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「わたしの想い」Vol.2~夫の介護を経験して~ 地域包括支援センターときわぎ国領

調布市地域包括支援センターときわぎ国領では、住み慣れた地域で生活されている認知症の方や家族介護者同士で対談を行い、小冊子『わたしの想い』を作成し文章で発信しております。なかなか知ることのできない当事者の皆様の想いにぜひ触れてください。

わたしの想い Vol.2 ~夫の介護を経験して~(令和4年11月作成)

登場人物…Aさん/Bさん(家族介護者) 小嶋/佐藤(当センター職員) 

佐藤:お世話になっております。私、調布市地域包括支援センターときわぎ国領で認知症地域支援推進員をしております佐藤と申します。昨年に引き続き『わたしの想い』発行にあたり、会場は染地ふれあいの家でさせていただいております。よろしくお願いいたします。
 
一同:よろしくお願いします。
 
佐藤: 『わたしの想い』についてですが、前作をお読みいただいた方は既にご存知かと思いますが、前作では認知症当事者の方、お二人の会話を録音させていただいてそれぞれお話を伺いながら文章にしております。今回は介護を経験された側のお二人のお気持ちであったりとか、ご経験について触れさせていただく内容となっておりますので、お二方ともお話いただければと思います。それでは小嶋さんからお二人のご紹介をお願いしてよろしいでしょうか。

小嶋:はい。包括で見守りネットワークを担当しています小嶋です、よろしくお願いいたします。今回お二人に声をかけさせていただきました。この二人の方、AさんとBさんも、長年本当に地域の活動を沢山されていらっしゃいまして、本当に地域では知らない人がいないんじゃないかっていうくらいすごく有名な方々なんですね。お二人とも日頃から活動やボランティアをされていて、いろんな方とのつながりも広くて、いろんな方を気にかけたり、ちょっと心配な方がいると、ときわぎさん(包括)に相談するといいよとか、介護保険の認定受けたほうがいいよと声掛けをしてくださる、地域の中で活躍されているお二人なんですね。今回このお二人には、ご主人を自宅で介護をしていたという共通項があります。介護をされ、結果的にご主人が施設に入られたAさんと、ご主人が残念ながら亡くなられたBさん。自宅で介護をするということは、介護保険の色々なサービスを使いながら、それでもやはり毎日介護をしていかなければいけないという大変さだったりとか、辛いこともおありだったかもしれませんし、心としても身体としても負担がおありだったりと思います。でもやってみて、大変だったけれど、何か得るものとか、今はこうしてその時期を経てこうやって皆さんに介護の経験とか、自分の想いをぜひ聞かせていただきたいと思っております、よろしくお願いいたします。
 
佐藤:それではAさんから、簡単に自己紹介をお話しいただければと思います。
 
A:Aと申します。私は地域でのボランティア活動を二十年間くらいやってきました。一番最初のボランティアは本日の会場が障害児施設であった時でした。子どもたちに、おもちつきのお手伝いからはじまりました。それから納涼祭のとかね、ずーっとやってきました(笑)。
 
佐藤:ありがとうございます。では、これまでの経緯をお話いただけますか。
 
A:はい。私、主人を介護して、約一年なんですけど。主人がお風呂で脳出血を起こしたんです。私が歯医者から帰ってきたら、お父さんはお風呂に入ってた。いつも主人は夕方お風呂入ってたので、あー風呂入っているなっていうのは分かっていて。でも、帰ってきて五分後くらいだったんです。お風呂で、「ぎぃー」っていう音がしたので行ってみると、お父さんは湯船に頭をつける寸前だったんです。もう、なんか私が帰ってくるのを待ってたかのように。それで救急車呼ぶ為に、すぐ119番したんですね。私はお風呂の中で溺れちゃうといけないから、ギューッとお父さんの両手をもって救急隊を待ってました。あと、家族にも連絡して。息子のお嫁さんが駆けつけてくれて、玄関に来てるんですが、玄関の鍵閉まってるから、家の中に入れなくてどうしようどうしようどうしようって混乱して。お父さんの両手を離しちゃったら湯舟に沈んでしまうし。落ち着いていれば判断できたと思うのですが、この時はお風呂の栓を抜くという事がもう頭には思い浮かばなかったんです。お父さんに、お風呂の蓋に捕まってねと捕まらせて。それで玄関の鍵空けて。そのうちにすぐ救急車が来たので、〇〇病院に運ばれて。診断結果は、脳出血でした。翌日、担当のお医者さんから呼ばれて、私と長男が先生に話を聞きに行ったんです。その時、もう、家での介護は無理ですと言われました。もうどうしようって。今後どうしたらいいんだろうかって。すごく心配になりました。〇〇病院に40日、それから△△病院にリハビリで4か月入院加療しました。でも、歩くことはできませんでした。左脳での出血だったので、右半身不随になってしまって。退院後は老健に3か月入所しました。その間に、家の中に介護ベットを入れるのに、本箱から机、箪笥、全部処分して、お父さんが帰ってくる準備をしました。で、約9か月ぶりにお父さんが自宅に戻ってくることができました。お父さん、帰るよと言ったら、もうびっくりしたように凄く喜んでました。
 
