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『ペルシアン・ブルー2』

   3 魔王の章

  人間の町に紛れる時は、腰に剣を吊るして、人間のふりをする。

 ひっそりと酒場の片隅にいれば、誰に疑われることもない。古びた黒い衣装を着て、浅黒く、荒んだ顔つきをしているので、仕事にあぶれた傭兵とでも思ってもらえれば、ちょうどいい。

 彼は、王都の一画にある歓楽街の、二流の酒場を選んで、安い地酒を飲んでいた。正確には、飲むふりをしていた。飲み食いを必要としない身になってから、もう長い。

 今は、睡眠すら必要ないのだ。だから、一日が長すぎる。何か退屈しのぎを探さないことには、やりきれない。

 高地にある、このパルサ人の聖都は、普段は人が少なかった。王族が貴族を引き連れ、隊列を連ねてやってくるのは、新年の祭儀や王族の婚儀など、大きな行事がある時くらいである。

 ただし、王宮を管理する役人や神殿の祭司たちは常に詰めているし、警備の軍人や召使いたちもいる。王宮の増築工事をする職人たちもいる。

 周辺の村で、王家のために、馬や猟犬を育てる者たちもいる。各地から商人たちも集まって、建築資材や食料、特産品の取引を行うし、新たに人手を求める者もいる。

 この店ならば、酔客たちの会話をたっぷり聞くことができた。王宮の工事の進み具合、商人たちの移動予定、強欲な祭司たちの悪口、王家や貴族の噂。

 人間たちの世界で何が起きているのか、なるべく知るようにしていた。そうしなければ、自分だけが置き去りになってしまう。

 言葉すら、長い年月のうちには変わってしまうのだ。今はまだ自分のアラム語が通用するが、いずれ、別の言葉が主流になるかもしれない。それを習得しなければ、もはや、人間たちの会話を聞いても理解できなくなる。

(それこそ、本物の地獄だな……俺には、相応しいのかもしれんが)

 酒場には、富裕な商人に雇われる護衛の男たちがいたが、彼らは仲間と騒いでいて、隅にいる黒衣の男――魔王――のことは、気にかけていなかった。席を立って魔王に近付いてきたのは、別の片隅で飲んでいた男である。主人持ちらしく、豪華ではないが真新しい衣装を着て、首や腕には金銀の飾りをつけている。

「あんた、暇そうだが、仕事はあるのか」

 魔王は簡単に説明した。自分は商人に雇われていた護衛だが、今は仕事が切れている、と。

「それなら、うちのご主人が護衛を捜しているんだ。腕さえよければ、報酬は望みのままだぜ」

 胡散臭い話だったが、それこそ、魔王が待っていた退屈しのぎだった。連れ立って酒場を出ると、外は昏れかけ、雪がちらついている。まだ真冬ではないが、底冷えのする寒さだった。主人持ちの男の吐く息は白くなったが、魔王はそもそも息をしていない。

 空腹も忘れたし、眠気もなくなった。はるか昔、首を斬り落とされて処刑されたのに、なぜか意識が戻り、捨てられた穴から這い出したのだ。転がっていた首を拾って胴体につけたら、そのままくっついて、元通り、いや、元通り以上に動けるようになった。

(俺は、魔物になったらしい)

 と認識している。処刑された者は他にも大勢いるのに、なぜ自分だけが甦ったのかは、分からない。世界を巡り、学者や高僧たちに尋ねても、分からなかった。

 彼らには畏怖されて、魔王と呼ばれることもあったが、魔物の手下など一匹もいない。他の魔物など、見たこともないのだ。ただ一人きりで、いったい何の王だというのか。

 もっとも、この体内に巣食う、多くの悪霊たちを従えているという意味なら、王なのかもしれないが……

 処刑場に漂っていたらしい、その悪霊たちは、魔王に取り憑いた今でも、年中、恨み言をつぶやいているだけだ。痛い、苦しい、怖い、寂しいと……

 二人の男は、貴族の別邸が並ぶ通りに出た。多くの屋敷には留守番の兵がいるだけで、灯火も少なく、ひっそりしているが、中には篝火が明々と焚かれ、人声のする屋敷もある。二人はやがて、武装した門衛たちのいる屋敷に入った。この屋敷には、主人が滞在しているらしい。

