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『ペルシアン・ブルー10』

  12 アルタクシャスラの章

 混乱する王宮の中を、兄の居室に向かって走った。支離滅裂な噂だけが乱れ飛び、兵士も神官も、侍女も奴隷たちも右往左往している。真実はこちらで捜し当て、組み立てるしかない。

「兄上!!」

 皇太子は怪我人らしく、奥まった寝台に横たわり、周囲に親衛隊の兵士を立たせていたが、アルタクシャスラは構わず、兵たちを押しのけた。兵たちも、相手が皇太子の実弟であることと、異様な事件が起きたばかりであることから、戸惑って引き下がる。親衛隊長のアルシャーマも、王子の背後を守っている。

「あなたという人は!! とうとう、あの子を殺したのですね!! あの子が、あなたの思惑に収まりきらないからといって!!」

 怒りのあまり、アルタクシャスラの頭からは、保身も計算も吹き飛んでいた。パリュサティスに何か恐ろしい異変があったと聞いた途端、最悪の事態しか思い浮かばなかったのだ。

 ――自分のせいで!!

 自分が、最愛の妹を裏切ったせいで!!

 あの娘が、兄の元で、長くおとなしくしているなど、出来るはずがなかったのだ!! 皇太子の妃になれるなら幸せなはずだなどど、自分を騙していた報いがこれだ!!

「よくも、魔物だなどと、見え透いた嘘を!! 殺してしまって、始末に困ったものだから、そんなでっち上げを!!」

 上体を起こしたダラヤワウシュの首を絞めんばかりのアルタクシャスラの勢いに、両側から、それぞれの親衛隊長が分け入る四つ巴の騒ぎになった。もっとも皇太子の親衛隊長アリヤラムナは、魔物のおかげで肋骨にひびが入っていたので、ほとんど力を出せずにいる。

「王子、冷静に!!」

「本当に、魔物が出たのです!!」

「うるさい、誰がそんな話を信じるか!!」

「待て、本当に本当なんだ!!」

「どうせなら、もっとましな話を作ったらどうだ!!」

 その混乱がひとまず落ち着いたのは、近くの床に、黒い口髭の男が片膝をついて奏上したからだった。

「アルタクシャスラさま、報告いたします。兵士や侍女たちの証言を集めました。間違いありません。姫もミラナも、生きたまま、侵入者に連れ去られています」

 アルシャーマに羽交い絞めにされた王子は、息を荒くしたままゾルタスを振り向いた。他の部下とは、報告の重みが違う。ゾルタスは、王子である自分より、パリュサティスに忠誠を誓っているのだ。

「生きたまま、だと」

「はい。侵入者は黒ずくめの男で、風を起こし、親衛隊の兵をなぎ倒し、空を飛んで逃げたという証言です。これは、中庭にいた警備の者たちも証言しています。いかに皇太子でも、これほど多くの者を買収し、偽の証言をさせることはできません。王宮の外でも、空を飛ぶ黒いものを見たという証言を得ています。部族も身分もまちまちな者たちの証言ですから、もはや疑うことはできません」

 アルタクシャスラはいくらか力を抜き、アルシャーマも王子の腕から手を離した。肋骨が痛むアリヤラムナは、冷や汗をぬぐう。

 皇太子はその証言の通りだと保証し、魔物の挑戦の言葉も伝えたが、弟王子は依然、不信の顔だった。

「信じろと言うのか。空を飛ぶ魔物だなどと……」

「それは自分も半信半疑でしたが、少なくとも、常人の仕業ではありません。姿を現してから消え去るまでに、ほんのわずかな時間しか要していないのです、それに、王宮の警備兵は、誰もそんな男を通していません。そいつは空から舞い降り、空に飛び去ったのです」

 ゾルタスは部下たちを走らせ、可能な限り、生の証言を集めさせたのだ。そこからは、事実を訴える者の真剣さしか汲み取れなかった。あらかじめ言い含められた芝居などでは、ない。

 それに、ゾルタスも部下たちも、異様な犬たちの吠え声を聞いている。空の黒影に向かって、矢を射た者もいた。十分に届くはずの矢が、左右にそらされた、とも言っている。

 こうなればゾルタスも、人知を超えた存在というものを、認めざるを得ない。

「多数の兵士が同時に壁や柱に叩きつけられ、骨折や打撲を負っています。頭を打ったり、首の骨を折ったりして、死んだ者も二名います。しかし不思議なことに、すぐ近くにいた侍女たちは精々、転んだ程度のかすり傷です。魔物は、武器を持った兵士だけを選んで攻撃しています」

