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どうしたら自分の思考を深く表現できるのだろう。
自分では、自身の思考を深く洞察できる人間であると思い込んでいた。ところが、いざものを書き始めるとそうではないことに気づかされる。

どのようにしてそれに気づくかというと、ふと止まった時、である。
文章を書き始めると、はたと止まる時がある。自分が何を表現したかったのかわからなくなったときだ。
ついさっき、書き始めたときや、書き連ねているその最中には確かに”ココ”にあったはずの”もの”が、読み返してみると一向に表現されていないことに愕然とする。あんなに美しく素晴らしいオーラを放っていた”それ”らが、いつの間にかただの鈍い酸化鉄と化してしまっているのだ。あの美しき”もの”たちは、一体どこへ行ってしまったのか。
ふと目をつぶり、自分と会話をしてみる。ここでの会話は、日本語に近いが日本語とも微妙に異なる言語を用いている。やりとりの枝葉には日本語が確かにあるようだが、どうやらその幹に当たる部分には、日本語とは異なる、流れのような、イメージのような、感覚のような、そのようなものの存在を感じている。

脳内という私の小宇宙では、止まることなく無数の文字列たちが浮遊し続けている。にもかかわらず”私”はその文字列たちを適切に捕まえることができない。おそらくこの文字列と思われるものたちもまた、実際には明らかな日本語としての文字列ではなく、日本語のように見えるイメージや抽象物の集合体なのだと思われる。
明らかに浮遊しているそれらを、どこかからか”私”が見ているのだが、神的視点から見ているに過ぎないのか、その集合体たちが目の前をただただ流れていく。できることといえばせいぜい視線を動かすくらいだ。
まるで、空腹の昼下がりに、太陽の光を浴びながらキラキラと流れていくそうめんたちを、カメラ越しに見ているような感覚だ。

果たして、エッセイや論文、自著などで自分の意見を述べる方々の文章は、いかにして紡がれているのだろうか。
私の場合における浮遊文字たちは、その方々の小宇宙内にも存在するのだろうか。そうだとしたら、有名作家たちは、その浮遊物を捕まえるのが上手いのだろうか。あるいは、浮遊物を観察するにふさわしい眼鏡や望遠鏡、双眼鏡のようなものを持っているというのだろうか。

脳内に何がしかのイメージが浮くことがある。
しかしながら、それが一体どのようなものであるのか、この実体世界内に存在する要素のみで語ることは、あまりに難しいように思われる。
無限の可能性を持つと思われるこの実体世界にも、どうやら限界があるらしいのだ。
どのような限界かというと、まず文法という枠に囚われないと文章が書けない。また、単語という枠組みにある程度の意味合いをおさめないと、そのものを表すことができない。絵にでもすればこの世界にあるものをある程度表現することはできるが、それでも抽象物は絵にすることも難しい。どうやら脳内の小宇宙に存在する”もの”は、実体世界における「表現」の範疇を超えているらしい。

例えば、子供と接していると「わからない」「めんどくさい」という言葉をよく耳にする。これらは、多くの場合、大人が予想する意味合いとは異なると私は思っている。一般的に大人になるにつれ語彙や表現力が高まるため、自分の中にあるわだかまりを表現する方法が自然と増える。しかしながら子供はまだそこまでは及ぶまい。すると、大人が「胸が詰まる」だとか「不信に感じている」とか「やりたい一方で物理的には難しいだろうと考えている」と表現できることは、子供にしてみれば全て「わからない」「めんどくさい」と表現されてしまうのであろう。実際に、以前こんなことがあった。とある子供と関わっているときに突然「こわい」と言われた。子供は、ある箱を開けようとしているところだった。その箱はびっくり箱ではないし、透明なケースで中が空であることは子供もわかっている。怖がる理由がない。腑に落ちぬままその後に母親に確認すると、「うちの子、困ったときに「こわい」と言うんです」と言われて納得した。その子は箱が開かなくて困っていたのだ。
このように、発言者がまだ語彙、表現力に乏しい場合、表現されているものの持つ意味はどんどん幅広く大雑把、低解像度になっていく。

とすると、私たちは本来もっと細かく微細に表されているであろう小宇宙の美しきものを、この実体世界においては、本来の意味をかなり剥奪し、解像度を落としまくって、かなりの語弊を恐れずにこの世界の文字列として表現せざるを得ないことになる。なぜ神はそんな世界を作りたもうだのだろうか。

別の視点から考えてみる。
微細に表されているものを、同じ解像度で微細なままこの実体世界でも伝えられるとしよう。そこには、とりあえず大雑把にする、つまり高解像度のものを低解像度にわざわざ変換する理由はないとする。微細に表現できる解像度を全員が持っているとしたら、その世界では「大雑把にする」理由がないから、きっと解像度の高いものをわざわざ低くすることはないのではないだろうか。すると、「意味を外す余地」がなくなるのではないか。
大雑把に捉えてしまうことで生まれるデメリットは、意味を取り違えてしまうことであろうが、裏を返せばそれは別の意味に捉えるだけの余地がある、ということになりはしないだろうか。
「外す余地」があるからこそ詩や和歌・短歌といった文化が広まるのではないだろうか。解釈の広がりの余地は、議論を生み、視点を与え、味わいをもたらすと言えよう。

もしかしたら、わざわざ解像度を低くしたいものには「見たくないもの」もあるかもしれない。汚らしいものや、向き合いたくない現実は、なるべくピンボケしていて、見ずに済む場所にいて欲しいものだろう。そうだとすると、この実体世界には見たく無い現実という、なにか汚らしいものが常に存在していることを肯定せねばならないことは少し辛い気もしないでも無い。
実際、目を背けたくなるようなことが存在するこの世界で生きるには、顕微鏡や双眼鏡を使わないと正確には見ることができない「視力2.0」くらいが案外ちょうどいいのかもしれない。

実は、最近よく考えることに「現代こそ余地が必要」というものがある。
移動技術が発展し、遠くまで短時間で、分単位で正確に時間を計測しながら移動することが可能な時代となった。そして、それが計測のみならず、予定として全世界に公開され、デバイスさえ持てば誰しもがその情報を随時受け取ることが可能となった。情報の内容も授受の方法も精密・短時間になったのだ。するとどうだろう。解釈の幅がなくなり、全ての道はほぼ一本道になってしまった。遅刻したとして、それが電車の遅延なのかどうか判断できるようになってしまった。手紙を読んだのか読まないのか、そもそも着いたのか着かないのかわからないこともない。既読がついているから「読んだ」ことがはっきりとわかってしまった。
精密で正確な情報に囲まれた結果、私たちは不安を覚えるようになった。正確でない自分を許せなくなった。自分の本音を隠せていた森や林や木々たちが、いつの間にか伐採され、自分自身が顕になってしまった。見えないからこそ、わからないからこそ、はっきりしないからこそ互いに暗黙の了解としていた様々な免罪符が、太陽の下に晒され、灰と化してしまった。その感覚はまるで、透明な家の中に住むようなものだろう。いつでも気が抜けず、360度その全てに気を張る日々。どこから自分のミスを指摘されるのかを恐れ、間違わないように間違わないように、石橋をどれだけ叩けるかのゲームを続ける毎日となったのだ。技術が進歩した今、私たちは自分で自分の首を締め始めている。


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