見出し画像

鹿児島ではお坊さんのことを「先生」と呼ぶ

※この文章はX(Twitter)に投稿したものの加筆バージョンです

● 鹿児島ではお坊さんのことを「先生」呼びすることが多い。もちろん他の地域でもある話なのだが、鹿児島はその割合がとても高く、また事情も独特なのだ。お坊さん同士でも「先生」呼びで、たまに他県の方に、「媚を売るな!」「弟子一人もあらずの法義において「先生」とは何事か!」とかの指摘をうけることも多々ある。

その方たちの意見もよく分かるんだけど、どうか鹿児島の文化なんだってことももっと認識されてほしい。

どういうことかと言うと、鹿児島は真宗禁圧の時代背景がある。

まず、僧分とバレるような敬称を迂闊に使えなかった名残で、より一般名詞的な「先生」呼びがよく用いられたという理由がある。

また、「在勤制度」が影響しているとも言われる。在勤制度とは、お寺を特定の住職家族が住持するのではなく、数年でお坊さんが入れ替わり立ち替わり、お寺を管理運営していく制度。鹿児島はかつてこの制度を採用している真宗寺院が多かったし、今でもそんなお寺は大谷派だけでも幾つかある。

門徒さんが主権的で主体的なお寺ってのは健全でもあり、同時に強権的で閉鎖的な場合もある。よそからやってきたお坊さんが門徒方にあまり気に入られず、数日で「チェンジ」、次から次にチェンジになるって話もザラにあった。

その際、使われる「先生」という呼称には、「あんたは地の人間じゃなかでな」という冷たさが籠っている。

この話題に限ったことではないが、「先生」と呼ぶのは一見相手を仰ぎ見ているわけだが、それだけじゃない。

師弟や所能の関係性とは、対等じゃないということである。差別や分断というのは、自分が高い所にいて、相手を低い所にやるばかりではない。相手を高い所に祭り上げて、自分はいやに遜るという型がある。

それと同じで、「平等覚」や「御同朋御同行」の宗旨にあって、わざわざ呼ぶ「先生」の語は、「あなたと私とは基本的に目線が違う。見てきた世界が違うし、爾今に見つめる景色が違う。所詮は余所者」というような冷淡さが「先生」の語のうちに籠っている。

いくら同じ場所にいて仲良くしていたとしても、真の仲間意識とか、心の彼此においてはあくまで「こちら側」ではないという、そんな線引きするような作用がある。

或いは現代でも、相手を馬鹿にしてあえて「先生」と呼ぶ場合もある。「先生」の語はそもそもそんな諧謔的なニュアンスを持っている、幅のある語だと押さえられたい。

加えて、在勤制度でどうせ数年で別のお坊さんがやってくるわけで、いちいち名前を覚えて呼ぶより、ただの「先生」で通したほうが楽ってこともある。

誠に失礼な例えだが、町の交番の駐在さんとか、行政や何かの会社のエリア担当者でも、普段関わりがなければ名前まで教えない人が大半ではないだろうか。そういう無関心も「先生」の語の中に潜んでいる。

もちろん、我々を教導してくれる存在という尊崇、欽慕の意味での先生呼びもあるし、待望した真宗解禁からの、歓迎の気持ちのあらわれの先生呼びもある。

現在の鹿児島での先生呼びは、もっとライトで薄味微臭だ。少なくとも悪い意味でもないし、相手を特別持ち上げるためでもない。ここでの「先生」の語は、そんな清濁併呑の環境が育んだ果ての、素朴な尊重心からくる「先生」なのだ。

私は年上年下関係なく初対面のお坊さんを「先生」と呼んだりするから、他県の方から、先生呼びするのをやめなさいとか、やめてくれと何度か言われたことがある。何度かというのは、それだけ素に染みついたものだということ。

さて、ここでちょっと脱線だが、上に記したように、私や私のまわりは、年下のお坊さんでもその人を「先生」と呼ぶことがある。一般に、先生とは大概「先に生まれた人」であり、年上の存在という認識があるだろう。しかし、たとえ年下でもその道を先ゆく人なら「先生」だ。

もっと言うと、歳の後先やキャリアの前後に関係なく、互いが互いの「先生」となり得るという考え方も出来るだろう。真宗の中には「導師」という呼ばれ方を忌まわれる方もいる。その理由のひとつに、「私なんかが誰か人を導けないから」というお声がある。 

そこに共感もしつつ、私は、導くとは賢さを以てのことだけではない。愚かさにおいて導くということがあるはずだと思っている。人間、人の手本になるのはなかなか難しいが、見本になるのは誰にでもできる。

そしてこれは開き直りとは違う。「愚かさに導いてやろう!」と息巻くなくたっていい。そのままでいい。自分で画策はからい催さずとも、本地の鈍愚さが自ずと誰かに気付きを与える。我々は同行同朋。同じ境涯で、煩悩を同じくする同士だからこそ、互いの愚かさが「先生」になるし、「導師」になる。

人にみちびかれ、人をみちびき、善友となりて、知識となりて、たがいに仏道を修せしめ、ともに迷執をたたん。と思う。

閑話休題。

様々な観点での先生呼びの課題もあるわけだが、鹿児島という土地柄に由来する先生呼びの文化を知らずして、頭ごなしに否定されるのは、ちょっと故郷まで否定されてる気にもなっちゃうのだ。

さてさて、ここまでは私の勝手な言い分。世に先生呼びを罷り通したいってわけじゃないけど、先生呼びの或るひとつの歴史的経緯を知ってもらいたいなと思ってのこと。みなさんはお坊さんのことを「先生」と呼ぶことにどんな思いをお持ちでしょうか。教えていただければ幸いです😊

サポートしてくださったら、生きていけます😖