 アルタクシャスラはもう一度、寝台の上に座り直した兄を見た。屈強な武人のはずだが、魔物には手も足も出なかったらしい。骨折こそ免れたが、ひどい打撲だという。しかし今はその顔に、怯えや屈辱よりも、蔑むような色がある。

「あれは、確かに魔物だった。おかげで、わかった。パリュサティスは、以前から魔物と通じていたのだ」

 ――何だと。

 アルタクシャスラは唖然とした。今度は、何を言い出すのだ。

「あいつが、ここに魔物を呼び入れたのだ。さもなければ、どうしてそんなものが、この聖都に現れる」

 自分で言いながら、それを確たる真実だと信じ込んだらしい。皇太子の顔に、生気が戻ってきた。

「あいつは魔女だったのだ。女神の娘などではない。いつからか魔物と通じて、魔女になっていたのだ。そして、わたしに取り入り、操ろうとしていた。そうとも、その企みを隠せなくなったから、魔物を呼びよせて逃げたのだ!! おまけに、エジプトの向こうの大砂漠まで来いだと!! わたしをおびき寄せて殺そうというのだ、誰がその手に乗るものか!!」

 怒りよりも軽蔑が勝り、アルタクシャスラは急速に頭が冷えた。

 ――この卑怯者め。魔女だなどと、よりによって、とんでもない言いがかりを。

 この妄言を抑えなければ、パリュサティスは、たとえ生きていたところで、二度と都に戻れない身になってしまうではないか。

 そうとも、生きているなら、取り戻すことはできる。たとえ、世界の果てまで追いかけようとも。

 そして、謝るのだ。わたしが間違っていた。ようやくわかった。そなたのいない世界など、何の意味もないのだと。

 ここ何年も、アルタクシャスラは悶々として苦しんできた。美しい妻を迎えても、視察の旅に出ても、本当には心が晴れることはなかった。失った日々ばかり、繰り返し夢に見た。

 幼いパリュサティスから、溢れるほどの疑問をぶつけられていた日々。ぐっすり寝入ったパリュサティスを、抱き上げて天幕に運び、毛皮と毛布でくるんでやった幸福。満足そうな寝顔を眺めて、自分もどれだけ満たされていたか。

 そうだ。それが張り合いだった。赤毛の娘から尊敬の眼差しを受けたいばかりに、どれほど背伸びして、理想の男を演じてきたことか。

 押し込めていた感情が爆発し、吹き荒れるのが止められない。自分の心と躰がこれほど求めるものを、どうして、わずかな恐れのために手放したのか。

 愚かだった。自分は、あの娘を必要としているのだ。もはや小さな妹としてではなく、一人の女として。

(取り戻して、伴侶にするのだ。もう二度と、離さない)

 希望の光が射したことで、彼の頭脳は再び冷静な計算を始めていた。

(まずは父上だ。父上を説得しなければ)

「兄上」

 その冷ややかな声に、ダラヤワウシュも親衛隊長も、改めて黒髪の王子を見た。これまでアルタクシャスラが、これほど冷酷悪辣な表情を浮かべていたことはない。親友のアルシャーマでさえ、たじろぐほどの気迫だった。

「取引をしようではありませんか。兄上がわたしの言い分を通して下さるのなら、皇太子が魔物に脅され、花嫁を奪われたなどという不名誉は、なかったことになります」

 自分の怯えを見透かされ、ダラヤワウシュは言葉に詰まった。

「しかし、パリュサティスが魔女だなどと言い触らすようなら、兄上には、相応の報いを受けていただきますよ」

 今の弟は、小手先の理屈など寄せ付けない覚悟を決めている。ここは譲歩するべきだと、実際的な皇太子は悟った。さもなければ、こいつはそれこそ、何をしでかすかわからない。

「魔女というのは、わたしの誤解だったかもしれんな……」

「そうです。あの子は、間違いなく女神の息吹きを受けた娘です。だからこそ、その輝きが、暗黒界から魔物を引き寄せたのです。どうぞ、ご心配なく。わたしが魔物を退治して、パリュサティスを取り戻してきます」

