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お寺の掲示板 【No.35/柊原のお寺・真宗寺/2024.1月】


真宗に学ぶ

以前勤めていたお寺で開催されていた「真宗入門講座」。そのキャッチコピーが「真宗に学ぶ」だった。そしてご講師が「《真宗を学ぶ》ではなくて、《真宗に学ぶ》ということが極めて大事なことなんです」とおっしゃった。

ある言葉と出会ったとして、その言葉からどのような心境が開かれてくるのか。その言葉が自己においてどのように実現されているのか。ここにあらゆる学問の力点がある。

仏教の学習とは、対象を抽象的に理解するだけに留まらず、その学びを腹に落とし込んで、またそれが自身の言行として表顕していくことまでが大切だ。

まあ、こういったことは別に仏教に限った話ではない。

例えば地元鹿児島のかつての教育方法論を訪ねてると、今から400年以上前に確立され薩摩藩独特の青少年教育である「郷中教育」では、勉強の初めと終わりに、島津忠良が作した「日新斎いろは歌」のひとつ、

「いにしへの道を聞いても唱えてもわが行いにせずば甲斐なし」
※意味: どんなに昔の賢人の教えを聞いても口で唱えても、それを実行に移さなければ何もならない

という歌を必ず3回唱えたという。

この精神の源泉は、郷中教育で学ぶ「儒教」の教えに基づくもので、特に、中国明代の思想家・王陽明の「陽明学」の命題のひとつ、 「知行合一(ちこうごういつ)」によるものである。

「知行合一」は『論語』の為政第二にある「先ず其の言を行い、而して後にこれに従う」が元になっており、知・行の両者を先後軽重に分別することはできないと考えられるのである。

また、郷中教育のテキストである五経四書の『書経』太甲上の言葉で、人口に膾炙する「習い性となる」という語にも似たような意味合いを感じる。

さて、話を戻すが、よく真宗界隈では「解学」と「行学」が伴わなければならないと言われている。「解学」とは学ぶこと、「行学」とは学んだことに生きること。学びを自身の血肉とし、その身体化した仏教が私の一挙手一投足に香り出すこと。

それが大事。そういう人に私もなりたい。

あ、もちろん「真宗を学ぶ」も大事だからね!



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