その頃、私は7年間股関節が悪い中生活をしていて。既にすこし足を引いている状態だったので、お父さんを車いすからベットに抱きかかえて、ベットに座らせなくちゃいけなくて。もうその時二人で倒れたらどうしようと。当時ほんとうに不安の中、介護が始まりました。退院の次の日から、夫は一人では全く動けないので、日常の補助を私が全部やらなければならなくなりました。次の日から8時にはヘルパーさんが入って下さり着替えさせてくれたり、おむつ交換してくれたり。で、8時30分にご飯の用意。今度は9時になると曜日ごとに言葉のリハビリの訓練が入ります。その次の日は、体のリハビリが入ってきた。次の日はお風呂の訪問入浴が入ってきたり。で、16時とか16時15分にヘルパーさんが入り、着替えさせてくれます。夜になったらごはん。ごはん終わったら、またトイレ座らせて、今度ベットに寝かせます。もう、まったく自分の余裕の時間は、なくなってしまいました。だから、あっという間に一日が終わってしまいます。下の世話から、時には、もう全部出ちゃってる時もあるし。そうすると全部着替えさせないといけない。介護の大変さから、介護認定は要支援1~要介護5の7段階ありますけども、主人は一番大変な要介護5です。全て手助けが必要です。慣れない介護に手間取りながら、本当に一生懸命やりました。家族がまとまり、月に一回、お父さんを囲んで、家族9人が家に来てはご飯を一緒に食べたりしました。私は、家族内でのコミュニケーションを心掛け、家族団らんの時間を持つことが大事だなと思って介護をやりました。お父さんはとっても幸せに過ごしてました。我が家は子供が全部男なので、嫁さんとか孫とか、みんなが本当に協力してくれたことに対してほんとに感謝でいっぱいです。
 
でも、介護する私は疲れ果てている時が何日もありました。お父さの夕ご飯が終わり、お父さんは早くベットに入りたかったんです。でも、私はもう、くたくたで動けない時がありました。そんな生活の中、一度だけ、お父さんを怒らせてしまった時があったんですね。お父さんごめんなさいごめんなさいってすごく謝りました。ただ、うちの主人はすっごい穏やかな人なので。怒ったのはその時一回だけだったですけども。
 
佐藤:どんなことがあったんですか?

A:たしか、あの時は、お父さんも疲れていて、早くベットに横になりたかったって言っていました。でも、あたしはほんとに疲れ果てていて。介助ができなかったことがあったんです。その時、お父さんんが「あーっ‼」てすごい怒った時があったんです。で、もうお父さんにごめんなさいって。謝りました。
 
そんな、毎日毎日毎日忙しい思いをしている時に、私に乳がんが見つかったんです。それでもう、すぐに包括支援センターにも相談にいきましたし、お父さんを一人にして入院なんかできないので、老健にも相談しに行きました。その後、お父さんを老健に預かっていただいて。あたしは2019年6月に乳がんの部分切除の手術をして、8月には1か月間、放射線治療で毎日病院通いました。その間、主人は老健に。放射線治療やってる最中も、結構お父さんのところ通ってました。老健の人がダメだよ、無理したらダメだよってすっごく心配してくれたのを未だに覚えています。当時は民生児童委員もやらせていただいていましたが、主人の介護と私の病のこともあり、6年11か月で交代させていただきました。その後、私の闘病の間に、主人が施設に入ることができました。それはすっごくよかったんですが、私が病気にならなければ、主人をもっともっと看てあげられたのにという思いがあり。お父さんのことを思うと、思うと・・・ほんとに涙が流れるっていうのが、3~4か月間有りました。

主人が施設に入って、3か月後に股関節が悪かったので、股関節の手術をしました。それと狭心症を患ってしまい、胸が痛くなって、昨年の6月と、今年の6月の二度にわたって心臓カテーテル手術をしたりしました。でも今は胸の痛さもなくなったので、元気になりました。
 
あたしも20年間にわたっていろんなボランティアをしてきましたが、主人の介護がなかったら、周囲の皆さんの介護の大変さを理解できなかったと思います。だから介護をできたことはすっごくよかったなと思ってます。

佐藤:ありがとうございます。
 
A:はい。すみません。大体介護の事はこのくらい(笑)。
 
佐藤:壮絶な経緯でしたね。大変な思いをされたことも沢山あったと思うんですが、介護を経験してよかったなと思える介護経験をされたんですね。
 
A:そうですね。本当に。お父さんに寄り添って、介護ができたことは、ほんとうに、よかったなと思ってます。それはお父さんもよくわかってると思います。
 
佐藤:それをお隣で聞いてみていかがでしょうか、Bさん。
 
B:ご主人の介護だけじゃなくて、ご自分の体の異変まで起きる状況っていうのは、私ではちょっともう想像がつかないくらいで。私だったらどうしたんだろうかなって思いました。Aさんのご主人の介護をして良かったって仰るのをお聞きして、すごい人だなって思いました。頭が下がりっぱなしで。すごい!
 