 驚いたことだが、この弟は、女のために損得を忘れているのだ。いったんは、手放すことを承知したくせに。

 ――そうだ、こいつがそのつもりなら、行かせればよいではないか。

 ダラヤワウシュの腹には、密かな歓喜が湧いてきた。どうせ、生きて戻れるはずはないのだ。あの魔物と大砂漠が相手では。魔物とて、有力な王子を相手にすれば、満足するだろう。わたしの名代として、弟を派遣すると公表すればよいのだ。
 
 ***
 
 輝かしい朝ではあるが、豪壮な列柱を連ねた大広間では、人々が暗い顔を寄せ集めていた。有力な貴族たちも、他国の使節たちも、互いにひそひそとささやき合っている。

 ――魔物が出た。この聖都から、婚礼前の王女をさらっていった。

 ――勇猛なダラヤワウシュ王子が、手も足も出なかったという。

 ――ただこれだけでは、済まないのではないか。もっと何か、大きな災厄が訪れるのでは。

 黄金の玉座に座る父に拝謁したアルタクシャスラ王子は、父の憔悴ぶりに驚いた。既に初老ではあったが、元々、頑健な武人だった。それが一晩で一段と老け込み、縮んでいるようだ。

 無理もないのか。自分が情熱を注ぎ、増築を進めていた聖都だ。そこに得体の知れない何者かが侵入し、婚礼前夜の、自慢の娘をさらっていった。

 これでは、そう長くはないかもしれない。できる限り、気を引き立てることを言わなくてはとアルタクシャスラは考えた。

「父上、兵たちの証言を集め、事態を整理しましたので、お聞き下さい。空を飛ぶ魔物が現れ、王女と侍女をさらったことは事実です。取り戻したければ、ナイルの西の砂漠へ来いと言い残したことも、確認が取れました」

 そこまでは、既に都中に噂が広まっている。ゾルタスに命じ、あえて広めさせたのだ。魔女だなどという噂が立つより早く、国家ぐるみの〝聖戦〟に持ち込まなければならない。さもなければ、自分の部隊に必要な支援が得られないからだ。

「しかしなぜ、聖都に魔物が侵入したのか。しかも、新年の祭儀の最中に。父上も、皆様もご不審のことでしょう。しかし、これは、起こるべくして起こったことなのです」

 王子の冷静な言葉に、大広間の者たちは耳を澄ませた。かねてから学者王子という評判の、怜悧な青年である。さらわれた王女が、長く慕っていた経緯も知られている。王女は彼を見限って皇太子に乗り換えたはずだが、再び、アルタクシャスラ王子の出番が来たのか。

「強い魔物ほど、価値の高い獲物を欲しがるもの。つまりは、パリュサティスが女神の庇護を受けた特別な娘だからこそ、狙われたのです」

 あたりの貴族たちに、おう、という驚嘆のざわめきが走る。

 パリュサティスを知る者にとっては、その方が「魔女説」よりも説得力を持つだろうとアルタクシャスラは思っていた。ここは何とかして、王と臣下たちの、沈んだ気分を変えねばならない。そして、魔物退治の興奮にすり替えなくては。

「つまりは暗黒の神が、配下の魔物を遣わして、我々の帝国全体に挑戦してきたのです。これはすなわち、アフラ・マズダが我々に、魔との戦いをお命じになったということです。すなわち神々が、我々の強さ、我々の意志をお試しになっているのです!!」

 おお、と明るい声が大広間を満たす。そうであったのか。我々が、至高神に見込まれているがゆえの試練。ならば、受けて立たなくては。

 アルタクシャスラとしては、腹の底で皮肉に笑うしかない。パルサ人の貴族たちは誰もみな、誇りだけは高いのである。

「我々パルサ人こそ、アフラ・マズダの庇護を受け、世界を統べる資格を持つ民族。そのことを、改めて世界に証明する好機であります。我々が魔物を倒し、暗黒の力に打ち勝つことこそ、アフラ・マズダのお望みなのです!!」

 王宮から沈鬱な空気が吹き払われるのを、ゾルタスも、太い石柱の陰で体感していた。さすがは王子だ、と口元がゆるむ。演説をさせたら、皇太子などかすんでしまう。もっとも、詐欺同然の演説だが。

