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『ペルシアン・ブルー25』

  31 スメニアの章

 険しい岩山を越えられずにいた兵たちを通すため、あたしは自然の崖崩れに見せかけて、数箇所でうまく絶壁を崩してやった。

 兵たちはそこを通って、山地の中央の庭園にたどり着き、冷たい水を飲んだり、甘い果物を食べたりして、まずは休養をとる。

 それから、あれやこれやの仕事にかかる。

 アルタクシャスラ王子には、指図するべきことがたくさんあった。岩山の内部を調査させたり(魔王が長年の間にかき集めてきたらしい、金銀宝石の櫃がたくさん発見された。沈められた商船や、破られた宝物蔵が、ずいぶんあるんじゃないかしら)、怪我人や病人の休息場所を確保したり。

 帰り道のために、庭園の果物を天日に干したり、野菜を収穫したりする作業も必要だった。まあ、足りない食料は、あたしがそれとなく援助してやればいい。

 魔王、いや、元魔王を岩山の天辺の部屋に隠しておくのは、兵たちに見つからないように、という用心のためだった。もしも彼らが怒りを爆発させたら、叩き殺されるかもしれない。

 このあたしだって、もしもサリールが瓶から解放してくれなかったらと思うと、今更ながら身震いが出る。

 もしかしたら、恨みと憎しみで凝り固まって、あのまま瓶詰の悪霊になっていたかもしれない。何百年か先、運悪く蓋を開けた人間に取り憑いて、世界に呪いを撒き散らしていたかもしれないのだ。

 ヤスミンを取り戻せた今だからこそ、憎しみに憎しみを持って応じてはいけない、と思えるんだけと。

 とりあえず、アルタクシャスラ王子の口から、部下たちにこう言ってもらった――パリュサティス姫を探してここまで来たサリール王子に偶然出会い、協力して魔王と戦ったのだと。その際、姫の侍女のミラナが身を挺してかばってくれたため、魔王の隙をついて、倒すことができたのだと。

 あたしもヤスミンも、兵たちの前に姿をさらすつもりはなかった。魔だの精霊だのの存在は、もはや大声で宣伝するべきものではない。

 魔王の存在そのものが逸脱だったのだ。人間たちの世界に、あたしたちの居場所は既にない。

「だから、いいこと、ミラナは主人のために死んだってことよ。兵たちの前では、悲しんでるふりをしといてちょうだいね」

 あたしが言いきかせても、パリュサティス姫は、しばらくぶつぶつ言っていた。

「まったくもう、ミラナも趣味が悪いんだから。よりによって、あんな男についていきたいなんて……いずれ、ミラナにいい相手がみつかったら、山ほどお祝いしてあげようと思っていたのに」