佐藤:そうですね。Aさんありがとうございました。では次にさんのBご経験をお聞きできたらと思うんですけれども。ご主人のお話の前に自己紹介していただいて、ご経緯をお話いただいても良いでしょうか?
 
B:はい。私はときわぎ(包括)担当区内に住んでいます。もう40年くらいでしょうか。うちも子供が三人おりまして。わりと近くにいるので、そういうことではありがたかったなと思うんですけども。
 
私の場合は、いきなり夫が病気になったわけじゃなくって。わりに順調に生活してたんですけども。仕事をリタイアして。自分のライフワークっていうのを持ってたもんですから。夫はそれを一生懸命やってて。夫からはお腹の中の肝臓に血管腫っていうものがあるって聞いてたんですが、それはもう15~6年前から医者に通ってて分かってたんですね。で、それは悪さをしないから、医者からはもうそのまま、経過観察だけしていきましょうっていうような感じで説明されていて。だから悪化した時は私も慌てましたね。本人は何も経過を言わないし、もちろん分かってもいなかった。悪さしないって聞いてたから、安心してたと思います。私も悪さしないならいいわねみたいな感じに考えているうちに、お腹が、こう膨らんできて。孫にもグランパはなんか妊娠6か月だとか何とか冗談いったりして笑わせてたんです。まぁでも実際はそういうわけじゃなくて、やっぱりほんとに体重も増えてくるし、顔色も悪いんだけどもお腹だけ膨らんでくる、というようなことで。「これを手術するのは今とてもリスクが大きいから、手術はやりません。もう墓場まで持ってってください。」って、医者がはっきりそう言いました。あの、珍しい病気なんですよね。痛いとか痒いとかそういうことはなんにもないんです。ただひたすらお腹が出てきて。結局それは何故かっていうと、腹水が溜まってたからなんですよね。それで都心の病院で腹水を抜いて、抜いた腹水の中に含まれている栄養分をまたお腹に戻すと。昔は腹水抜かなかったですけども、今はカルト療法っていう治療法があってね。あの、カルトってあっちのカルトじゃなく(笑)。
 
それで、月に2回ぐらいですね、2泊3日で入院して、カルト療法をする、そういうのが始まったわけです。それが病院からの提案で、対症療法をやるしかなかったんですよね。だんだんそうなってくるとやはり、腹水のせいで痛くはないんですけど、やっぱりお腹ふくらんでくるってことは、体重が重くなって、腰とか背中にくるわけですよね。重みがかかって。それで車で子供たちが順番に交代で都心の病院まで送迎をしてくれました。で、今日私がするわって子供たちがやってくれて。だけども夫は車に乗るのが大変なんですね。普通なら、ぱっとこう、ドア開けて入って乗れますけど、乗るのに足がもう、こう、じわじわと足が上がらない。で、夫は家族に触らないでほしいっていう。自分で乗るからって言って。これ20分かかるんです乗るまでに。そうして、また帰りもそうですよね。そんなことやなんかで、でも触るなっていうから子供たちはもうとにかく手を出さないで見てるしかない。ほんとに。大変でしたね。私は、介護をしてる実感っていうのはまだその時点ではなくって。まぁなんとか一緒に通院して、付き添いだけはやってましたから。特別、『介護』っていう言葉も知らないし、何をしたらいいか分かんなかったです。
 
夫はさっき言ったライフワークをもってたんですよね。どういうのかっていうと、自分の大学の講堂がすごく音響がいいもんですから、音楽のですけどもね、そこでコンサート企画っていうのをやってたんです。だけど、ちょうどコロナで2020年、会場を借りられなくなった。それを皆さんにお断りしなきゃいけない。4月頃に予定してた企画を秋にしようとしていて。それでパソコンの前でそういう手続きや皆さんにお知らせをしたり、プログラム書いたりしてました。だからパソコンで、やるしかなかったので、外に出る事はなかったの。うちでひたすらパソコン前で作業していて、でもその間どんどんお腹が膨らんできて。私も腹水ってこと知らない時は、「なんであんたそんな今頃お腹おおきくなってきたのよ」とか言ってたのよ、私もなんかちょっとふざけたりしておりましたけども(笑)。
 