 パリュサティスが女神の申し子であることは、ゾルタスにとっては当然の前提だ。しかし、彼女が肉体的にはただの娘であることも、よく知っている。魔物に囚われて、無事でいられるかどうかはわからない。

 だが、肝心なことは、アルタクシャスラ王子が目覚めたことだ。これまでの臆病から脱皮して、捨て身の勇気を備えてくれた。有難い。

 それが姫に伝われば、姫も力を取り戻すだろう。自分に出来ることは、二人が再開できるよう、力を尽くすことだけだ。

 あとは、二人の器量が魔物を超えるかどうか。

(あの方なら、きっと……)

 ゾルタスには、ようやく明るい展望が持てた。自分は既に、パリュサティスに全てを懸けているのだから。

「今ここで戦わずして、いつ、王家の威信を世に示すことができましょう。強大な魔力を持つ敵とはいえ、恐れる必要はありません。我々には、世界最大の帝国を築いた、偉大なる父祖たちのご加護があるのですから!!」

 アルタクシャスラが声を張り上げると、廷臣たちの間に狩りの興奮が走った。

「魔物退治だ!!」

「それこそ、我らにふさわしい務め!!」

「大部隊を率いて行けば、魔物など、何ほどでもあるまい!!」

 王と皇太子に向き直り、アルタクシャスラは恭しく頭を下げた。

「王女にはアナーヒター女神のご加護があるので、魔物の根城でも、しばらくは無事でいられます。わたしが行って、取り戻して参りましょう。父上と兄上は安心して、吉報をお待ち下さい」

 ようやく、やつれた王の顔にも安堵が見られた。

「よくわかった。王子よ、パルサの戦士たちよ。帝国の威信にかけても魔を滅ぼし、余の王女を取り戻して参れ!!」

 ***

 かくして、神殿ではアフラ・マズダやミスラやアナーヒター女神への祈りが捧げられ、四方へ騎馬の伝令が飛んだ。

 食料の調達、馬や装備の支度。そして人員の募集。

 アルタクシャスラは、自分の親衛隊を遠征軍の中核にするつもりではいたが、隊員たちには参加を強制しないことにしていた。砂漠の奥地への旅は、たとえ魔物という障害がなくとも、危険きわまりない。

 自分が妹を取り戻したいからといって、彼らに、死地へついて来いとは命じられない。

 だから、志願者には出発前に十分な報酬を払うこととした。そうすれば、たとえ生還できずとも、故郷に残す家族には、安楽な暮らしをさせられるだろう。

 それでも、親衛隊からの脱落者はほとんどなかった。わずかに、結婚したばかりの者、妻が妊娠している者などが、留守に残る希望を出しただけで済んだ。どのみち王都に残る者も(兄を警戒する上で)必要なのだから、構わない。

 アルタクシャスラは、後宮のリタストゥナ妃にも面会し、

「必ず、パリュサティスとミラナを取り戻しますから」

 と約束した。それを果たせる自信はなかったが、指揮官が弱気では、勝てる戦にも勝てなくなる。

「アルタクシャスラさま、ありがとうございます。わたくし、女は、望まれて嫁ぐのが一番の幸せと思っておりましたが、ここ数年のあの子を見ていて、そうとばかりは言えないと……」

 妃は涙で言葉を途切れさせ、それから強いて微笑んだ。

「誰かを懸命に愛することの方が、もっと幸せなのかもしれません。あの子に会えましたら、もう、生きていてくれるだけでよいと、お伝え下さいませ。この先は、何をしようと、そなたがしたいことなら、それでよいと」

 リタストゥナ妃も、何か吹っ切れたようだった。アルタクシャスラもまた、捨て鉢なほどの覚悟を決めている。

(あの子を取り戻せないのなら、生き長らえて何になる。こんな国、どうとでもなるがいい)

 義理で迎えた妃もいるが、本当には心が通じることがなかった。魂が響き合うのは、パリュサティス一人しかいないと、幾度も思い知らされていたのである。

 アルタクシャスラは厩にも行き、パリュサティスの愛馬ティシュトラを引き出した。これまでパリュサティスの他には、調教師や厩番など、わずかな人間しか相手にしなかった、誇り高い悍馬である。

