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バ美肉は『推しの子』に分人の夢を見るか?

初めに

初めに問いたい。
「バ美肉は『推しの子』に、
分人の夢を見るか?」


アニメ『推しの子』に見られる
〈嘘〉の肯定は興味深い
推しアイドルの隠し子として転生し、
母を殺した芸能界に復讐を挑む群像劇だ。

推しの子は自己の複数性と、
コミニケーションにおける演技性を
何故だか肯定的に描いている。
「最高の嘘つき」「憑依と演技」
「転生と身体」
こうしたキーワードはいずれも、
我々世代の「アカウント的」な自己観覚を、実にうまく表現している。

演技・転生・裏垢


『なめらかな社会とその敵』 の中で、
倫理の自己生成には他者の立場に立ち、
移ろいを受け入れること、とあった。
少し飛躍すれば。
それは原始仏教において、
色即是空と共に〈輪廻〉の概念が
必要だったことの説明と考えても面白い。

「他人になりきる」
演技と転生は似ている。


本文は端的に言えば自己の移ろいの話だ。
あるいはもっとz世代的に、
〈裏垢と自己〉の話でもいい。

舞台とスクショ


推しの子に話を戻そう。
社会は演技の場、「舞台」だ。
Instagramは自己イメージの鏡像だし、
皆んながフィルターや裏垢を使い転生し、
「最高の嘘つき」を演じている。
誰もが偶像的・記号的だし、
そのことをみんなが知っている社会。

ひたすら記号的な自己像の、
そうした複数性や演技性は。
なめらかな自己を切りとった、
スクリーンショットなのかもしれない。

自己の複数性。
日常の演技からスクショされる像が、
我々にとってのアイドルであり、
みんなにとっての偶像的な自己だ。
それは、ある種自己の一貫性に反目した
切り取りや演技であり。
そうした自己観を肯定的に捉える為の、
〈アカウント•スクショ自己〉の本質だ。

この新しい自己観覚のロールモデルは、
若者のSNSだけでなく、
インターネットの極北である
YouTubeやメタバースにも存在する。
「バ美肉」や、「Vtuber」である。

バ美肉・分人・計算機自然

『なめ敵』に視点を戻そう。
バ美肉は思想として分人を掲げよ。
一部ではそういうムーブメントもある。

『なめらかな社会とその敵』
で紹介されていた、
「分人dividual」とは、
「個人individual」に代わる、
新しい人間観だ。

近代のパラダイムでは、
合理的個人は所謂ペルソナを使い分けて、
即ち「嘘と演技」によって
社会生活を営むと考えられてきた。
これが〈演技性〉だと捉えても良いが、
この文脈なら肯定的に描くものではない。


これに対し分人的な〈演技性〉は、
対人関係や環境ごとに分化した
複数の人格の総体として
〈自己〉というのを捉える所に肝がある。

バ美肉やアカウント的な自己観覚は
分裂症的と揶揄されるかもしれない。
だが、そもそも個人という認識は、
60兆の細胞に謎の一貫性を発揮する
〈自由意志〉という、
現実から分裂した概念であろう。

あらゆるものが規定的な近代に対して
全体性による超克を求める思想は、
落合陽一『デジタルネイチャー』にも繋がるような、新しい自然観のビジョンだ。
この思想が東洋思想や仏教と着地するのも、なかなか腑に落ちるものがある。

分裂的でも、演技的でもない。
なめらかな自己と「スクショ」。
分裂症や障害といったマイノリティ。
それらの〈言の葉〉を、
分人的な人間観が溶かしてゆく。

『偶然性・アイロニー・分人』


隣人愛に論理や理由を求めてはならない。
こうした規範は、正に分人的にこそ導ける。

通常我々は、〈人間〉という
記号に付与された価値性、
即ち〈人権〉を隣人愛の根拠とする。
しかしこうした従来の人間観では、
そこから〈人間性〉の意味定義が創発し、
自ずと、〈人間〉という語の意味分布、
その辺縁であるマイノリティへの、
言語由来の必然的差別が起きる。

言語ゲームにおける侘び


保守とLGBTQ•フェミニズムの議論に、
全時代的な不毛さが漂うのは、
〈言語〉の意味定義の争いだからだ。

語の意味頻度を変える運動が、
価値観であり思想運動だ。

抵抗や主張は必要だとしても、
近代というリングの中で、
正義のバットで殴り合う大人たちは無残だ。
「あいつが敵だ!古い価値観の名残だ!」

ここで、記号の創発。
即ち言語の意味変更や、
更新によらない思想活動は可能なのか?
という問いが生じる。
果たして「言語による理解」を超えろという
なめらかな思想は、可能なのだろうか?