結局そんな中、腹水を抜いては入れるというのをやってた。腹水の貯まる量も、きっと皆さんびっくりされると思いますけども、多い時11リットル抜きました。それで入れるのは2リットルくらいね。だからお腹は大きかったですよね、体も重かったです。で、だんだん、うちの中で、こう、こんなお腹でパソコン打ってたんですけども。とりあえずまぁ4月は終わりにして。で、秋のプログラム作り、また秋も同じものやるんですけども、やっぱりもう一回企画を練り直さきゃいけない。
 
だから、私は夫のそういう姿を見てて、あ、やっぱり協力しないといけないなって、思ったんですね。で、私自身もコロナが流行しているわけですから、あんまり外に出歩けないし、いろんなことを休業にしたり、お休みしたりしてたから、うちに居られたんですね。だから、まぁ、じゃあ、この人がやろうとしてることを協力しよう。秋に一緒にコンサートに行くときも一緒に付いて行ったりとか。そういう協力を子供たちも一緒にしてくれたりして。だからそういう段階になって、秋になって、やっぱりいよいよ自分で行くのが大変になってきて。もう杖をつき始めました、車いすになりました、というような感じになってね。私も子供もそちらの方に協力してたんだけど、どんどん本人の体調は悪化していきます。そして、いよいよ介護保険の申請をしなくちゃいけないねっていうのは10月でした。それから申請したんですけども、やっぱりコロナ禍だから認定審査会も延期しているんですよね。1か月前はすっと足が上がりましたけど、申請した時はもう足が上がらない、1か月の間にすごく悪化してしまって。それが早かったですね。あと、あたしが心配してたのは、都心に通院してももう治療はできないって言われてました。だけど夫はその医者にかかりたいっていう気持ちがあったんですね。私は、とにかく調布の病院と連携して、調布の病院にしたほうがいいんじゃないか、遠くまでいかなくてもいいでしょうっていうような話をしてたんですけど。夫は、「そんな専門家はその調布の病院にはいるのか?」って言ってね。なかなか病院を変えようとしない。地域連携しない。私は絶対それがいいと思ってるから。だから困ったなぁって思ってたんですけども。12月でしたけどもお医者様は、2月に予約を入れましょうって。それで夫はやっと納得して。調布の病院と連携できたんですね。それで結局亡くなったのは1月だったんですよ。だから1月に亡くなったのは、2月の予約になったから、安心できたからかもしれません。
 
まぁ、そんなようなことがあって。私は介護申請したり、ケアマネの人たちにお世話になりました。さっきも言った様に、1か月にこんなに進行しちゃうわけですから。暫定的に電動ベットいれましょう、車いすもいいですよって勧めてくださって。夫も電動ベットにしたかったんですよね。なかなか自分のベットだと起き上がるの大変でしたからね。だから電動ベットがすぐ入ったことで、すごく喜んで。その時に私は夫から褒められました。「おまえはよくやってくれたなぁ!」って。私も早く手配できるよう相談してたので夫は満足してましたね。だから、私も民生委員なんかもやってましたので、そういう知識はちょっとありましたし、すごく助かりました。
 
それで本格的に介護に入っていったわけですね。うちの夫は、お腹からだけじゃなくって、だんだんと足からも水が、こう出てくるんですよ。どっから出てるかは分からない、汗の穴でしょうかね、わかんないですけど。じわじわじわじわと染み出てくるんですね。最初は包帯で巻き上げてれば良いって言われていたので私が包帯巻き上げて。幅広の包帯を片方の足に3本使って。だぁーっと巻き上げて、腿ぐらいまで、両足になんですね。そんなことをやってたんですけど、〇〇病院の訪問看護、訪問診療。それとは別の事業所で訪問入浴のサービスを全部使って。その頃はお腹の具合も、便秘がちになってまして。今までもらってた薬がそれでは効かないからって、お医者様がいらしたときに、じゃあ変えてみましょうって言ってもらったり。その頃はどんどんいろんな症状が出てきてたんですね。それに合わせて、その都度お薬を変えて下さったので、夫もそのことが良かったってやっぱり言ってましたね。地域のお医者さんでうちに来てくださるのはありがたいっていうようなことで。そしてもう一つね。訪問入浴。お風呂が来たんですね。うちは二階にお風呂があるんですよ。だから、最初は階段に手すりがいるねって言ってたんです。でも、移動どうしようか言ってるうちに本人が音を上げて、あーもう僕はちょっと階段はもう行かれないってことになって。じゃあ訪問入浴をお願いしようって言って、お風呂が来ました。ほんとにね。すべてがスムーズにね、希望した日にどんどん来てくださって。お風呂に入った時は、まぁ、皆さん上手に入れてくださいますよね。お腹がこんな大きくても。こう入った時にね、お腹だけぽこんと湯舟から出てるんですね。で、そこにはちゃんとタオルかけて、そこだけにお湯をこう、いつもね、かけて下さって。夫はね、「あーっ、天国だぁ」って言ってね。二階まで行かれなかったから。本当に気持ちよかったんですね。それを見た私が、私が、泣けたんですよね。ほんとによかったねぇって言って。本人はもう天国だ、天国だって言って。いや天国じゃない、まだ、あの、上の方に有りますよって皆さん仰って(笑)。
 