「これから、あの子を迎えに行く。一緒に来てくれるか」

 と首を撫でながら語りかけたところ、ティシュトラは理解してくれたようだった。アルタクシャスラを背に乗せることを、認めてくれたのだ。

 わずか数日で、旅の支度は整った。元々の親衛隊に、血気盛んな貴族の子弟たちや、後援してくれる商人たちの手勢が加わり、二千名を超す部隊になっている。もちろん、苛酷な行軍に耐えられる者だけを厳選していた。

 決して大部隊ではないが、これ以上の人数を欲張らなかったのは、行軍の速度と、砂漠での食料確保の困難を考えたからだ。また、この人数で魔物に勝てないのならば、数に頼ることは無意味であろう。

「諸君、よく集まってくれた」

 アルタクシャスラはティシュトラの上から、平原に整列した兵たちに呼びかけた。自分の愛馬は、すぐ後ろに控えさせている。帰路には、パリュサティスと二人で愛馬を並べるつもりだ。

「我々はこれから、エジプトを目指す。ナイルを越え、大砂漠に踏み込むことになるだろう。王女をさらった不届きな魔物を退治し、天下にパルサ人の意地を示すためだ。これは、我らを守護する父祖と、神々のご意志でもある。我々こそ神々のご加護にふさわしいことを、天下に示そうではないか!!」

 若い兵たちの歓呼があがった。槍や鎧の装飾が、朝の光にきらきら輝く。馬や猟犬たちも、金や銀の飾りに彩られている。周辺に集まった町の者たちも、興奮に顔を染めている。皆、魔物退治に燃えているようだ。

 実際にはこの時もまだ、アルタクシャスラとしては、魔物の存在を本当には納得していなかったが。

 そもそも、この世の不幸に説明をつけるために、人は悪神というものを発明したのだ。至高神も、アナーヒター女神もまた、人間の願望が生み出したものではないか。

 それでも、自分が祈らずにはいられないことが、かろうじて、人知を超えた何かの存在を希求させる。

(魔物とやらの根城まで行ってみれば、わかるだろう。本当に魔物なのか、狡猾な盗賊に過ぎないのか)

 それから、王宮付きの神官たちが出陣の儀式を行った。聖火の前に花や犠牲の獣を捧げ、アフラ・マズダに、ミスラに、アナーヒターに祈る。最後にまた、王子が兵たちに呼びかけた。

「厳しい戦いになるだろうが、生きて戻れば、戦士の中の戦士との栄誉も得られよう。諸君の勇気と働きに期待している。では、出発!!」

 都中の人々の歓呼に送られて、黒髪の麗しい王子は部隊の先頭を進んだ。沿道から花が撒かれ、祝福や激励の声がかけられる。騎馬の兵たちも、隊列こそ崩さないが、晴れがましい様子だった。

(指揮官であるわたしに、口ほどの自信があれば、もっとよかったが……)

 もしも本当に、手を触れずに人を吹き飛ばせる魔物だとしたら、どうやって立ち向かえばいいというのだ?

 しかしとにかく、パリュサティスを取り戻す、その目的にはいささかの揺るぎもない。あの娘が死んだと思った瞬間の、真っ暗な絶望を、もう二度と繰り返すつもりはない。

 そしてこの隊列を、兄が王の隣から、ほくそ笑んで見守っていることもわかっていた。

 たとえ魔物が相手でなくとも、果てしない砂漠に乗り出すだけで危険なのだ。現に、父祖の一人、エジプトを征服したカンブジヤ王の派遣した軍隊は、ついに砂漠の遠征から戻らなかった。おそらくは飢えと渇き、そして砂嵐で全滅したのだ。

 兄はおそらく、わたしが二度と戻らないと思っている。また、たとえ生きて砂漠からよろめき出たとしても、護衛の人数が減っていれば、盗賊を装った一団で始末することができる。

「王子、後ろを見てください」

 小隊長のガウバルワが騎馬で横に並び、白い歯を見せて笑いかけてきた。パリュサティスが皇太子の婚約者になって以来、沈んだ顔をしている時が多かったが、アルタクシャスラの演説を聞いてから、元通り、やんちゃな貴族の若者という顔になっている。