記号によって近代自己が創発される、
記号によって可読性のある情報としての
〈意味〉や、〈価値〉が生じる。
ユヴァルノアハラリはこう言う。
「我々は虚構を信じる事で連帯できた。」


形式的な意味を
集合的に創発する記号システム。
即ち〈言語ゲーム〉としての
思想・言語の活動は、
絶え間ない意味の争いを産みながら、
新たな意味分布による納得を模索する。
それが我々の歴史だ。
ニューラルネットは果たして、
記号をなめらかに溶かせるだろうか?

ソリューションとしての比喩

比喩を愛そう。
それは言語に対するアイロニーだ。
ポエティックな飛躍によって記号は、
異なる思想を緩やかに溶かしつつ、
言語ゲームの虚しさを慰めてくれる。
物化する思考を、〈正義のバット〉を。
フレームや思想を溶かしてしまいたい。

新しい被差別属性を増やすだけの
〈多様性〉にはうんざりだ。
個人の多様さを分裂症的と整理して、
いかに多様さが生じようか?

なめらかな分人は個人をなめらかにし、
言語化されない全体性を許容する。
線形でなめらかな属性が許容する多様さは、あなたがそのままで流転する適応を許容する。

なめらかな解像度のメディア

ある意味〈スクリーンショット的自己〉は、
単に表現の情報量の問題かもしれない。
稠密なメディアは、たとえばVRは。
内包する自己の複数性を許容するかもしれない。

社会の環境変化が加速する中で、
環境適応としての分人的自己観は、
〈アカウント的・スクショ的〉
そして先鋭としての
バ美肉的なモノに見られる。

適応的な分裂と不変の相対化

生物は環境に適応する。
若者の環境適応は、
複数の自己を物化する。
これは啓発ではない。
分人は〈自己〉肯定や啓発からは
決して得られない。
よってこの文章は、
自立するバ美肉への啓蒙でもなければ、
マイノリティの為の思想運動でもない。

「合理的」な意思決定は、
長い時間軸では期待出来ない。
ましてや〈自己〉の一貫性も疑問だ。
移ろいゆく環境の中で、適応する。
そうした流転の中で、
不変の想定に価値があるだろうか。

バ美肉は推しの子に分人の夢を見るか?


これには少し〈嘘〉もある。
「嘘も方便」
方便も元来仏教用語で、
悟りにいたる方策のことだという。

本当はこう問いたい。

「バ美肉や推しの子に未来を見るか?」

『なめらかな社会とその敵』
の分人主義は、遠くは仏陀の流転、
そして〈バ美肉〉という
謎のアーリーアダプターたちと、
『推しの子』に見る、
若者の自己感覚が代弁している。

日本のディープなサブカルチャーは、
世界の未来だ。


出典及び参考
*下に後書きあり。

なめらかな社会とその敵 ――PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論 (ちくま学芸文庫 鈴木健

『哲学探究』 講談社
ルートヴィヒ•ヴィトゲンシュタイン

偶然性・アイロニー・連帯: リベラル・ユートピアの可能性 岩波書店
リチャード•ローティ

サピエンス全史 川出書房新社
ユヴァル•ノア•ハラリ

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂 PLANETS/第二次惑星開発委員会)
落合陽一 

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)
谷口忠大

メタバース進化論: 仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界
バーチャル美少女ねむ 技術評論社

補足

  1. 言語ゲームの用法
    本文ではヴィトゲンシュタインの言語ゲームと記号創発を同質かのように論じたが、
    パース記号論や創発システム論をベースに、ボトムアップな記号秩序の創発と使用を論じている点で、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』における言語ゲームとは異なる。
    しかしどちらも、ある種の等価計算的な侘やあはれみを感じる点で、ゲームという表現を使った。創発しようがしまいが、なにしろ制約は自由への憧れを生む。

2.矛盾
これは『思想』である。
つまり言語の意味頻度の更新を目的化している。(そんな大層な気は無いが)
この無意味さと矛盾こそ、
しかし本来意図するものである。
新たなフレームには意味くらいしかない。
無常観を持って帰って頂きますように。

3.記号によらない思想活動
無理だろう。無理でいい。
記号的な全ては、表現も含めてそうだ。
言語的アイロニーの局地を禅問答とすれば、極論は無意味を目指すことになる。
矛盾だらけだが人らしくて良い。
なにより、あはれみを感じる。


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