 でも、それがミラナの幸せなら、喜んで見送ってあげないとね。

「芯から悪い男じゃないって言ったの、誰だっけ」

 あたしが笑って言うと、可愛らしい姫はあごをそびやかす。

「悪気がなければ、何をしてもいいってもんじゃないわ。男って、踏みつける自覚もなしに女を踏みつけるから、たちが悪いのよ」

 まあ、でも、それは女の知恵で矯正していくしかないでしょう……たとえ何百年、何千年かかるとしても。

 あたし自身は、もうヤスミンがいるから、そんな面倒くさい大仕事はお断りだけどね。

「とりあえず、あなたは待っていた人が来てくれたんでしょ。よかったわね」

 とからかうと、赤毛の姫は、髪に負けないくらい頬を染めた。

「兄さまには、ちょっと気弱なところもあるけど、それは、あたしがついていて、助けてあげるから。あたしの気が短い所は、兄さまがいさめてくれるし」

 それは結構。人は、愛する相手といられる方が強いし、幸せだから。どうか、できるだけ長く、幸せな日々が続きますように。

「ところで、やっぱりあなたは、あたしたちと一緒に来てくれないの?」

 気の強い王女は、王家の権力闘争にあたしたちを利用したいらしいのだ。

「悪いけど、サリール王子に恩返しをするのが先なのでね。王子は、まず故国に帰りたいというので」

「その後でもいいわ。宮廷に来て、あたしの味方になってくれれば。あたし、きっといい女王になるから」

 姫の誘いに、あたしはあいまいな笑いを返しておいた。もう、表立って人間たちの世界に入り込まない方がいいのだ。

 神というものが、もしもいるなら、おそらく、あたしたち精霊の一族を、若い人間種族の介添えとして用意したのではないかと思う。

 彼らはもう成長して、介添えを必要としなくなった。だから、用済みのあたしたちは、ひっそり陰にこもればいいのだ。そして、細く長く、ささやかな幸福を楽しんでいれば。

 しかし、ただ一人、サリールだけは不幸だった。笑っては悪いが、パリュサティス姫に手ひどくふられたからだ。

 あなたの瞳は山奥の湖のようだとか、以前からお噂を聞いて憧れていましたとか、噂よりずっとお美しいとか、しつこくまとわりついて、見え透いたお世辞を並べるからよ。

 それに、砂漠でどれだけさすらったか、飢えと乾きに苦しんだか、自分の苦労話を延々、ぶち上げたりするから。

 何も言わずに微笑むアルタクシャスラ王子と比べたら、格の違いは一目瞭然。まあ、砂漠で死ぬほど苦労したのは事実なんだけど。

「しゃべってる暇があるなら、水でも汲んできて。薪を集めて。することはいくらでもあるのよ」

 うんざり顔の姫にすげなく追い払われ、サリールはがっくり気落ちしていた。お馬鹿な坊やである。遊びで口説く時は余裕もあるのだろうけれど、どうしても大国の姫を得ようと思うと、つい焦りが先に立つらしい。

「なによ、あの口先ばっかりの気障男。ここまで来られたのは、スメニアに助けてもらったからなんでしょ。何もしていないくせに、あたしの求婚者ですって。ちょっとくらい顔がいいからって、女はみんな自分にのぼせ上がるとでも思ってるのかしら」

 パリュサティス姫はあたしに向かって、サリールのことを容赦なくこきおろす。

「あんな男の願いを三つも叶えてやるなんて、甘やかしすぎじゃないの」

「まあまあ、大目に見てやって。あたしを瓶詰から助けてくれたことが、結局、一番の大手柄だったのよ」

「それはそうだけど」

 そんな偶然、別に威張れない、と姫は思うらしい。彼女には既にアルタクシャスラ王子がいるのだから、他の男など目に入らなくて当然だけれど。

「くそうっ、詐欺だ」

 サリールはサリールで、水汲みを終えると、あたしたちのいる岩山の部屋に来て、拳を握りしめて虚しく怒る。

「そんなの、ありかよ。最初から、兄妹で〝できてた〟なんて。いくら異母だからって、それはないだろ。不道徳な。ちくしょう、道理でアルタクシャスラ王子の奴、こっちの協力を迷惑そうにしてやがったわけだ。何が求婚の権利だよ。ぼく一人が、まるで馬鹿みたいじゃないか」

 ヤスミンは、窓辺の椅子でくすくす笑っている。あたしがラガシュールからもらってきた真珠の粒をつないで、首飾りを作っているのだ。

「まあ、いいじゃないの。あなたには、このあたしがついてるんだから」

 魔王がいなくなった今、あたしこそ地上最強であろう。もっとも、そんな自慢をしたら、ヤスミンに叱られるけれど。

「それはそうだけどな」

 サリールはまだ、大国の姫があきらめきれないらしい。

「残念ねえ、下心なしで姫に接すれば、友達くらいにはしてもらえたかもしれないのに」

 と、あたしはサリールをからかった。

「それに、そもそも、自国の安全を守るための王女獲得作戦でしょ。アルタクシャスラ王子に恩を売って、ペルシアの次期帝王(多分そうなるでしょう)の覚えはめでたくなったんだから、国の未来は安泰でしょうが。だいたい、砂漠で迷って死んだ部下や、他の求婚者たちのことを考えてみなさいよ。贅沢言ったら、天罰ものよ」