「我々の隊列の後ろに、個人参加の男たちが、てんでに従い始めています。王の名で出した布告が効いたようですね。まだこれから増えますよ」

 王子も苦笑した。

「頼もしいことだ」

 すっかり、詐欺師になった気がする。適当なほら話で都中をだまし、純朴な若者たちまでその気にさせてしまった。

『魔物を倒した者には、領地と恩賞を与える』

『王女に対する求婚も認める』

 という布告を、各地へ広めさせたからである。噂を聞いて、賞金目当て、出世目当てに集まってきた若者たちだ。これからも、行く先々で集まってくるだろう。

 彼らには馬や食料の援助を与えるよう、父王に依頼しておいた。正体不明の魔物が相手なのだから、正規の軍隊ばかりでない方がよいと思ったのだ。

 隊列の後方へ様子を見にやった兵の報告では、個人参加の男たちは平民が多く、無邪気な夢を抱いているようだ。もしも王女と結婚できれば、その先、どれほどの運が開けるかわからないと。

 アルタクシャスラは、こっそり苦笑してしまう。布告をよく読めばわかることだが、求婚に応じるかどうかはパリュサティスの意志次第、という条件を付けておいたのだ。彼はもちろん、他の誰にもパリュサティスを譲るつもりはない。

 ただ、もしかしたら、と思っただけだ。

 もしかしたら、わたし以上の男が、あの貧しい若者たちの中にいるかもしれないだろう……ハカマニシュ王家の理想を体現する、クルシュ王のような人物が。

 後の気がかりは、自分の帰還まで、父王が生きているかどうか。

(わたしの留守中に父上の逝去という事態になれば、ダラヤワウシュ兄上が即位する。あるいは、取り巻きにそそのかされ、父上の死期を早める策を巡らすかもしれない。そうなれば、正面きっての戦を覚悟しない限り、我々は二度と国には戻れない)

 しかし、それでもなお、パリュサティスを取り戻すのが先だった。

 ――あの子がわたしを許してくれるなら、一緒に暮らしてくれるなら、国など捨てても構わないのだ。

 できるものなら、二人で手を取り合って、この国の建て直しを進めていきたいが。

 穏やかな川が、やがて急流になり、ついには滝となって落下するように、アルタクシャスラにはこの国の行く末が見えていた。このままでは、この国は、あと百年かそこらしか持たないはずだ。

 今はまだ、ごくわずかな者しかそれに気づいていないが、破滅の兆しはもう見えている。パルサ人は傲慢になり、かつての節制を忘れ、諸民族を見下すようになっているからだ。

 民に尊敬されない支配者は、根の腐った大木のようなもの。いずれは新たな英雄が出て、腐った支配者を戦場で倒すだろう。

 だが、ここで誰かが国を引き締めておけば、繁栄はまだ長く続くかもしれないのだ。

 わたし一人ではできない。わたしには、それだけの強い意志が足りない。貴族たちの抵抗に遭う改革など、恐ろしくてとてもできないだろう。

 だが、あの娘がいてくれれば違う。この世に降りた女神。我々二人でなら、きっとやっていける。

 だから、どうか、無事でいてくれ。わたしが行くまで、どうか命だけは。

***

 旅を続けるうち、手柄を焦る若者たちは、王子たちの隊列を追い越し、どんどん先へと進んでいった。アルタクシャスラ王子の部隊は二千人の規模であるから、そうは素早く動けない。

 だが、おそらく、早さは問題ではないだろうとアルタクシャスラは思っている。退屈しているらしい魔物は、砂漠で、人間たちの挑戦を待っていてくれるはずだから。

 それよりも、魔物の正確な居所である。

 ゾルタスは軍勢に先立って部下を走らせ、民から噂を集めさせ、各地にいる王直属の監察官、『王の目』、『王の耳』とも接触させた。空を飛ぶ不吉な影を見なかったか、怪しげな古城や廃墟を知らないか。

 それらしき目撃証言はなかったが、空を飛ぶ魔物なら、街道など関係なく、砂漠の上や海の上を通過したのかもしれない。

 情報を集めつつフェニキアの諸都市を通過し、下エジプトに入った。ここまでは整備された『王道』をたどれたので、替え馬の心配も、食料の心配もいらなかった。全て途中の宿場に用意されているし、前に旅をした経験もある。問題は、ナイルを離れてからだ。

