読書ノート 「はい、泳げません」高橋秀実 新潮社

「はい、泳げません」高橋秀実 新潮社
全く泳げなかった「僕」は、スイミングスクールに通う。僕にとって、プールは、恐怖の場所、よそよそしい場所。スクールに通ううちに、陸上で歩いて、走って、暮らすように水の中にいられる、水のように、魚のようになっていく。その過程にいたのはコーチ。しかし、コーチが話すことは全く意味不明。
こんなコーチいたら楽しいなぁ。
「水をかこうとしないでください。」
「死体と同じです。力を抜けば浮いてくるんです。」
「考えちゃダメです。何も考えないこと。泳ぐのは歩くのと同じです。
歩く時、右、左と考えますか?」
「リラックスしようとしないでください」
「いいですか、水中では何かを見ようとしないでください」
「見えるだけでいいんです。見ようとしてはいけないんです」
何かを「する」「こうしようとする」という動作を排するようにとコーチは言う。
泳げない人からすると、「はぁ??なにいってんの?」だ。
前に進まないなら、「かかなければ」前には進まないはずである。
コーチが言っているのはどういうことか?
一旦言葉を自分の中に入れる。
そして、自分で試してみる・・あれ、確かに「浮いている気がする・・」と
コーチの言葉と、自分の中で逡巡する、やってみるを繰り返しているうちに、いつしか僕は、「故意ではなく過失で泳ぐ」ことに気づく、この気づきの境地。そうそうそういう感覚・・!

こんなことは、「らくらくあなたもマスター!すいすい泳げるようになる本」という本には書いていない。水泳の教本の本って、超わかりにくい。水中で身体を動かすのは、3次元の世界なのだが、2次元の絵と、言葉では全くイメージができない。例えば、「クロールでは、重心を前にもってくるようにかく」なんて書いてあるが、「重心とは何か、重心を前に持ってくる感覚」は何かわからない。
 そこで、本書に出てくるコーチのような人は、その言葉を色々な表現で言い換え、問う。普段泳がない人には、よくわからないかもしれないが、「何も考えないこと」とか、「リラックスしようとしない」とか、本当にその通り。
「何かをしよう」とすることで、身体に力が入る。何かを考えると、身体にフォーカスしなくなる。水に溶けていくように泳ぐこと。コーチの意味不明な哲学的な言葉をもらう。混乱に陥る(笑)混乱しても、やってるうちに、「あ・・」と、コーチが言っていた感覚に辿り着く。そのように、言葉と試行錯誤の往復がうまくなっていく過程。その感覚がわからないうちは、コーチの言っていることはもどかしい。「もっと具体的に、フォームをどうしたらいいか教えて欲しい」と思う人もいるだろう。自分の身体と人の身体は違うから、フォームをどうしたらいいとは一律には教えられない。自分の中の「感覚」で確認するしかない。「らくらくあなたもマスター」のような本のように教えていない。それにもかかわらず、水泳の本よりも、水泳とは何かについて示唆的で、哲学的なやりとりが面白い本だった。

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