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どうしたら自信が持てるのだろうと悩み続けてきた

いつも自信がなかった。どうしたら自信が持てるのだろうかと悩み続けてきた。
今、突然にその答えのようなものが降ってきた気がした。

今、目の前の机には、約40冊の本が三列に積み上がっている。その中にはビジネス書、歴史小説、あるいはエッセイなどがある。先ほど何の気なしに、その中の一冊「歩きながら考える」というヤマザキマリさんの著書(中公新書ラクレ)を手に取ってペラペラと読み始めた。そこには、コロナ期におけるヤマザキマリさん自身の体験、変化などが綴られていた。

人が書く文章のうち、意見に触れた時、毎度強く思うことがある。

「どうしてここまではっきりと意見を押し出せるのだろう」

意見は、そこに顕わしてしまえば二度と取り返せない。そこに偽りが入り混じっていたら大変なことになるのではないか。自分の意見によって他人を間違った方向に煽動してしまったらどうするのか。どう責任を取るのか。
人の意見に触れるたび、私の中にはそういった、己では如何ともし難い炎渦巻く感情が湧き起こる。これは、著者を批判するものではない。己自身を焼き払ってしまうような類のものだ。内に湧く炎は、そのままではどうにも熱くて辛い。どうしたらこの渦巻く炎を消し去り、自分の意見を世に出すことができるのだろうかと、己に問いかけてみる。

果たして、「偽り」あるいは「間違い」とは一体なんなのだろうか。
間違いは、正解の裏返しだ。とするならば何が正しくて何が間違いなのか。間違いを探すには、正しいものを探せばいいのではないか。では、としばらく脳内の探索に出てみる。最も間違いがない世界といえば、それは科学ではないかと思う。大概のデータは理科年表に記載され、そこにはわかる限りの「正解」が存在している。惑星の大きさや名前、様々な定数などなど、膨大な情報がそこに詰まっている。しかし、時として科学の世界ですら、その「正しさ」を修正することがある。最も衝撃を受けたのは、冥王星が惑星から準惑星へと変わった時だ。この地球が生まれて続く限り変わることがないと思っていた事実は、人間の身勝手なルール変更により、簡単に変わってしまう現実と出会ってしまった。そうなのだ、そもそものルール自体も人間が勝手に作っていたのだから、そんなの変更なんて簡単だ。変わらないと思っている方がおかしいのだ。私にとって動くことがあり得なかった「正しさ」が、このときガラガラと音を立てて崩壊していった。

今度は概念的な正しさについて、一つ例を挙げてみたいと思う。それは「殺人」の是非だ。
最近日本史、特に江戸期について学んでいるが、この時代はまだ仇討ちが許されていた。いや許されていたどころか、江戸初期、武家にとっての仇討ちはむしろ必須で、終わるまでは家に帰れないくらいに重要なことであったらしい。お家から生きていくための仕送りもなされ、それを各地で受け取りながら浪浪と、時には何年も仇を探して歩き回るらしい。この時代、殺人が奨励されるどころか義務化されていたのだ。また、悪人“と思しき人物”に対する拷問も普通であったらしい。その拷問の種類も少し調べればすぐにたくさん見ることができる。なかなかにむごいものもある。殺人も拷問も、どちらも現代では即「間違い」と言われる行為だ。

さて、正しさの大御所といえば数学だ。ここを外すことはできないだろう。と言いつつ、科学の前に数学を持ってこなかったのには、実は迷いという理由があった。数学には間違いがありえないと思っていたからだ。しかしながら、せっかくなのでここで取り上げながら、「正しいとは言い切れない」と思われることを検討してみたいと思う。

数学の世界では正しいか間違いかは、常にはっきりしているのではないだろうか。数式計算だけ見れば、確かにそう言えるのかもしれない。例えば「1+1は?」と聞かれたら「2」しか答えはないのだろう。しかしながら、これはあまりに多くの人類が共通認識しているからこそ成り立っているだけであって、まだ数字を知らない人間であったり、それこそ江戸期にアラビア数字が入る前の日本であれば漢数字を用いていたわけであるから、「1+1=2」が正しいかどうかは見た目上判断できないに違いない。
では文字列的意味合いではなく、概念的意味合いからも考えてみよう。一つのものと一つのものを足したら二つのものになることは当然だろうか。これはさすがに動かし難いに違いない。しかし、ここでも一石を投じてみたい。それは「単位」の概念だ。一つと一つを足したら必ず二つになるのだろうか?数学の世界のルール上はそうかもしれないが、例えば一つのクッキーは叩けばカケラとなってみかけ上の数が増える。液体は一つのコップの中身ともう一つのコップの中身を足したら、二つではなく「量が増えた一つ」となる。蟻一匹と蜂一匹は、「足したら二匹」と数えていいのだろうか。なんだか少し違和感が残る。

以上のように、どうやら考えても考えても、この世界には常に動かし難い正解なんて何一つ見つからないのかもしれない。
わざわざ言葉としてこう表してみると、どこかで何度も聞いたことのあるようなこの文字列たちは、己の中に深く深く滲み入るとき、初めてその威力を発揮する。そう、正解なんてないのだ。

改めてこのことに自力でたどり着いた今、ふと内側を感じてみる。己の中に、ほんわかとした自信のようなものが漲っているのがわかる。
ここにきて今思うことは、「何を書いてもいいんだ」ということ。何を書いたとしてもそれが己の意見であり、その意見を書く人は、1文字もずれないという意味では、この世界に己一人しかいない。そこには正しいも間違いもなく、あるとすれば肯定か否定、あるいは賞賛や批判だけだろう。何を書いてもいいのだ。
自分が考えたこと、その意見や思いのそれぞれが、尊いものだったのだ。

答えなんか、ないんだ。


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