「ここで待て」

 雪の降る庭先で待たされた魔王は、じきに複数の密かな足音を聞いた。暗くなった庭のあちこちから、五人の男が現れて、剣で襲いかかってくる。

 魔王は自分の剣を抜き、黙って応戦した。元々が、背の高い屈強な体格である。苦労せず男たちの首を斬り、胸を刺した。逃げようとした者は、背中を斬った。手加減はしない。腕を証明しなければ、この先に進めないだろう。

「待て、もういい!! もうやめてくれ!!」

 先ほど案内役を務めた男が物陰から現れ、死体を数えてうめいた。

「よくもやってくれたな。この程度の連中でも、集めるのは大変なんだぞ」

 だが、その結果、魔王は屋敷の奥へ通された。篝火で明るく照らされた屋内には、立派な制服を着た兵士たちが詰めていて、奥の間の主人を警護している。

「そなた、腕が立つそうだな。弓は使えるか」

 豪華な椅子にかけているのは、パルサ人の貴族と見える老人だった。顔も肉体もしなびているが、鋭い視線で流浪の男を見定める。

「人並みにはな」

 実際、大昔には盗賊団を率いていた。弓も剣も、人並み以上に使える。ただし今では、馬に乗れない。犬には吠えられる。多くの動物たちは、魔王を恐れて逃げ回るのだ。たぶん、死人の匂いがするのだろう。

「よし。では、入隊試験には通るだろう。王子の親衛隊は、常に人材を求めておる。そちは、アルタクシャスラ王子の名を知っておるか」

 酒場で聞いた、噂話の断片を思い出す。

「第一妃の王子か」

「そうだ。パルサ人でなくとも、腕が確かなら歓迎される。そなたはそこで、忠実に仕えよ」

 老人は、声を低くして付け加えた。

「わたしからの指図が届くまではな」

 なるほど、と魔王は納得した。

「俺の仕事は、暗殺か」

「余計なことは、口にするでない。わたしの指図に従い、成功すれば、貴族の位を約束しよう。領地を与え、安楽に暮らせるようにしてやる。これは支度金だ」

 老人の合図で、兵士が革の小袋を持ってきた。受け取ると、ずしりと重い。口を少し開いてみると、中には金貨と宝石がぎっしり詰まっていた。

「俺のような流れ者を使うとは、よほど失敗続きらしいな」

 魔王が冷笑すると、老人は機嫌を損ねたらしく、苦い顔になる。だが、それでも、この刺客を使うしかないのは事実だった。過去の企みは、ことごとく失敗したのだ。

 老人は、自分の甥にあたる皇太子を――ダラヤワウシュ王子を守りたいと願っている。

 アルタクシャスラ王子も甥ではあるが、彼には理解しがたい甥だった。王子は、学者でなくてよい。勇猛な武人であることが、何より大切なのだ。

 それなのに、一部の貴族からは、アルタクシャスラ王子に対する期待が高まっている。名君の資質が見えるというのだ。

 とんでもない。王位に相応しいのは、伝統を尊重するダラヤワウシュの方だ。下手に改革など考えると、国を傾ける。伝統にこそ、先人の知恵が詰まっているのだから。

「王子は用心深い。おまけに、厄介な小娘が付いておる」

 魔王が問いかける視線を向けると、老人は説明した。

「第五妃の王女、パリュサティスだ」

 たった十一歳にすぎないのに、もう女神の申し子などと噂されるようになっている。親衛隊の兵士たちは、本来の主人である王子よりも、幼い妹姫の方に心酔しているというのだ。