まぁ、そんなんで、私がもう泣けて泣けて。本当によかったって。ほんとうに気持ちよさそうにしているのを見て。本当に。あの、うちの介護してた季節は冬でしたから、あったかくてね、お腹だけ島の様にこう、飛び出してたんですけどね、そこにちゃんとお湯をかけて下さっててね、ほんとに本人は喜びました。当初は本人は、お風呂をどうやっていれるんだって言ってたんですね。私は、いや、浴槽が半分になって自宅にくるのよって説明して。私は知ってたんですよ訪問入浴は。だからちゃんと大丈夫。うちにもちゃんと半分にして来て、ここでがちゃって止めて、お湯もでるからって言ったら。やっと本人が納得したんだけど。夫はそういうこと全然知らない人だったんですけども、まぁ私がそういうことを勧めて、そういう意味でいろんな経験が生きて良かったですね。訪問入浴、本当にありがたいと思いました。
 
ただ、私も介護で失敗したことがありました。それは、私は2階に寝てるんですね。夫は一階のリビングにベット置いてあったんですけど。スマホでなんかでのやり取りもしてたんです。ある時夜中に、ちょっと来てほしいって連絡がきてたんですけども、私夜いっぺん寝ると起きられない人なんですよね、地震が来ても起きられないんですよ。そうして、朝に気が付いた。えっ、て思って、慌てて下に行ったらば、二本の足が二本ともベットの下に。重たいから自分でもう上げられないんですよ。で、だらぁーってこう、やっててね、わぁー、ごめんなさい、ごめんなさいって言ってね。ほんとに私って駄目だなぁって。自分の頭叩いたりしてね。自分を責めてたんですけども。でも、やっぱり起きれないものは起きれないです。だからまぁ、そういう失敗もありますし。そして冬ですから。中は24時間エアコン入れてますけども。あの、食べ物を出しますね、そうするとすぐに冷えるのかなぁ。で、アツアツを出すんですけども、ちょっとゆっくり食べてるせいか、また冷えるのかしら。はい、チンって言って。また、ちょっと食べてると、また冷えるのかな、チンって。何度チン、チンって言われたか分かんないですね。電子レンジが欠かせなくって。お茶も熱々が良いって言うから、熱々を出すんですけども、それがもう自分が体が冷えてるからか分かんないですけども、その時私は口の中でね、聞こえないですけども、私一人で呟いたのは、めんどくせえなぁって自分で言ってました(笑)。
 
ほんとに、うわぁー、めんどくせ、めんどくせ、めんどう、めんど、めんどくせぇまで言ってて。次第に今度はめんど、めんどって言ってて。まぁ、そういう風に感じている自分がいた事とかね。なんか自分も後から考えると、ひどいなぁって自分を責めてました(苦笑)。もうそのぐらい私はやっぱりダメ人間でね、だから介護を通して、ほんとにいろんなことが出来てない人間だってことが分かりました。

私たち夫婦は、子育てが終わって、子供たちが成人して結婚した後は、普段二人がそれぞれで自分のライフワークみたいなものを持ってたんですね。だからほんとに、夫はコンサート企画のコンセプト決めやってましたし。私は私でボランティアとか心の相談だとか、音楽もやってて。お互いの自分の分野をもって、自立?自立してたような感じがして、お互いそれを認め合ってたんですね。だから普段、夫自身の病気のことを本人は言わないし、私も聞いても、うーんぐらいでしか、あんまり詳しく聞いていませんでした。だからそういう意味では、まぁコロナで出ていかない私がいたので、まぁ、そばにいられた。変な言い方ですけど、コロナだから子供たちもオンラインでね、仕事してましたけど、パソコンをもって病院も行ってくれてましたし。コロナだから私もそばにいられたし。で、子供たちもそうやってできたなって。うちにいて、感染もならなくて済みましたし。そういう意味では、コロナのおかげかなっていうことですね。そして夫は弟と妹がいるんですけども、やっぱり自分の病気のことを自分から話さなかったんですよ。私がやっぱりちゃんとお話しといたほうがいいなぁって思ったので、夫には内緒で、夫の状態、今こういう風だからねって。治せない病気だから、ちょっとお知らせしておいて、これは内緒にしておいてねって知らせました。振り返ってみて、やっぱり知らせておいてよかったなと思うんですね。本人からは自分の病気のことを人になかなか言えないっていう、そういうものがあるのかなって思ったりしてたんです。最終的には、だいぶ後になってから自分で電話をしてましたけれども。まぁそんなことやなんかありましたね。
 
