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自意識過剰なのか【思考メモ】

2023/01/26
なんで、自分の思考が、あるいは意識が、こんなに自分の内側に向いてばかりいるのだろうかと、それがとても気になることがよくある。

逆に他の人のブログや記事なんかを見ていると、どうしてそこまで自分の方に意識が向かないのかととても不思議に思う。


ところで今この文章は、またしても、音声入力機能を使って入力しているけれども、キーボードを使って手で入力をしている時と、自分の声を使って自分で喋って入力している時とでは、おそらくアウトプットされる内容が違うだろう。


講師として仕事をしていることもあって、喋ること自体は得意ではあると思うのだけれど、例えば、数学の問題の解き方を説明するとか、公式の使い方を説明するとか、説明することにおいては、あまり迷いもなく話すことができるのだけれど、自分の思っていることや、自分の脳内を整理しようとすると、突如として思考はその機能を停止し始める。迷いたくないと思う自分があまりにも大きくて、その意識が強いせいなのか、私はあまりにも迷う。この文章を声を使って入力している今この瞬間においても、途中途中1秒や 2秒や数秒間の間をおかずにはいられない。この間と言うのは、すなわち迷いの時間だ。迷わない人間なんているんだろうか。いつの頃からか私は迷いたくないと強く思うようになった。だけれど、いまだにまだまだ迷い続けている。


自分の意識の向く方向が自分に対してというのはどうなんだろう。自意識過剰なんだろうか。それともこの状態を羨む人もいるのだろうか。目線が他所に向きすぎて、自分になかなか向かないという人もいるのだろうか。もしそうなのだとしたら、先日書いた記事の中に出てくるように、この世界はあまりにも自由を与えられているので、その自由の中において、私という人間は、たまたま自分に意識が向きやすい人間としての特性を持っているに過ぎず、他者に目がよく行く人は、ただただそういう特性を持っているに過ぎないということなのだろうか。もしそうだとするならば、やっぱりこういうのはただただ考えすぎなのかな、と思える自分もやっと育ってきたのかなと思う。


この音声入力によるブログのような記事の書き方は、完全に背筋が伸びるわけではないけれども、誰もいない静かな部屋の中で、ゆっくりとした呼吸の中で、まるでしゃべる瞑想のような、なんだか何かとつながっているような、それでいて、丹田に温かみを感じるような、そして少しのどっしりとした感覚、落ち着いた感覚を得られるような、とても不思議な感覚を得られるものである。


もう少し何か書こうかと思ったけれども、なんだかいらぬものを自分の中から無理矢理ひねり出そうとしている感覚がしたので、今日のところはこの辺で筆をおきたいと思う。(筆を置くと言うよりは、口を閉じるかな笑)

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