 ナイルデルタを溯り、メンフィスの都に入る。

 エジプト総督を務める叔父は、更に上流の町にいるそうで、会えなかったが、意を受けた部下たちが出迎えてくれ、駱駝や案内人や食料など、さまざまな援助をしてくれた。

 個人で来た若者たちにも援助してくれたと聞き、アルタクシャスラは安心する。父王の早馬の使者が先に着いているはずなので、当然だが。

 ここで、驚いたことに、情報が入り始めた。空を飛ぶ黒い影が、あちこちで目撃されているのだ。白昼に空から舞い降り、しかも、両脇に女を抱えていたという話もある。

 水夫や農民、遊牧民や商人たちが、それぞれ別個に訴えることを聞くと、やはり、魔物は存在するのだと思わざるを得ない。しかし、どうも三大ピラミッドや有名神殿など、観光名所での目撃例が多い気はするが。

「本当にいるんですなあ、魔物なんてものが」

「実は、内心、信じかねていたのですが」

「とんだことになったものですな」

 と従兄弟のアルシャーマや小隊長のウィダルナ、ガウバルワたちは首を振って言うが、アルタクシャスラははむしろ、腹が据わってきた。

(魔物がいるなら女神もいる。加護があるだろう。なくとも構わない。知恵を絞って戦えばよい)

 目撃談をたどっていけば、魔物の住処に近づけるに違いない。砂漠の中央の山地というだけでは、漠然としすぎて、狙いが定められないのだ。それもまた、こちらを消耗させるための作戦なのかもしれないが。

(あるいは、こちらをおびき寄せるため、あえて目撃者を残してくれたのかもしれない。向こうが強すぎるなら、それもまた、傲慢という弱点になりうる)

 どんな生き物であるにしろ、女に手を出すということは(もしかして二人とも、とうに犯されているかもしれない。命さえあれば、それはあきらめるより仕方ないが)、人間くさい弱点もあるということだ。

 王子はゾルタスに命じ、金品をばらまいて情報を集めさせた。いったんナイルの流域を離れてしまえば、もはや定住民がいないため目撃者もなく、追跡の手掛かりが切れてしまうのだ。その前に、できる限りの準備をしておかなくては。

 役に立つ話には謝礼をはずむと宣伝させたので、あてにならない目撃者も多かった。

 夜中に黒い怪物が現れて、神殿に捧げる牛を一頭、むさぼり食っただの。美しい娘を乗せた小舟が、風もないのに上流へ動いていっただの。(その娘が赤毛というのであれば、まだ信憑性があったのだが。髪はヴェールに隠れて見えなかったというのだ)

 砂漠に少し入ったオアシスの町で、若い女が二人、宝石の粒を出し、はしゃいで楽しそうに買い物していったという話もあった。しかし、凶悪な魔物はどこにいるのだ、その話では。

 そうして、たくさん集まった与太話のうち、一つ、気になるものがあった。もう何十年も前、遊牧民の数人が見たというのだ。星を頼りに長旅をしていた夜のこと、砂の海の彼方に、ほんのりと夜空の底が明るい場所があったという。まるで、大きな炎の照り映えのように。翌朝になってみたら、その方角には、黒々とした山並みがかすかに見えたという、ただそれだけの話だが。

 地味な話であるだけに、かえって気になるとゾルタスも言う。わざわざそれを伝えにきた者たちには、何か尋常でないものを見た、という印象が残っているらしい。ゾルタスはその山地の位置をよく聞きただした上で、十分な謝礼を渡したと言う。

「噴火している火の山か、あるいは黒い油の湧き出す山かもしれない。パルサ本土にも、油の出る山はある。それに火がつくと、ずいぶん燃え続けるというし」

 もちろん、目指す魔物とは何の関係もない、ただの山地なのかもしれないが、どうせ他にあてはないのだし、魔物なら、そのような火の山に好んで住むということもあるのではないか?