私が今振り返って思うのはコロナでお互いに向き合えた。で、昔の音楽。私たちは音楽の方の関係でね。あのー、こう共通してたので。音楽の話ができたり、いろんなことができて、ほんと向き合える時間になったなぁってことは感じたんです。あと、サービスがほんとに色々あって、今も昔と比べてサービス自体も進化してると思うんですね。今までできなかったことが、もっとこういう風にできるとか。福祉のこういう世界も、どんどん進化していくだろうし。福祉用具もどんどんいいのが出てくるだろうし。いろんなことを私は思います。だからそういう情報をね、ちゃんと周囲にお伝えしたいなって思います。もちろん私も知りたいし、教えてあげたいし。皆さんにやっぱりいろんなことを伝えていけたらいいなと思ってます。まぁ、こんなところですね(笑)。 
 
佐藤:ありがとうございます。Aさん、お隣で聞いていていかがでしたか?
 
A:もうすごいなと思いました。
 
B: (笑)
 
佐藤:小嶋さんはいかがでしょうか?
 
小嶋:テーマは介護のことなんですけど、ご夫婦の在り方ってそれぞれご主人の気持ちを大切にしつつ、でも自分でどこまで頑張れるのかっていうところだったり、Bさんも仰ってたように、既存のサービスを使ってすごく有り難かったっていうお話ありましたけども。やっぱり介護というものに直面した時に、ご家族の在り方が問われてると思います。それこそ50年ぐらい夫婦で積み重ねてきたものが試されるというか。そういうきっかけなんだろうなって思うんです。我々は地域包括支援センターで働いていると、ご家族の介護についての相談っていうのは日常茶飯事で、何十何百と支援させていただいているんですが、やっぱり百の家族があったら、百種類なんですよね。あり方はみんな違っていて。このお二人の話はやっぱり、献身的というか、ご主人の為にがんばりたい、やってやるというお気持ちがすごいしっかりされていて。かと思えば、50年一緒に住んできたのにもう絶対介護なんてしないとか、特にお下の世話なんてできるわけがない、もうとにかく動けなくなったら施設でもどこでも連れてってくれっ!ていう方は少なくないんです。そこに対して、我々が50年以上の長い長い家族の歴史、積み重ね。関係性を崩すというか、変えるっていうのは非常に難しいです。その方、その家族に応じた支援をしていかなきゃいけないんですけど・・・。Bさんにとってはすごく短い期間ではありましたけど、色々な介護サービスを利用しつつ、ご主人の幸せそうな時間も確かに存在してたのかなと、話を聞いて思いました。「介護」が一概に大変だとか、悪い、ネガティブなイメージがある方もいらっしゃると思うんですけども、所々で、あぁーよかったなとか、すごくいい時間だったなって思えることがあるってことはすごく大切なことだなって思うんですよね。
 
佐藤:ありがとうございます。小嶋さんから他のご家族の事も含めても家族のサポート、とても大切だとお話いただきましたけれども、お二人とも実際に介護をしている間、ご家族の皆さんからどんな感じでサポートを受けていらっしゃったのか詳しく教えていただけませんか?

B:えっと、うちはたまたま今、単身赴任でこっちに来ている子がいることもあり、三人とも近隣にいるんですよね。だからいざっていうときはみんな駆けつけられるんですね。あと、私もラインをね、家族グループの入れてもらっていて。あのーなんか、ツーツーカーカーで。いろんなことを話せたりするし。ライン上で腹水抜くときの日程なんかもね、その日は僕が行って、帰りは、じゃあ、まぁ娘が行くとかね。そういうふうな段取りをちゃっちゃっちゃっとしてくれてね。私が入んなくても結構そういうね、子供たちだけでやってくれるし。そして、お父さんの食べたいもの、そういう、なに、どっか行ったらウナギを買ってきたんだとか、かにしゃぶになったとか。普段私は、かにしゃぶなんてめったに食べることないものをね(笑)。えーっカニしゃぶ⁉なんて言ってね、ぷるぷるしながら食べたりしたんですけど。ほかにも朝からたこ焼きなんてこともあってね。それで娘たちがタコ焼き器を買ったって言ったら、あぁ僕も食べたいって言ってて。朝からたこ焼きって言われても、タコがないよ、あれは生だし、腐っちゃってるよって(笑)。で、ウィンナーにしようかとか言って。そういう食べる事をね、なんか、みんなすごく気を遣ってくれましたね。一緒に食べようっていうのでね。そういう珍しい物を食べました。私もほんとにカニしゃぶなんて食べました(笑)。

佐藤:そういう風にサポートしていただいていたんですね。Aさんもグループラインとか使われてましたか?