「アルタクシャスラに付いて歩き、守護女神のように振る舞っておる。あの小娘が調子づいて、国中からアナーヒター女神の申し子などと呼ばれるようになると、面倒なのだ」

 女神の申し子とは。

 そういえば、幾度か噂を聞いたと、魔王は思い出す。神など見たこともないし、信じたこともないので、気にかけなかったが。

「まだ子供のくせに、奴隷を解放するべきだの、女に教育を与えるべきだの、ろくでもない思想を広めておる。まったく、小賢しい。それというのも、アルタクシャスラが特別扱いして、甘やかすからだ。女は男を楽しませ、子供を産めば、それでよい。学問などいらぬ。王子を始末したら、ついでにパリュサティスも片付けよ」

 奴隷を解放?

 女に教育?

 魔王には、いくらかの驚きだった。奴隷は大昔からいる。戦争に負ければ、男は殺されるか、奴隷にされるかだ。誰かが借金を返せなくても、罪を犯しても奴隷にされる。奴隷の子もまた、奴隷にされる。

 腹は立つものの、それが世の習いだと思い、変えうるものとは思っていなかった。しかし、それに異議を唱える者がいるのか。しかも、エジプトからインダスまでを支配する、史上最強の王家の中に。

「話はわかった……」

 面白そうな娘ではないか。

「よし、そなたの名を聞いておこう」

「名前はない。適当に呼べ」

 老貴族はそれを、犯罪者か逃亡者の台詞だと思った。ますます暗殺者に相応しい。王子を仕留めたら、こいつも殺して、口を封じればよいのだ。

「よかろう、では〝名無し〟と呼ぶ。アルタクシャスラの部隊を追いかけ、入隊を希望せよ。そこでは、適当な名を名乗れ。こちらの手の者が、そなたを遠くから見張っておる」

 魔王はにやりとし、金貨の袋を床に投げ出した。ざらざらと散らばった金貨と宝石が、篝火を反射して光る。

「何をする!!」

 警護の兵たちが殺気立ち、剣や槍、弓を構えた。

「引き受けるとは言っていない。話を聞いただけだ」

 もとより、財宝になど興味はない。砂漠にある魔王の城には、各地の海賊や盗賊から奪った金貨や宝石が山積みになっているのだ。もう五百年も、こうして世界をさまよっている。少しでも、目新しい暇潰しが欲しい。

「生かして帰すな!!」

 主の命令で兵たちが放った矢を、魔王は剣で弾き飛ばした。剣で斬りかかってくる兵たちは、逆に斬り倒す。新たに弓を構えた兵たちは、魔力で持ち上げ、壁や天井に叩きつけた。

 いつからか、悪霊たちの力を使いこなせるようになっている。彼らにはまとまった意志がなく、ただ、恨みの念だけが寄り集まっているのだ。生贄のいる方向さえ示してやれば、彼らは容赦なく死と破壊を叩きつける。

 椅子の上で硬直した老貴族には、拾った剣を投げつけた。剣は椅子の背まで貫き、老人は串刺しになって絶命する。

(蛙の干物だな……)

 逃げようとした兵たちも、追いかけて始末した。彼をここへ案内してきた男も、家具の下に隠れていたのを引き出して、首の骨をへし折った。これでもう、屋敷の中に生きている者はいない。

 それから、空いている椅子にかけて、待った。誰か、死から蘇る者はいないか。死霊に取り憑かれて動きだし、俺の仲間になる者は現れないか。

 こうしている間にも、彼の中では、死んだ者たちの呪詛や嘆きが渦巻いていた。
 
(俺じゃない、俺じゃないんだ、俺は殺してない……)
(誰か助けて、あたしの赤ちゃん……)
(痛いよ、痛いよ、お母さん、どこ……)
(殺してやる、あいつ絶対に殺してやる……)
(寒い、寒い、寒い……)

 もし、それらの嘆きや恨みに引き込まれてしまったら、きっと自分は気が狂うのだろう。いや、既に狂っているのかもしれないが。

 そうして夜明けまで待ったが、男たちは全員、死んだままだった。冷たい石の床に流れた血は、とうに固まっている。

(ここには、浮遊する死霊がいないからか。それとも、こいつらに、死霊になるほどの執念がなかったからか)