「最初の目標を決めた。それでだめなら、態勢を整え直して、二度、三度と別方面に出発する」

 王子の決定に、昔からの側近たちは文句を言わなかった。ただ、必要な装備や食料の調達に走り回ってくれる。

『わたしが玉座に就くためには、支えてくれる妃が必要なのだ』

 という一言だけで、全てを納得し、ここまでついてきてくれたのだ。こんな無謀な捜索に付き合わせて、本当に申し訳ないと思う。それは、自分とパリュサティスが生きて戻り、理想の国を目指す統治をすることで、報いるしかない。

「ゾルタス、おまえたちとはここで別れよう」

 兵たちが野営の準備にかかったオアシスで、王子は、痩せた黒髭の男に告げた。

「この先は、正規の親衛隊だけでいい。それより、おまえには、帰り道の安全確保を頼みたい。兄上が刺客を寄越すとすれば、わたしがパリュサティスを取り戻して、砂漠を抜けてきた時が危ない」

 ここまで来て留守居に残されるとは思わなかったが、ゾルタスは、王子の懸念を理解した。魔物に勝っても、兄の陣営に暗殺されては意味がない。帝国を継ぐための戦いは、まだ先が長いのだ。

「おっしゃる通りですな」

「その時、エジプト総督である叔父上がどちらの側につくかで、困難の度合いが違ってくるだろう。おまえには、それを見定めてもらい、必要な手配を済ませておいてほしい」

「よくわかりました。では、これで失礼します。ご武運を」

 無駄口をきかず、黒髭の男は木陰に消えた。その日のうちに、彼の配下たちも隊列から消えている。

 彼らの忠誠こそが、貴重な財産だとアルタクシャスラは理解していた。それも、彼らがパリュサティスを高く評価すればこそ。陰からあの娘を守り続けてきた男たちが、一番、あの娘の価値を知っている。

 ――アフラ・マズダよ。ミスラよ。そして、麗しき水の女神、アルドウィ・スーラ―・アナーヒターよ。わたしが行くまで、貴女の申し子をどうか、魔物の手から守りたまえ……

 ナイルを背にしたオアシスで、アルタクシャスラは暮れていく空に祈った。

 あなた方は、人間の創り出したものかもしれない。だが、それでも祈らずにはいられない。神の力とは祈りの力、信じて戦う力のことではないか?

 どうか、生きて、愛する者と再会できますように。そして、部下の損失が最小限で済みますように。わたしは、彼らを家族や恋人から引き離して連れてきた。できるなら、全員を故郷へ連れて帰りたい。

 暗いすみれ色に沈んでいく空の下は、どこまでも続く岩と礫、そして砂の荒野である。馬はすべて、頑強な駱駝に替えた。ここまで連れてきたティシュトラと自分の愛馬は、総督の部下に預けていく。

 持てるだけの水と食料を持ち、明日は、果てのない砂漠に足を踏み入れるのだ。焚火の周囲で笑い合う兵たちはまだ、一世一代の冒険に高揚しているが、この元気がいつまで保つか。砂漠にも駱駝にも慣れた兵たちだが、ここから先は未踏の土地になる。

 土地の人間の話では、昔は馬でも越えられた道が、今は駱駝でなければ不可能になっているという。わずかに残っている草原やオアシスも、毎年、確実に砂の下に消えていくらしい。幾つかの大きなオアシスを過ぎてしまえば、その先にどれだけ、水を補給できる場所があるかわからない。

 それでも、だ。あの子を取り戻すためならば。

「王子、明日は早うございます。もう、お休みになられては」

「ああ、そうだな」

 夕食を済ませたアルタクシャスラは、簡素な天幕に入って上着を脱ぎ、大事な首飾りを外した。何年も前に注文しておいた金と緑柱石の首飾りが、出発前、やっと細工職人から届けられたのだ。時間はかかってもいいから、最高級の緑の石をよりすぐって作るよう、指示しておいたものである。

 再会したら、真っ先に結婚の申し込みをするために、王子はその首飾りを自分の首にかけてきた。パリュサティスの緑の目と赤い髪に、この首飾りはどんなに映えるだろう。

 そう、その時には、初めてパリュサティスを抱きしめるのだ……兄としてではなく、一人の男として。

 いや、当の本人に嫌と言われれば、その時はあきらめるより他ないが。

 兄さまみたいな臆病者は嫌い、と言われるかもしれない。あたしを捨てたくせに、と責められるかもしれない。

 しかし、それでも謝罪し、懇願することはできる。生きていてくれさえしたら。

 おやすみ、パリュサティス……どうか、無事で。

 首飾りの中央の石に口づけをすると、黒髪の王子は横になって目を閉じた。ダラヤワウシュ派による暗殺の危険が減っただけ、よく眠れるというものだ。しっかり眠って、体力を温存しておかなくてはならない。明日からは、精神と肉体の力を、限界まで試されることになるだろうから。

   ペルシアン・ブルー11に続く

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