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やっちゃば一代記 実録(25)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 終戦
 大木は上海に近い南通という赴任先で敗戦を知った。
「朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し茲に忠良なる爾臣民に告く・・・・・」
 海外にも玉音放送がラジオで流された。天皇の肉声を聞くのは初めてだった。その音声は切れ切れで弱弱しかった。どうやら日本は負けたらしいが、
なにより機密書類の処理が急がれた。八路軍の報復が危惧された。日本領事館の館員らは三日間書類を償却し続け、軍国日本を祭った南通神社も取り壊した。
 昭和二十一年一月、大木は家族を伴い、着の身着のまま、少々の米を用意し、船倉も甲板も復員兵と邦人家族で埋め尽くされた輸送船で佐世保に向かう。丸五年の上海生活だった。その間に日本はどう変わったのか?。故国に近づくにつれ不安が募った。
 列車が広島駅に着いた。そこは廃墟だった。原爆投下から五ヵ月近く経っても一面焼け野原が続いていた。被爆地の瓦礫の山のなかから煙が漂っているのが見え、その近くに二、三人の人物が亡霊のようにじっと立ち尽くしている。聞いてはいたが、原爆の威力がこれほどのものだとは想像外だった。
 大空襲を受けた東京もこんな有り様なのだろうか?銀座は?築地市場は?
さらに持倉は残っているのか?大木の不安はいよいよつのった。
銀座はほとんど焼き尽くされていた。が、焼け跡には三越、服部時計など、いくつかの建物が踏ん張るように残っていた。教文館ビルも爆撃を免れていた。そこは復員後、一番に訪れたい場所だった。地下への降り口にタイルをキャンパスにした藤田嗣治画伯の壁画があったはずだ!筋骨たくましい黒人が地球を両腕で持ち上げている構図である。しかし、壁画はコンクリートの地肌を残し、そっくり抉り取られていた。ドサクサ紛れに誰かが持ち去ったのだろうか?もしその壁画がしっかり残っていたら、自分の今後は・・・・
大木は珍しく感傷的な気分に浸った。戦前、大木は仕事に疲れ、悩んだときよくここを訪れては壁画に見入った。筋骨隆々の黒人から生気と元気をもらえる気がしたのだ。
 築地市場は戦火を免れ、持倉与吉も健在だった。その頃、配給業務を指定されていた青果仲卸業者は二十店だったが、配給だけでは食べるにかつかつとあって、ほとんどが闇取引をしていた。青果売り場と水産物売り場の境にあった時計台の下が闇取引の場所で、そこで公然と野菜や果物が現金で売買されていた。なかには新潟から清酒を仕込み、暴利を得ていた業者もいた。
戦前の統制経済下の状況とほとんど変わらない、いやそれ以上に深まった闇取引に大木は嫌気がさした。が、自分だけならともかく妻と子供はどうするのか?。背に腹は替えられない。大木は持倉に戻り、再びやま周りを始めた。
同じ闇取引でも生産者、流通業者、消費者の三者共存を心掛けた。やがてこれが自分の財産になるのだと信じて。
 千葉の産地は農家の担い手が戦線に召集され、狭い畑は荒れていたが、馴染みの農家は大木を温かく迎え、進んで野菜を出荷してくれた。戦前に乗り回したバイクを引き出し、内房、相模と産地を走り回るうちに、消えかけていた夢が再び膨らんできた。まっとうな取引ができるようになったら自前の店を持とう。そして海外からの野菜も手掛けよう。その夢に追いつこうとするように大木はバイクのアクセルをいっぱいにふかすのだった。

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