 サリールはなおも不満そうだったが、ふいに顔を明るくした。

「そうだっ、願い事の二つ目。姫をぼくに惚れさせるってのは?」

 やれやれ、安直なことを。

「人の心を左右するのはなし。それはインチキというものよ。無理にそんなことしたって、誰も幸せになれないわ」

「ちぇっ」

 サリールは素直に落胆する。少年の頃から片思いしてきた義理の母を、安直に手に入れるのも無理、とわかったらしい。

「ま、残りの願い事は気長に考えなさい。別に締め切りはないんだから。あなたが生きている限り、あたしは待ってあげるわよ」

 その間、ずっと、ヤスミンが寄り添っていてくれるから。

 しかし、それもまた、サリールには気に入らないらしい。

「だいたい、スメニアだっておかしいぞ。種族が滅びるとかぼやいてて、女同士で何やってるんだよ!! 自分の種族の男を探したらどうなんだ!!」

 と、怒りの矛先をこちらに向けてくる。あたしは澄まして言った。

「あたしもヤスミンも、子供は何人も産んだわよ」

 とうの昔にね。若くて、好奇心旺盛だった頃。何人もの男と、楽しく火遊びをした。精霊の男、人間の男。

 でも、それは結局、魂のつながりではなかった。

「その子供がまた子供を産んでるし、その子供もできているし、一族への義理は、もう果たしたと思うけど」

 ヤスミンも笑って言う。

「産むだけなら、また産んでもいいけれど、愛しているのはこの人だけですもの」

 すると、サリールは愕然とした様子になった。

「そ、そうか。若く見えるけど、きみらは実際は、あの魔王より年寄りなんだよな……」

 と、何やら難しい顔で考え込んだりして。

 ま、精霊というのは、確かに人間よりは長生きだけどね。

 なまじ若い姿でいるだけに、残りの歳月がどれだけあるのか、あたしたち自身にも見当がつかない。

 だから貴重な残り時間は、一番好きな相手と過ごしたい。

 いろんな男を試してみて、結局、ヤスミンが一番だとわかったのよ。ヤスミンも、あたしが一番いいというの。あたしたち、相性がいいのよね。

 そう話すと、

「わかったよ。だから、手放しでのろけるなって。頼むから」

 サリールが脱力してしまった様子なので、あたしはつい、つついてみたくなる。

「じゃ、あなたも父王の妃を奪いに行く?」

 すると、サリールは真顔で吠えた。

「言うなっ、ぼくはそんな不孝者じゃない!! 父上はぼくのことも、義母上のことも、同じくらい愛してくださるんだから!!」

 ま、そういうサリールの方が、あたしも好きだけどね。

***

 十日ほどの休養の後、アルタクシャスラ王子の一行は、ナイル河畔を目指して引き上げていった。

 ここまでの旅で怪我をしたり、疲労したりしていた兵たちも、緑の庭園で休息がとれた上、財宝を気前よく分配してもらい、元気百倍という様子。竜巻で散り散りになった駱駝たちも、あたしがかなり、かき集めてきたし。

 元魔王とミラナは数日前、あたしが砂漠を一飛びして、よさそうな海辺の村に送り届けてきた。フェニキアやギリシアの商船が停泊するささやかな港があり、漁師たちの舟が沖合で魚を取り、斜面には葡萄やオリーブの木が植えられている平和な村よ。

 しばらく困らないだけの金貨や宝石は、アルタクシャスラ王子が、餞別としてミラナに持たせている。

 二人はその一部で、村はずれに畑つきの家を買うことができた。ミラナはペルシア人貴族の屋敷を結婚退職してきた侍女という触れ込みで(ほとんど事実よね)、うまく村人たちに信用されたのだ。そうして、元魔王が市場で買い物してきたり、裏の畑を耕したり、井戸から水を汲んだりするのを、微笑んで見守っている。

 彼がすっかり人間としての感覚を取り戻すのに、まだしばらくはかかるだろうけれど、孤独な魔王でいるより、ミラナの側で平凡な暮らしをする方がいい、という見切りは、もうついているようだった。ま、五百年もすさんだ暮らしをすれば、誰だってもうたくさんよね。

 二人はもう大丈夫、と見極めてから、あたしは砂漠のただ中の岩山に戻ってきた。

「お待たせ、さあ、あなたの番よ」

 もう一つの約束通りに、ラガシュールを南の密林まで送っていかなくてはならない。魔王の力がなくなった以上、ここもやがて水が涸れ、緑が消え、ただの岩山に戻ってしまうもの。

「すまんのう、世話をかけて」

 と老いた竜は謙虚に言う。

「とんでもない。あなたに会えて、あたしも王子も、どれだけ心強かったか」

 サリールにラガシュール、ミラナに姫、アルタクシャスラ王子、多くの出会いがあったからこそ、事態は解決に向かったのだ。

 魔法の腕輪はあたしが王子から受け取り、海に捨てておいた。もう、こんなものが必要になることはないだろう。

 しかし、ラガシュールの引っ越しは一苦労だった。ラガシュールの巨体を持ち上げて運ぶのは、ヤスミンが手伝ってくれても大変なのだ。といって徒歩で砂漠を横断では、ご老体にはきつすぎる。

 やっとのことで緑の濃い、水の豊かな土地に彼を下ろし、細々と生き残っていた仲間を探し、幸運を祈ってから、あたしたちは北へと引き返した。

 帰りはあたしとヤスミンとサリール、三人だけだから楽なもの。絨毯で軽々と砂漠を越え、海を越え、サリールの故国を目指した。途中、あたしとヤスミンがきゃっきゃとはしゃいでいるのを横目で見て、サリールは多少、面白くないようだったけど。

「あなたは故郷に、待っていてくれる娘がたくさんいるんでしょうが」

 と言ってやった。

 それとも、留守の間に、もっと誠実な男に乗り換えられているかしら。誰も待っていてくれなかったら、思いっきり笑ってやろう。

   『ペルシアン・ブルー26』に続く

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