 A:はい、あります。今はお父さんが施設に入って、面会の時も動画を撮り、その日のうちに家族全員が全部見られるようになっています。お父さん元気でよかったとか、全部様子が送られてくるんです。うちは子供が男三人で、全員嫁さんいるんですけど、ほんとにお父さんは家族に恵まれて幸せだなぁって思ってます。お父さんが倒れたのは77歳の時です。で、78歳のお誕生日の時は、自宅でお誕生日祝いしたり、施設に入ってからは一人部屋だったので、みんなで行ってますね。ほんとに家族って大事だなぁって、ものすごく、思いますね。でもそれは、家族だからすぐにできるってわけじゃなくて。子供たちがちっさい時から、それがすっごい大事だなっていうのは、今になって凄くよく分かります。だから普通は、お父さんがそうなると、子供たちはそんなに寄ってこないんです。でも、うちの子どもたち三人とその嫁さんたちは、よくぞやってくれたなっていう感じで。ほんとに感謝しています。

 佐藤:お二人ともご家族様の力が感じられるエピソードをありがとうございました。そろそろお時間的にも、締めに入っていきたいと思います。ここまでお二人からご家族のお話を細かくお話していただきました。Bさんに関しては、短い期間、急変もある中で介護をされていたと思いますし、Aさんに関しては、現在施設に入所されていらっしゃって、今もご存命でいらっしゃいます。お二方ともそれぞれに大変だと感じることも沢山あったと思いますけども、それを乗り越えるコツみたいなものがあれば、ぜひ教えていただけたらと思うんですが。何かありますでしょうか?

 A:乗り越えるコツ・・・主人の介護を通して、又、私の病も通して、すべて前向きに捉えていくってことがすごい大事だと思います。私の場合は次から次へといろんなことが起こりましたが、動揺することもなく、すべて前向きにとらえ、一つ一つに感謝です。だから清々しい気持ちです。 

佐藤:色々なことが有りながらも、それらに対して気持ちを前向きに持ち続ける事の大切さ、みたいなものがコツなのかなということですね。 

A:はい。 

佐藤:それではBさんはいかがでしょう? 

B:えっとね。私は、夫がね、そんな長くないなって医者からも言われてましたし。そういう意味ではなんか、もうその時点で覚悟はしてたんですね。変な言い方ですけど、腹水がどんどん溜まっていってて、減ってかないわけだから。治療はできないっていうことは、そういう覚悟はね、必要だなぁっと思ってたので。私はそのくらいから、少し昔を振り返ってたんですよ。夫の日記を読んだりしてね。つまり、あんまり私たちは自立、あんまりいろんなこと話す機会がなかったから。夫の日記やら手紙やら読んでて。それで、私にはこういう昔もあったんだなって。


変なことかもしれないけど、なんだろ。昔の青春時代ね。昔の若い頃、夫とこんなことがあったんだなぁって思い出してたら、ふっと、私ね、夫がね。愛おしくなったんです。何かほんとにね、なんだろ。昔の純粋な、純粋な?(笑)そういう、ね。夫との関係やなんかを思い出してね。あー、私はだから幸せだったんだなっていう風に。長い時間を振り返った時に、そっからスタートして、だから人生良かったんだって。この人は、自分のライフワークをちゃんと、ほんと、12月に最後まで終えたんですよね。自分で車いすで行きましたよ、もちろん。自分から、これで、この会場借りられなくなるから、このコンサート企画をこれで終わりにしますと。自分で最期を締めたんですよ。昔からそれをやりたかった人だったから、それを自分で締められた、簡潔したなって思ったので、だからこの人の人生はすごく良かったなぁって思うんです。私はこの人の人生をそう感じたんです。で、私も、まぁ一応も小さなヘルプはね、してたのかなって思って。人の人生をこういう時に振り返るってあんまり普段しないと思うんですよ、皆さんね。でもうちはもう、覚悟があったので、私自身はね。子供たちはまぁ、それほどでもなかった。私自身はやっぱり、この人の人生何だったのかなみたいなことで、古い物を見つけて。その時に戻れた。熱いものがありました。あっはっは!
 