 やはり新たな魔物は、そう滅多には誕生しないのだ。自分が誕生したことが、百万に一つの偶然だったのだろう。

(まあいい。皇太子の陣営では、この殺戮を、アルタクシャスラ王子の陣営の仕業と思うだろう。次の動きを待つとするか)

 互いに憎み合い、争いを大きくすればいい。人間など、滅びてしまっても構わないのだ。

 その方が楽だろうとすら思う。どうせこの世は、生き地獄なのだから。

 女神の申し子とやらも、実際には、人間たちの思い込みにすぎないのだろう。しかし、確かめるくらいはしてもいい。どうせ、他にすることもないのだから。

   ***

 昼間は、空を飛ばないことにしていた。人間たちに目撃され、騒ぎになると厄介だからだ。

 恐れられるのは構わないが、見せ物になりたいわけではない。

 暗くなってから、初めて夜空に舞い上がり、行きたい方向を目指す。

 魔物になってから、食欲も睡眠欲もなくなり、情欲まで消え失せていた。肉体が死んでいるのだから、仕方のないことなのだろう。だから、王女に興味があるといっても、色欲ではない。むしろ、探究心だった。

 神は存在するのか。

 自分のような魔物は、神の気紛れで生まれるのか。

 王女が女神の申し子だというのなら、自分に何かを教えてくれるのではないか。

 いつまでこうして、世界をさすらっていれば、終わりがくるのか。

 もしかしたら、これは何かの罰で、自分が人を殺してきた報いだというのなら……それこそ、大きな戦いを起こしてきた王や貴族たちは、どうなのだ!?

 あるいは、俺の目に見えないだけで、他にも救われない悪霊たちが大勢うろついているというのか!?

 俺が学者なら、この世の実相、真理を探究するだけで満足できるかもしれない。だが、そんなものにはなれない。これが天の采配なら、天がどうかしているのだ。

 人間たちの噂をたどりながら、アルタクシャスラ王子の一行を捜し当てるのに、三日かかった。

 彼らはエジプトからの帰途にあり、フェニキアの諸都市をたどって北上していた。闇に紛れて、川沿いの野営の陣地に近寄ると、犬や馬が怯えて吠えたり、跳ね回ったりする。

「どうどう、落ち着け。蛇でも出たのか」

「蠍じゃないのか」

 兵たちが不審がり、あたりを警戒するので、魔王は迂回して離れたが、それでも中央にある篝火の周囲に、王子と側近らしき男たちは確認できた。

 横で椅子に座っているのが、王女だろう。まだ、ほんの子供にすぎない。胸がふくらんでいるのかどうかも、怪しいくらいだ。兄王子に話しかけ、きゃっきゃとはしゃいでいる。

(女神らしい威厳など、まるきり見当たらないぞ……)

 その王女に料理の皿を運んできたのは、侍女だろう。こちらは年頃の娘で、男のような衣装だが、柔らかい曲線は隠しようもない。長い茶色の髪をきちんと結い上げて、金の耳飾りを光らせている。頭から肩にかけて、明るい色の軽い日除け布を巻いているので、遠目にも女とわかる。

 その白い顔や、たおやかな姿に……王女に皿を勧めた、優しげな仕草に……なぜか、目を惹かれた。視線を離すことができず、食い入るように見てしまう。

 前に、どこかで見なかったか。知っている女のような気がする。それも、人間だった頃に。

 だが、自分が人間だったのは、幾つもの王国が勃興しては滅び去る前のことだ。自分のような魔物になっているならとにかく、あの女が生き残っているはずはない。

 もう、名前も忘れた、あの女……自分の名前すら忘れたくて、世界を何百回、飛び回ったことか。

 魔王は混乱したまま、夜の闇に紛れて立ち去った。なぜ、ただの人間の女が気になるのだ。もう、男の欲望など忘れて久しいというのに。

   ペルシアン・ブルー3に続く

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