見出し画像

やっちゃば一代記 実録(27)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 成金豆・ピーマン
戦後数年というもの大木は軍納入業者として西洋野菜の調達に明け暮れた。
休市の前日はそわそわした。楽しみにしていたやま周りに出かける日である
それまで築地市場の休市は毎月十日と二十五日の二回だったが、昭和二十三年十一月から五日、十五日、二十五日の三回に増えた。休みが多くなるのは誰もが嬉しいものいだが、大木の場合はことさらである。
平日も休日もなかった。やまが大木を招くのだ。
 房総や信州に加えて、伊豆にも足を伸ばした。バイクの荷台に雷おこしを十数個縛り付け、東海道を箱根に向けてひた走った。箱根街道を芦ノ湖に抜け、十国峠から伊豆の山の尾根伝いに伊東へと向かうが、当時の伊豆半島はほとんどが砂利道だから、目的地に着いたときには自身もバイクも疲労の極みに達していた。
 安宿に泊まった翌日、目当ての畑に向かった。伊豆といっても熱海より南は、山すそがそのまま海に落ち込んでいるような場所ばかりで、畑地の広さは信州や房総とは比べようもない。だが、よくしたもので、ここの絹さやは別名、【成金豆】といわれるくらい市場から評価されていた。
 大木は成金豆を作っている畑に感心した。他の産地が棚をこしらえて横に蔓を這わせる栽培をしているのに対し、ここでは支柱に豆蔓が上に這い上がるような栽培方法だ。狭い畑地を有効に利用でき、なおかつ霜害を受けにくいという利点があった。大木は伊豆の農家の知恵と根気を見せつけられる思いがし、即座に取引契約を申し入れた。おみやげの雷おこしも効いたのだろう、農家は一も二もなく承諾してくれたが、これだけでは満足しなかった。
伊豆のやま周りの一番の目的はピーマンだったからだ。
 一般家庭にピーマンはまだ珍しい時代。市場に入荷する量も限られていた
米軍の進駐で需要が一挙に強まり、産地開拓が急務になると、大木は栽培方法から保存法、調理法など文献やその道の専門家から聞いた知識をしこたま仕込んで伊豆に向かったのだ。ただ、多くの農家はこの野菜を唐辛子と受け止めていたようで、ピーマンの栽培・出荷がどうにか軌道に乗るまでには、一年近い月日が流れた。その間、大木は雷おこしを積み重ねたバイクで伊豆の農家を口説きまわった。
 ようやく出荷がはじまると、伊豆ピーマンは米軍だけでなく、レストランやホテルからも注文が殺到した。おかげで伊豆半島の栽培地域は伊東から下田まで南下し、ピーマンは成金豆に劣らない人気商品となっていった。
 ピーマンは大木の店に直に届いた。普通は荷受けである卸売会社に出荷、大木ら仲卸業者にセリ販売されるのだが、生産者は大木への直接出荷にこだわった。というのも、栽培意欲を持ち続けられるような価格で引き取ってくれるからだ。これを買い取りというが、一方、卸売会社はセリ販売の代金から一定の手数料を取る受託販売方式で、買い取りのような価格保証はしない。入荷量が多いと値下がりして生産者の手取りが少なくなるのだ。
 伊豆ピーマンの独占販売でしばらくは大木も産地も大いに潤った。下田の生産者グループは大木の銅像建立まで提案し、さすがに「生きているうちに銅像を建てられるのはご免だ!」と辞退はしたが、大木の進軍ラッパによって戦後の一時期、東伊豆一帯は一大ピーマン産地として名を轟かせてのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?