佐藤:短い言葉でまとめることができませんが、ご主人との関係性で大切にしたいという想いと、介護の中で今後起こることをご自分の中で覚悟していけたこと、心づもりができたということが大きなコツなのかなと思いました。

B:はい。そうですね。
 
A:私は介護を通して目の前の人を思いやり、誠実に向き合い、温かく、繋がることの大切さを、主人の介護を通して、すごく感じました。私は元気の秘訣を持っています。それは、天声人語にありました、「キョウイク」と「キョウヨウ」を身に着ける事が大事であるといことです。それは頭の良い教育と教養じゃなくて。「キョウヨウ」は今日用がある、「キョウイク」は今日行くところがあるっていう。簡単な事ですが、それを自分に言い聞かせてます。だから病気が治ったら、もうじっとしてられないんです。もう動きたくて動きたくて。長年ボランティアもしてきました。杉森の納涼祭のみんなには、櫓を立てるときのご飯を百人分ぐらい、何年も作ってたんです。もう、ちょっとそこまではできませんが、動きたくなります。あと、病を通してですが、またここ(ボランティア)に帰ってこれるところがあるっていいなって。それが私の宝物です。すべてに感謝です。ありがとうございます。

佐藤:お二方ともありがとうございます。次の質問で最後でまとめようかなと思いますが、小嶋さんからも何かありますか?
 
小嶋:人として、奥様として、生きる一番大切なことを、このわずかな時間の中で、すごく教えていただいた気がしました。ご家族の支えっていうのが、お話の中にもありましたがやはりAさんやBさんのようなお母さんだからこそ、息子さんや娘さんたちが協力、サポートしてくれるのかなとすごく感じますね。ご家族も、近くに住んでるんだけど全然関わりがないとか、すごく遠方にいるんですけど、何かあったらすぐ飛んで来てくれるとか、関係性って距離の問題じゃなくて、心の問題だと思うんですよね。お父さんやお母さんのことをどう思っているのか、どう思っていくのかってことだったり。病気をきっかけにオヤジの面倒見なきゃだめだな、お袋のとこにたまには顔を見せてあげようかなとか。段々距離を縮めていって、最終的には家族と関係者皆で支え合っていける形が望ましいのかなって思います。そういう意味では、僕もちっちゃい娘がいるんですけど、自分の老後とかを考えた時に(笑)、自分の家族っていうのが、自分が死ぬまでそれを機能してほしいな、その家族という機能を全うしてほしいなとは思っています。面倒見てもらわなくていいんですけど、家族がお互いを大事に思っていけたらと思います。AさんもBさんも、ご主人のことを大切におもってらっしゃるんだなぁってものすごく感じて・・・涙が。涙なみだの話でした。
 
A:主人を大切に思わない家庭がすごく多いので。だからそれをすごく心配する面もあります。
 
小嶋:そうですねぇ。
 
佐藤:ありがとうございます。それでは最後の質問に移らせていただきます。今回、こちらを書き起こさせていただいて、『わたしの想い』として発行させていただきますが、『わたしの想い』を読まれる方へメッセージをお願いできればと思います。
 
B:えーっと、やっぱり介護は一人ではできないです。やっぱり皆さんの、まぁ地域のそういったね、専門家の人たちもそうですし。やっぱりいろんな方々と繋がって。一人で抱え込まないで。助けてもらって、甘えてもいいんじゃないかって思うんです。これからもっとサービス自体も良くなると思うし、だんだん、福祉用具でもすごく良くなると思うし。いろんな意味で、サービスがしっかり機能していくんじゃないかなって思うんです。だから一人で考え込まないで、とにかくいろんな人と繋がっていって、その、なんか甘える。今まで人生頑張ってやってきたんだから、甘えてもいいんじゃないかって思うんです。はい。
 
佐藤:ありがとうございます。
 
A:私はやっぱり包括支援センターができた事はすっごい良かったと思います。私、父と母を看てて、母が大変だった時に父も大変でした。自分で老健施設を探して、父が老健施設に入所しました。何十年も前ですから、まだ介護保険もできていない。又、包括支援センターもない時だったんです。その時、十何万円もかかるという話が出て。母はそんなに出せない。一人ではとても出せないと言ってて。お母さんだけじゃなくて、私たちみんな応援するからと納得してもらい、老健施設へ入所しました。今は包括支援センターができて、いろんなことを相談できるところがあるっていうのは素晴らしいです。父と母の事が無ければ、それほど思わなかったかもしれない。父と母の時に私はいくつもの老健施設を見て歩いて。で、自分で全部やらなくちゃいけなかったので。だから夫の介護を通して感じる事は、今、ほんとに相談できるところがあるって、すごくいいなぁって思うんですね。だから一人で抱え込まないで相談することが凄くいいことだと思います。
 
佐藤:お二人ともありがとうございました。読まれている方にもぜひ包括支援センターに相談していただければと思いますし、今いるケアラーカフェも、おひとりで気持ちを抱え込まないでいていただく為の場であったりしますので、冊子を読んでいただいた方ですね、お二人のメッセージと併せて、こちらのことも知っていただければなと思います。長時間に渡り皆様本当にありがとうございました。


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