近くまで毛布に乗って飛んだ。やがて、黒々とした山並みが見えてくる。魔王の住処は、その山地の中央にあるという。

「うわあ、火の帯!!」

 下から立ち昇る熱気に、パリュサティスが声を上げた。ミラナも思わず、毛布の上から下界をのぞきこむ。

 岩壁から染み出す黒い油に火がついて、あちこちで炎の川になっているのだ。油の噴き出す土地はパルサ本土にもあるが、ここもそうらしい。魔王は自慢げに言う。

「俺の領土に入ろうとする者も、出ようとする者も、ここで足留めを食うことになっている」

 確かにこれでは、鳥か、空を飛べる魔物でなければ、出入りは不可能だろう。魔王は炎の壁のはるか上を軽く飛び越え、険しい岩山の峰を幾つも飛び過ぎた。そして、塔のようにそびえ立つ、孤立した岩山の麓の草地に女たちを降ろした。

「へえ、ここがあなたの住処なの」

 毛布から降りたパリュサティスは、感嘆のまなざしであたりを見回した。驚きは、ミラナも同じである。

 乾ききった大砂漠のただ中だというのに、険しい岩壁に守られたこの土地にだけは、緑の庭園が広がっている。

 澄んだ水の湧き出る豊かな泉、芥子やチューリップやアネモネの花。香り高いジャスミンの茂み。オリーブや無花果や石榴の木々。草むらには蝶や蜻蛉、蛙や砂鼠のような生き物もいる。

 少し歩いてみると、棗椰子の林があり、桃や葡萄の木もあった。
 にら玉葱たまねぎ大蒜にんにく胡瓜きゅうりなどの野菜も生えている。これならば王女と二人、十分に暮らしていけるのではないか。

「岩山の中に、部屋がある。好きな部屋を使え」

 そう言い残すと、魔王は風のようにどこかへ消えてしまった。女二人は顔を見合わせ、それからあたりの探険にかかる。とりたてて危険のない場所ならば、二人きりの方が、気が楽というものだ。

「なるほど、ここから入ればいいのね」

 岩山の麓の一か所に、洞窟の入り口のような穴が開いていた。そこから岩山の内部に、人が十分に通れる空洞が続いている。途中で幾つにも枝分かれしながら、上の方へも、下の方へも道が通じているらしい。

「とりあえず、上へ登ってみようか」

 二人で、斜面や階段の繰り返される隧道をたどっていった。岩を人工的にくり抜いたと思われる通路は、かなり薄暗いものの、所々にうがたれた小さな窓から外の光が入るので、真の闇ではない。途中には、幾つもの立派な部屋が掘り抜かれている。

 それらの部屋には、古い剣や鎧が散らばっていたり、割れた皿や鉢が転がっていたりするのだった。かと思うと、見慣れない金貨が詰まった箱や、宝石がこぼれる箱が、無造作に積み上げられていたりする。

「わお、見て、ミラナ」

 パリュサティスは財宝の箱から、宝玉を散りばめた金の首飾りを取り上げた。

「何て見事な石なの!! お母さまの所にだって、こんな素晴らしいのは滅多にないわよ。ほら、これはあなたに似合うわ」

 かと思うと、箱の陰に壊れた楽器を発見し、残った弦をはじいてみたりする。それは、寂しい音色がした。

「誰か、ここで暮らしていたのね。でも、ずいぶん前のことのようだわ」

「魔王にさらわれてきた誰か、でしょうか」

「それとも、盗賊の根城だったとか」

 彼らは死んだのか、他所へ移動したのか。魔王に殺されたのだとは、ミラナは思いたくない。

 しかし、夕闇が迫っていたので、先へ進んだ方がよさそうだった。やがて二人で発見したのは、岩のバルコニーがついた、ほどよい広さの続き部屋である。

「あら、ここならちょうど手頃だわ」

 古びているとはいえ、使えそうな家具が置かれていた。大小の皿や壺、毛皮の敷物、木製の椅子やテーブル、象牙の櫛や銅の鏡、金のヘアピン、宝石の耳飾り、香油の瓶など、さまざまな品物が砂まみれになって転がっている。

「明日になったら、ゆっくりお掃除しましょう」

 太陽は低く傾き、周囲にそびえる岩山の裾には闇が忍び寄っていた。水汲みに降りようとして通路に出ると、さきほどはなかったものがそこに置いてある。

 焼いた羊肉の塊、塩漬けの魚が入った壺。山羊のチーズ、鳥の卵、豆や小麦やアーモンドの袋。葡萄酒やオリーブ油の壺もある。

「あら、すごい。けっこう気を使ってくれるじゃない」

 パリュサティスは大喜びした。毛布の上に載せて運んできた品だけでは、そう長く持たないと心配していたのだ。

「これなら、離宮にいるのと変わらないわ。ねえミラナ、あたしたち、ものすごく運が強いのかもよ。ここなら追っ手も来ないし、二人で楽しく暮らせるじゃない」

 やはり、アルタクシャスラのことは一言も言わない。期待はするまいとしているのだ。これだけの大砂漠を越えて、誰が魔王と戦いに来るというのか。たとえ王に命じられた軍隊が派遣されてきても、途中で道に迷い、渇き死にするのが精々ではないか。

 逆に考えれば、ここは砂漠に守られた〝楽園〟なのだ。

 それならば、自分も暗い顔はするまいとミラナは思う。先にどんな運命が待っているにせよ、とりあえずは、この岩山で生きていけるらしいのだから。

  ペルシアン・ブルー10に続く

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