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人に合わせる=自己犠牲というカン違い

写真は新潟で見た日本海の夕日です。

虹の写真いっぱいアップしたら、シンガポールの友達から「虹みたいな日輪が出たよ」と教えてもらった♪


この前、誰でも奇跡が起こせるんじゃないかってことを記事に書いたんだけど、

その後、ブログを一度noteに変えてみるってお知らせを旧ブログにしたところ、

その日付がまたまた奇跡的で自分でもびっくり!

何だか今の自分のしてることが間違いじゃないような気がして嬉しくなりました(*´▽`*)

ちなみに、奇跡的なことってどうやったら起きるのか?っていう法則的なことは、今まで作ってきたいろんな本にも載ってるし、これからも作っていくつもりです(*‘∀‘)

↑これまで携わった作品はこちら。

本の著者の皆さんはそれぞれいろんな経験をされて、いろんな考え方がありますけど、その中に共通する宇宙・自然の法則みたいなものがあると思うので、

それに気づいたら法則を真似するってことが、奇跡が訪れる体質になるためのコツかもしれません。

時々、法則ではなく誰かの行動とか考え方そのものを真似するあまり、自分自身の正解から外れちゃうこともあるので、その辺は要注意かなと思います。

私もこの前、ちょっと自分の中の正解を見てなかったなあって思うことがありました。

ある時数人の人たちでご飯食べに行くことになったんだけど、「どこ行こうか」って話になったらみんな「AでもいいしBでもいいし何でもいい」みたいな感じだったんですよね。

そういうときって、「本音ではAが良いと思ってるのに遠慮してるのであって、Aにしたいという自分の本音を言いましょう」って聞いたことがあったから、みんなが人に合わせてるのが良くないことのように思っちゃったんですよね。

でもその状況をよく考えてみると、自分もだし、相手も本当に何でもいいとかどっちでもいいって思ってるみたいだったんですよね。

つまり、そのときの本音って何?って考えると、「みんなで一緒に楽しむのが目的だから、場所はどこだっていいんだよ」だったんです。

そんな時、もし自分ではしいて言えばAがいいと思ってたとしても、Bに行きたいって人がいてBに行ったってきっと楽しいだろうと思う。だって一番の目的が自分の好きな場所に行くことじゃなくてみんなで楽しむことだから。

実際に自分の経験を振り返ってみても、それでBに行った場合は楽しめることがほとんどで、Bに行ったからダメだった、みたいな経験が思いつかない。

その日も結局行ったところが混んでて別のところに行ったら、すごく楽しくて、結局成り行き任せで正解だと思いましたw

もちろん自分が本音で今日はAに行きたい!とかBは嫌だ、って思ってたらそれは遠慮しないで言ったらいいと思う。
自分の本音を知ってそれに従ったり、人に伝えることは大事。

だけど、何が本音かは人それぞれであって、自分の本音=自分の好きなものを選ぶ、ということだけとは限らない

例えば、子どもに「遊園地行きたい」と言われて、よっぽど「遊園地なんてムリ、虫唾が走る」って理由とかがなければ、特に興味なくても、「まあ遊園地行ってもいっか」と思って連れていく親って多いと思います。

そんな時、楽しんでる子どもを見てたら親も嬉しいし、遊んでみたら案外自分でも楽しめたなあ、なんて思ったりしますよね。

逆に例えば友達と旅行した時に「美術館行きたいな」って言ったら「えー美術館? 興味ないけど、でもあなたが行きたいなら行ってもいいよ」って一緒に付いてきてくれたとして、行った後に、「へ~絵を見るのって案外楽しいじゃん。また美術館行きたいな」って友達が喜んでくれたら、何だか嬉しくなったりしませんか。

自分だけで楽しむこともいいけど、人って案外、誰かと楽しい体験をシェアできたとき、そこに最高の幸せを感じてしまったするわけですね。

人に合わせて相手の気持ちを優先させることが自分の本音とは離れていたら、それは自己犠牲であって不幸なことかもしれないけど、「誰かと一緒に楽しみたい」が一番の本音だったら、決して不幸ではない。
むしろ逆に、相手が幸せだと自分も幸せに思えたりする。

だから必ずしも「何でもいい」とか「どうでもいい」が良くないってわけでもないのに、それが本音ではないんだと勘違いしてたようです。

当たり前だけど自分の本音と人の本音は違う。これからはもっと本当の自分にとっての正解を見つけていきたいな、って思いました(*‘∀‘)


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